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【アートの支店 #04】 アートのテイギを広げる:「状況を観察する」の巻

「必需品ではないアート」を考え直す

「アートなんて必需品ではない」というのが口癖でした。しかし周りの人と話す中で、またコロナの中で自分のやってることを問い直す中で、果たしてそれは本当なのか、もう一度考え直し、もう一度発信しなおそうと思っています。

実は僕だけではなく、他のアーティストたちからも「アートは必ずしも必要なものではない」という言葉が聞かれます。これは食べ物や住居や、人間の生活に関わる産業と比較してアートは生活に直接的に関わるものではない、という意味で確かにそう「かも」しれません。衣食住に関わる業界と比べたら、アートで収益を出すのは難しいし、需要と供給という論理では説明できないものであることも事実なの「かも」しれません。でも今、人々の心のあり方、アートのあり方が問われる重要な局面であるからこそ、この「かも」を疑うことが大切です。一つには、この「かも」という前提を疑うことが、アートと人々の関わりにポジティブな一歩をもたらすのではないか。そして一歩間違うと諦めとも取られかねないメッセージをアーティスト自身が発していることはみんなにとって果たしてプラスになるのか、という2点が問題意識としてあります。

そもそも「アート」とはなんなのか。幼児期にお絵かきするのはひとつの創作といえるし、僕が小学校でならった美術の授業は初めてアートの巨匠の作品に(教科書上ですが)触れる機会でもありました。高校になれば、ぽつぽつとアートの道に進んでゆく友達がいたし、僕も自分で好きな音楽や写真を調べはじめました。そのうちに部活で演劇やダンスに関わったり、美術館にも通い出しました。今、振付・演出の道を選んだ人間として、物心ついた時からアート(つくること、作品にふれること)は自然とそこにあったし、それを通して仲間ができ、喜びを感じるようになりました。

一方、大人の目線で見ると、「アート」は感性を磨く教育的なツールでもあるし、教養、または一種の嗜みでもあります。映画やライブ、小説など、仕事の時間とは区別される時間に、豊かさを与えるものとして位置付けられるかもしれません。行政にとってアートとは、国民や市民に美術館という文化的、知的交流の場所を提供するコンテクストであり、経済とは別の形で提供する豊かさであり、他の国に自国の文化を紹介するツールであり、国際的な人材、アイデアを呼び込む機会でもあります。

こうした幅広い意味合いの中で一口に「アート」と言っても、何をいいと思うか、何を有意義と感じるかは人によって千差万別で、確かに「衣食住」の必要性とは少し毛色が違う議論のようです。

「個」の時代のアート

人類の歴史の中で、人は多くの物をその手で作り出してきました。火を起こす道具、狩をする道具といった「食べるため」に直接関わる手仕事だけでなく、壁画を残したり、装飾品を作ったり、日々の生活の中でも労働以外の時間に喜びを見出したいという自然な欲求が、演劇や音楽、絵画などの文化を後押ししてきたのだと思います。あるいはそうしたエンターテイメントとは別のコンテクストで、時の為政者や戦争への反対の声を表現するツールとして、生まれてきたアートもあります。「力」に対して「力」で対抗するのではなく、言葉によって、表現によって、ユーモアや、悲しみや、皮肉や、連帯を、押し付けるのではなく、受け手に問いかけ、議論の機会をつくり、感情や感性を喚起させることで人々の自発的な思考を引き出してきました。そしてそれは人間社会の重要な要素として尊重され、アーティストも一つの職業として認知する国も増え、教育システムの中にも取り込まれ、経済的な成功を夢見てキャリアを歩む人も増えました。

ひとつ難しい点は、本来、暮らしの中に生まれてきたアートに対し、それとは関係のない動機(あるいは個人的な動機)でアーティストになりたい人間が増えたことです。あるいは、権力に対して声を上げるためのツールとしてアートが生まれるのではなく、キャリア上の成功を目指すアーティストが、成功のための戦略として「政治的なテーマ」を選ぶようなことも一部では起きています。しかし個人的な動機も切り捨てられるべき物ではなく、個のアイデンティティを追求するアートは社会全体の意義としても捉えられ、アートの形は人の数だけ派生している状態です。アメリカやヨーロッパはその様々な派生の仕方を多様性として捉え、支援してきました。しかし「個人」という単位が重要視されがちな現代のアートの現場は、社会全体との関わりをいつも問い直さなければいけないし、その存在意義もあやふやになりがちです。

アートのカタチ

アートが「つくること」「作品にふれること」あるいは「あそび」だとすると、そういう機会が奪われた暮らしというのは、もっと直接的に効果のわかるものだけで出来上がっていきます。例えば食事なら、毎日ほぼ決まったものを食べ、できるだけ失敗のない、ルーティーン化したものになります。色とりどりの野菜を並べたり、献立を考えたり、新しい料理を創作することは、どんな直接的な利益や効果を与えてくれるのか定かではありません。ですがアートとは、こうした不確かなチャレンジを許容する場所であり、社会や暮らしに余白を与えるものだと思います。チャレンジの芽を摘みとる「効率性のマインドセット」は驚くほど社会には蔓延しています。お金があることが成功であり、効率性が保証されない場所を許せるほど余裕がない、それほど社会は精神的に切迫しているのだと思います。これだけ物質的に満たされている日本でさえ。

だからこそ、アートの重要性を伝えたい。そのためには、アーティスト自身が「自分だけの成功」というマインドセットを疑うべきだし、社会も効率性だけを求めることがいかに苦しいことか、一度立ち止まってみるべきなのかもしれません。でもこうしたメッセージを人々に送ることも、今日では難しい問題です。「アートは重要だ」と言っても何もリアリティがない。だから経験してもらって、楽しんでもらう。そのためのアイデアを惜しみなく出すべきです。アートのカタチはどんどん変わるべきだし、アートはどんどん利用されてよいのだと思います。「あそび」を通じて生まれた人間的な繋がりや豊かさは、「衣食住」と同じくらい大事だ、ということを実践を通して証明していかねばなりません。「衣食住」の重要性は、医学や物理や経済学が証明してくれるかもしれませんが、「あそび」の重要性はまだ十分に説明されていない。アーティストに課された使命は大きいと思うし、暮らしの中の「あそび」にぜひみんな参加して欲しいと思います。

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