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職人文化がのこる町

企業と個人のお付合い、いわゆるBtoBやBtoCではなく、個人による個人のための仕事CtoCが注目されるようになってきました。もはや言うまでもなく、工場で大量につくられた製品に飽きて、自分らしいものを求めるようとする消費者が増えているのです。たとえば気に入った革職人の鞄を買って、その職人に修理も頼む。値段は高いけれど、信頼できる作家に頼めば自分にあったものができるので満足する。アフターケアも万全です。このように個人と個人が密接な関係をもっている例は少なくありません。とはいえ、これが世の中のビジネスの形の主流とはいえず、一部の「おしゃれな人」の生活として認識されているのが現状でしょう。

しかし、個人が個人に仕事を頼むのは、かつての常識でした。近代化・工業化の以前、家を建てるとき、よく顔の知っている大工に頼み、建具は建具職人に、家具は家具職人に頼んでつくってもらいました。家ができてからも、事あるごとに職人に頼む。あらゆる分野に職人がいて、職人が身近でした。しかし工業化が進み、職人文化は衰退。いまでは職人の知り合いが一人もいないという人も珍しくはないでしょう。


職人文化が残る町


ところが富山県の南西部、南砺市井波(旧井波町)には職人文化が残っています。ここは木彫刻の町として知られ、人口約8000人のうち約200人が木彫刻師です。ほとんどが男性なので、単純に考えると町の男の20人に1人は木彫刻の仕事をしていることになります。

工房は通り沿いにあり、町を歩くと数十メートルごとにコンコンという音が聞こえてきて、窓越しに職人がノミや彫刻刀を使い繊細な造形をしている様子が見られます。こういう町ですので、彫刻師の知り合いがいるのは当たり前。顔の知っている職人に彫刻を頼むことがいまでもあるといいます。


職人文化が残る理由


なぜ全国的に職人文化が衰退したいまも井波には200人の職人が残っているのか。その理由は次の3つです。

1. 職人と消費者が直接つながっていたから
2. 70年前にはすでに後継者養成制度を確立していたから
3. 職人の仕事を生む文化があったから


職人と消費者


一般に商品はメーカーから問屋を介して消費者に届けられます。消費者からの要望は販売店が拾いあげ、問屋がそれに合う商品をつくるようつくり手に伝えられます。問屋を介さずに商品を売るのはタブーとされ、新商品の開発や独自の販路開拓は認められませんでした。その代わり、問屋の注文を受けていれば生活は保証されていました。ところが井波彫刻にはむかしから問屋制度がありません。つまり井波彫刻の職人は商品を自分の手でお客を開拓して販売しなければならないのです。

そもそも井波彫刻は瑞泉寺というお寺に宮大工が彫刻を施したのが始まりです。その見事な彫刻を見て、周囲の寺院もうちにほしいと職人に彫刻を依頼するようになりました。今度はその寺院をみて家にもほしいと言われ、彫刻が発展し始めました。むかしは冠婚葬祭を家でしていたので、客人に彫刻を見せる機会がありました。

そうなると見栄から「もっと豪華な彫刻をしてくれ」と職人に頼むようになりました。これがだんだんとエスカレートして、ついに超絶技巧の域に達しました。このように井波彫刻はお客との直接のつながりがあって発展した歴史があり、それはいまも同じです。問屋がない背景には、彫刻が大量生産に向いておらず、必然的にオーダーメイドになるという特性があるからですが、結果的に現在まで職人とお客の結びつきを強め、新しい商品・作品を提供し続けることができました。


70年前からある後継者養成制度


後継者不足が叫ばれる現在。その70年前には井波では後継者養成制度が確立されていました。伝統工芸の世界、とくに師弟制度がある業界に踏み込むのは簡単ではありません。まずは自分が理想とする師匠を探し、その師に頼み込んで弟子入りさせてもらいます。弟子入りした後も怒鳴られながら背中を見て技を盗むというのが一般的です。

ところが井波では自立した後継者を養成するため、戦後間もない昭和22年に「井波木彫刻工芸高等職業訓練校」が創設されました。仕組みはこうです。まず井波彫刻の世界に入りたい人は彫刻組合に行きます。すると組合が弟子を募集している職人を紹介してくれるのです。弟子入りをしたら、普段は親方と生活を共にして技術を見て学びます。しかし、親方にも仕事があるので、基礎を教えている余裕はありません。そこで、週に一度学校でデッサンや彫刻の基礎を教えるのです。一人前の職人にも得意不得意はありますが、学校で共通教育を行うことで、どの弟子も一定水準の基礎を習得することができるのです。こうした制度のおかげで、井波彫刻の技術は今日まで受け継がれてきました。


職人の仕事を生む文化


富山県内の民家には欄間(天井と鴨居のあいだに設ける開口部)があり、そのほとんどが井波でつくられています。正月には天神様といって菅原道真の木彫りの像を飾ります。信仰心の強い家には仏像があることも珍しくありません。富山の家は平均すると日本で一番の大きさだといいます。とにかく家にお金をつかうので、彫刻品すべてを合わせると家がもう一軒建つかもしれません。数百万円の仏壇が当たり前のようにある富山の家。豊かだったからこそ文化が生まれ、井波彫刻をはじめとする職人文化を支えられたのかもしれません。


衰退する職人文化

しかし、家族構成の変化によって家はだんだんと小さくなり、床の間のない家も多くなりました。彫刻の需要はなくなり、いまでは仕事がなくて弟子にないたい若者を断らざるを得ない状況だといいます。彫刻は実用性をもたない工芸で、シンプルなものに足し算をすることで魅力を引き上げます。引き算のデザインやミニマリストに憧れる人が多い今日の考えとは正反対。それゆえに何もしないままでは仕事がなくなるのは仕方のないこと、と言えます。

では、井波彫刻はこのままなくなっていくのでしょうか?


職人文化を再興する


そうはさせまいと、若者を中心としたグループが動き出しています。2016年、日本で初めて「職人に弟子入りできる宿」が井波に誕生しました。手がけたのは上海などで活躍する建築家。宿の名前は「BED AND CRAFT」といい、宿泊者は職人の工房で彫刻制作の体験をすることができます。このワークショップのねらいは滞在中のエンターテイメントを提供すること以上に、職人と宿泊者との交流を生むことにあります。職人の技術や考えに肌で触れることで、職人技術の美しさを深く理解してもらおうというのです。

実際にワークショップを体験した外国人が職人の技術に惚れて数万円の作品を購入したというケースもあります。職人との交流を通じて「理解者」を増やすことで、やがて感度の高い人々が集まり、お気に入りの職人を見つけて自分だけのための作品をつくってもらうという循環を生もうとしています。

2018年はじめには、スポーツウェアのNIKEのアメリカ人デザイナーが日本各地の工芸の里を渡り歩いた後、井波に移住してきました。井波にアーティストレジデンスをつくり、世界中のアーティストが滞在できる施設をつくろうとしています。井波は自然環境豊かな場所で、インスピレーションが湧いてくるといいます。アーティストがここに滞在することで、井波の職人と交流が生まれ新しいプロダクトができあがる。そんな構想を描いており、将来的にはアーティストの制作拠点として世界に井波の名を広めたいといいます。

現代的な若手作家も活躍しており、井波彫刻の伝統技術を使った作品は海外でも評価されています。伝統的な形にとらわれない作品。これも次世代へ技術を伝えるには必要ですね。

井波のある南砺市には、この数年で100人の外国人が移住してきているそうです。つい先日もビール醸造をしたいというアメリカ人が移住してきました。移住を考えて半年に一度はこの町を訪れるオーストラリア人もいます。ぼくはいま、この井波の町に住んでいます。掘れば掘るほどおもしろくなってくる、この文化に惹かれて半年前に移住してきました。なぜこの場所に人が集まるのか。それも、手に職を持った「職人」が集まるのか。その理由をこれからのノートでも伝えていきます。

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