長編小説:ジンダワカナは神話を作りたい③

 ジャングルジムに怪獣が昇って、お母さんの名前をしきりに呼んでいる。ジムの下に控えるは、苔の生えたエクスカリバーを振り回す4フィート前後の小さな御仁、それと口からあぶくを出したホビットのような魔女。そこへ、多数の勇者たちが、怪獣を倒さんと集まってきている。俺とワカナとは、その光景を固唾を飲んで見守った。これから何が起こるのか、兄弟。妖怪大戦争のハジマリダ。
 しかし、無慈悲な銅鑼の音が、線上に鳴り響く。若い女の声。彼女は多分、今日帰った後にイチャイチャを決め込む彼氏の上腕二頭筋のことを考えているのだろう。一層がなり声で彼女は叫んだ。
「ガキども、水分補給の時間よ!」
 世界的な感染症対策が叫ばれる昨今の世相で、園児の体内水分量を確保することは、時と場合によっては命よりも重い使命だ。自分の声を無視する園児たちに、彼女はもう一度がなり声を上げた。しかしやはり、勇者たちは怪獣を殺すのに必死だ。彼女は、今度は拡声器を使って叫んだ。すると、園児よりも先に、マンションに住む近隣の住人の方が、ベランダから顔を出した。住人は彼女の、死相にも似た青色の顔を見ると、同情を禁じ得ない――という溜息をついた。
 すると彼女は方針を変えた。これ以上、近隣の人から同情を集めるのは恥ずかしい。そう判断した彼女は、ピアノの前に座って、おしりかじり虫を弾き始めた。すると、今まで最終戦争に血を注いでいた怪獣と勇者たちが途端に園児に還り、先生の周りに集まり始めた。もう一人の副担任と思しき女が、園児が教室に入るのを確認して、扉に鍵を閉めた。俺らは窓の外から見学した。ガキどもが、大人しく水を飲んでいる。大切なのは暴力じゃない、おしりをかじることだと、俺は身をもって知った。
「今のは神話的だったね」ワカナは呟いた。「ピアノ――憶えておこう」
「ちなみに、どんな神話が思いついてる?」
「ああ、ええとね――」
 ワカナは胸ポケットからメモ帳を取り出し、俺に手渡した。手帳は、開きすぎて紙がごわごわとしている。ワカナの神話に対する執念が見て取れる。俺は最新のページを開いた。保育園に来てから、ワカナが書いていた神話の断片だ。

 ――泥の中に、ナメクジの皮を持った狼が犇めいていた。ある者は木々を組み空を支配し、ある者は鍬を作り大地を耕した。やがて二つの勢力となった狼は互いに争い合う。戦争はついにこの地に疫病を齎した。疫病に侵された狼の目から一人の女が産まれた。女はヒルに尻を齧られ、流した涙が大地を潤した。そして子供が生まれた。その子供は人間の起源である。

 いや、だからどこから子供が生まれた?
「――ワカナさん、サクラさん。そろそろお願いしまーす」
「はーい」
 おしりかじり虫を弾いていた先生に呼ばれると、ワカナは返事をして、副担任が鍵を開けたところに、教室へ入っていった。――そうだった、完全に忘れていた。俺らは、紙芝居サークルとして、この保育園にやってきていたのだった。ワカナが突然、神話のために子供を見たいとか言い出したから、仕方なく連絡を取り付けたのだ。しかし、神話作成(?)サークルでは、あまりに怪しい。紙芝居は苦肉の策だった。俺らに紙芝居のスキルはない。だがワカナは、この提案をするとたちまち、ノリノリになって紙芝居を作り始めたのだった。彼女が今、わきに抱えている紙片には、製作期間三日の彼女オリジナルフェアリーテールが色とりどりに描かれていた。
「みんな、元気してたかな?」ワカナは外行きの高い声を使った。
「元気じゃないです」「このご時世ですよ」「これだから大学生は……」
 散々な言われようだ。園児ってのは、こんなもんなのか、兄弟?
「元気じゃない君たちには、私たちが作った紙芝居で無理やり元気にしますよ! ほら、サクラも何か言って?」
 突然振られ、俺は緊張の糸がピンと張りつめた。クッソ、バカナワカナめ。コミュ障なめんなよ?
「ほ、本日はお日柄もよく……」
「あ、コミュ障だ!」「ダッセェ」「あのお姉ちゃんの金魚のフンのフン!」
 フンのフン……!? いったいフン自体は、フンをするのだろうか?
 俺が、哲学的思索に入る前に、ワカナは紙芝居を繰り出した。

『腐ったおじいさん』
 昔々、ある村で、おじいさんが腐っていました。これではどうしようもありません。一緒に暮らしていたおばあさんは、おじいさんにファブリーズを毎日かけていましたが、一向に匂いはよくなりません。むしろ混ざって不快です。→
 ある日、おじいさんは更に腐りました。おばあさんは既に家を出て、都会に降り立ち、払ってもいない年金を不正受給しながらディスコで毎晩遊んでいました。おじいさんは悲しみに暮れて一粒の涙を鼻の穴から流しました。すると、乾いた大地は潤い、村には川ができました。→
 川はどこまでもどこまでも続いていました。川を眺めていたおじいさんは、とあるいいことを思いつきました。さあ、なんだと思いますか?

「川遊び!」園児の一人が答えた。するとワカナは、顔の前で両腕を交差させて、大きなバツを作った。
「ブブー、そんなわけないでしょ、バカ」
 園児は泣いた。「他には?」
「じゃあ、入水自殺」園児がおずおずと答えた。
「ああ、いい線行ってるけど、平凡だね。最近の若者はこれだから無能なんだよ」ワカナはため息をついた。その園児も泣いた。「もっとマシな答えない?」
 しかし、二人も泣かされた園児たちは口を噤んだ。そりゃそうだ。
 するとワカナは、突然俺を見て、
「サクラは何か思いつく?」と言った。
「えっ――」そんな無茶ブリは予想していなかった。ええと、川遊びでも入水自殺でもない――そしたら――
「砂金集め?」
「いやあ、一番しょうもない!」ワカナは笑った。「なまじ知識があるのが、輪をかけてしょうもないわ。園児の皆さん、みてください。こおんな大人になってはいけませんよ!」
 園児は爆笑した。泣いた二人も、けろりとして、さっき言われたことがなかったかのように腹を抱えて笑っていた。なんなんだ、こいつら?
「正解は――」そう言って、ワカナは一枚、紙芝居をめくった。

 ――川に乗って宇宙に辿り着いた、でした!
 おじいさんは腐り落ちて垢になった皮膚を捏ね上げ、ガンダムを作りました。しかも、あのRX78の二号機です。一番有名な奴なので、とっても凄いんですよ。→
 それで、延々に川を下ったおじいさんは、成層圏を超え、アステロイドベルトを超え、冥王星を横目に見ながら太陽系を脱出、銀河系銀河を遥かに背にして、どんぶらこどんぶらこと進んでいきました。
 なんと、宇宙の総体は筒状だったのです。中心は空洞で、超高密度の量子に満たされており、おじいさんの腐った身体は4つの原・元素に分解されました。→

「水、塩、米、うんち!」
 園児の一人が叫んだ。
「正解!」

 ――おじいさんは水と塩と米とうんちの4原・元素のあいだを行き来しました。水は乾くと塩となり、塩は集まると米となり、米は腐るとうんちとなり、うんちは溶けると水になります。ところで、おばあさんはすでに心不全で死にました。→
 4原・元素の総体となったおじいさんは笑うと同時に泣き、泣くと同時に怒り、怒ると同時に悲しみ、悲しむと同時に笑いました。つまり、おじいさんは感情という概念そのものになったのです。みなさん、今、楽しいですか?

「楽しい!」園児は言った。「からだが、高ぶるんだ!」
「それはおじいさんのおかげです」
「え?」園児は一斉にワカナを見た。
「みんなが感情を露わにしたとき、それはおじいさんがみんなの表情を通して感情を露わにしているのです。みんなが笑うのはおじいさんが笑うから。みんなが泣くのはおじいさんが泣くから」
 園児はシンと静まって、ワカナを見た。誰かがゴクリと生唾を飲む音がかすかに聞こえた。
「だから、みんな。みんながそうやって、日々楽しく過ごしていられるのも、おじいさんがどこかで、人知れず、寂しく腐っていったからなのです。腐ったおじいさんがいたから、みんなは笑える、泣ける。だから――」ワカナは深呼吸をした。目には一粒の涙が、下まつ毛にせき止められている。

 ――どこかで腐っていったおじいさんのことを、忘れないであげてくださいね。

***

「ワカナ、お前ってすごかったんだな」
 帰り道、俺たちは川沿いの道を歩いていた。まっすぐの道がどこまでも続いていた。空は、西日が差してきて水色とオレンジのグラデーションが美しかった。あの色の向こうに、真っ黒な宇宙があるのだ。
「結局、保育園は出禁になっちゃったけどさ」俺は言った。「でも俺は君のすごい一面が見られて、全然後悔してないよ」
「なんで出禁なのか……」ワカナは頬を膨らませた。「あんなに頑張って、紙芝居したのに! ああもう、修行が足りないんだ! くっそおおおおおおおおおお!!」
「え? いや……」
「サクラ!」ワカナは叫んだ。通行人が驚いてこちらを向いた。
「はい!」
「帰ってまたサークルやるよ! とびっきりの神話を作るんだから!」
 そう言ってワカナは全力ダッシュした。小さくなっていく背中を眺め見ながら、つい、笑みがこぼれた。あの川の向こうの、腐ったおじいさんが笑ったのだろう。空の上でカラスが、カアと一鳴き、声を響かせた。
「おおい、サクラ! 置いてくよ!」
「え、俺も走るの!?」
「当たり前でしょ! 私、交通費持ってない!」
 そう言ってワカナはまた走り始めた。俺は、長年の引きこもり生活が祟って、脇腹が痛み始めたのだった。

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