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雑草型思考のススメ。ツリー型思考を撲滅せよ。

 犬の散歩をしていた。
 犬いないけど。犬の散歩に、犬を連れてなくてはならないという道理はない。犬、見たし。途中で。なんか犬、ベビーカーに入っていた。ベビーカーで運ばれながら、ぼくのことを、舌をベロンと出した顔で見ていた。

 ぼくは常々、ベビーカーに座りたいと思っている。成人を迎え、大きくなってしまったこの身体では、もう無理な望みだ。ジェットコースターは乗れるけれど、ちょっと早すぎるし、代わりにはならない。
 なのに、犬は、殊に小型犬は、歳をとったってずうっとベビーカーに乗っていられる。むしろ、老人になればなるほど、ベビーカーに乗ることの必要性は増えてくる。犬は一生ベイビィだ。犬は、いつまでも面倒を見られる存在として、人間の前に君臨している。

 ぼくは屈辱だ。

 つまり、ぼくにとって犬は、運命の不可能性だ。不可逆な運命を、ぼくに押し付ける現前だ。犬は、ぼくが死なないと手に入れられないもの(あるいは死んでも手に入れられないもの)を一生手にして生きている。しかも、当の本人は、その恩恵に全くありがたみを感じていない。なんか今、地面、動いてんなくらいにしかきっと感じていないはずだ。
 なのに、あいつらはぼくを見つめる。何を一体考えているのか、分からない。ことによると、バカにしてんじゃねえか!? あいつら、きっと「あの生き物、必死に生きてんなあ……バカめ」なんて思っているに違いない、いやきっとそうだ。あの犬の、惚けた顔ときたら! それはきっと、俺が惚けているからだと思う。幸せな奴らには、犬が、幸せそうに見えてんだろう。

 ぼくは頭が悪い。

 だから、エッセイをどこから描き始めればいいのか分からない。物語は何から始まるのか? よく、「小説世界」という言葉を使う人をみる気がする。
 例えば、家に帰ると、友達が家に来ていてぼくを殺そうとした――なんて事件が起きれば、そのナイフの切先から、小説世界は広がる。ぼくはナイフをかわし、叫ぶ。

 なぜお前は俺を殺すんだ!

 しかし友達は何も喋らない。ぼくのなかに疑念が膨らむ。まるでビッグバンのように、奴の中に想定しうる「理由」が膨らむ。そして、バツの悪いことに、俺は心底悪いやつなんだ。だから、その理由がいくらでも思いつく。
 しかし、事件はそうそう起こらない。小説世界のビッグバンなど、怒るにしてもそれこそ天文学的確率だろう。ぼくらは、半ば能動的に小説世界を探し出さなければならない。だけれど、そんなものがどこに転がっている? 転がっているわけはない。

 ――と、ふとしたときに、道に生えている雑草に目がうつる。
 雑草は、なんとも奥ゆかしい存在だ。隙間があればすぐ生えてくるくせに、ほとんど自己主張しない。なのに、なぜか目につく。綺麗に掃除したお庭に、少しでも残っているのが目につけば、無性に引っこ抜きたくなる。そして、雑草は引っこ抜かれるがままになって捨てられる。けれど、また、素知らぬ顔で生えてくる。
 ぼくは雑草が好きだ。ときどき、道に生えた雑草が小さな花をつけているのを目にするとき、なんとも愛おしい感情を覚える。犬に見つめられたときと真逆の感情が、自分の中に湧き出てくる。かわいいなあ、と思う。黄色い花、青い花。いろんな花が咲き乱れる。人には言えない。言おうものなら、「雑草なんて汚らしい」と言われてしまう。

 以前、Twitterにポピーの花が咲いている写真をあげたことがある。すると、即座にリプライで「そのポピーは雑草ですよ。外来種です」と言われた。明示的には書かれていなかったが、明らかに侮蔑していた。ぼくは心底がっかりした。かわいいと思った花が雑草だったからじゃない。かわいいと思っていた花が、「雑草」というレッテルによって蔑まれたことに。もっといえば、「雑草」が、悪口として使われすぎていることに。辛かった。しかも、小説を書き合う界隈で言われたんだから、辛すぎる。文字に愛着を持ってるだろう人間に――

 どこからエッセイを始めればいいのか、という問題を解決してくれるのがこの雑草だと思う。
 どこでも生える。中心を持たない。巻かれる種。潰されても何度も甦る。

 近代を象徴とする思想の偉大なメタファーに「ツリー型思考」というものがある。近代が終焉したと思われる現代でも、ツリー型思考は依然としてこの大地に根付いている。
 この前本屋でベストセラーだかなんだかとかで紹介されていた本も、ツリー型思考を推奨していた。核となる思想を一つ決めて、そこから樹形図のように枝を伸ばしていくというやり方。ダーウィンの生物の進化の図なんかを想像してみてもいいかもしれない。全ての事象は、ツリー型、樹木のように整理すれば上手くいく。

 しかし、この世の事象は全て、樹木のように成り立っているわけではない、というのが「雑草型の思考」だ。ドゥルーズでいえば、「リゾーム」とか言われるやつである。
 ツリー型思考は、中心があり、「中心/枝葉」という回想が存在する。また、ツリーには起源が必ず存在し、全ては因果関係によって紐づけられる。
 しかし、そういう思考じゃ、いいエッセイは書けないと思う。小説世界に必ずビッグバンを起こさなくてはならない。それは少し、苦しいんじゃないか?

 そういう意味での雑草だ。雑草に中心はない。起源もなければ、因果関係は随所で途切れている。ツリー型は全てが「なぜ?」で構成されるが、雑草型は、いろんな繋がり方がある。「なんか気がついたらできちゃった」というのが、雑草型である。
 雑草に、神はいない。

 ツリーは雑草を雑草の中に押し込める。樹木にならない草は、邪魔な因子でしかない。しかし、雑草はそれでも生える。強大なツリーの帝国主義にしつこく抗議を言い立てられるのは、まさしく雑草だけだ。
 雑草はどこにでも生える。小さな、美しい花を、路肩に生やすことができる。ときどき、誰かに見つけてもらうこともできるはずだ。その確率はほとんど少ないけれど。

 犬は、その上に容赦なくおしっこをかける。犬は憎い。あいつらはいったい何なんだろうと思う。
 ぼくはまた、“犬の散歩”をして、彼らの悪行を見咎めたいと思う。ベビーカーに乗ったあいつを。いつまでも子供でいるあいつらを――。YouTubeも、犬動画全部BANすればいいのに。

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