バカ

 コンセントに鼻くそを詰めてショートした民家の存在!
 うるち米を微塵ぎりにして炊いたら見事べちゃべちゃ!
 テーブルの足が取れてしまったので手をつけてみました?
 あなたは今、どこにいるのかしら?

 新聞を閉じて、しおりは窓の外に聳え立った領収書の束を見た、私の冒険はここから始まるだなんて意気込んだのも束の間、クソゲーに捕まって、詰んでいるマップを二日間も彷徨っている。少し前に呼ばれた友達は、カップラーメンを作るためにケトルに水を入れ続けて一時間が経った。蛇口から流れる水は、ケトルの表面を伝って排水溝に流れ落ち、悠久に広がる大地へと還っていく。
「ねえ、トイレはどこ?」しおりは友達に言った。
「どこって、あなたの家でしょ?」
「ん」
 しおりはコントローラーの十字キーをひたすら上、下、上、下と押し続けていた。テレビの画面はついていない。代わりに、すっかりキレイになった鼻の穴が、深淵に浮かぶ虚空かのように、黒々とした表面に反射していた。しおりはボーッとその穴を見つめながらコントローラーを、まるで卵を愛撫するかのように触る。
「トイレならここにある」しおりは自分の鼻の穴を指差していった。
「本当に言ってる?」友達は懐疑的な目を彼女に向けた。
「うひゅう」
「なら私、一旦帰るけど」
「え?」
 しおりは初めて友達の顔を見た。彼女の顔はあまりにきれいで美しくてまるで宝石のようなヴィーナスだと思った。私は、彼女にここにいて欲しい。ここにいて、笑っていてほしいとそう思った。
「帰らないで」しおりは言った。
「だってしおり、トイレの位置だって教えてくれないじゃない」
「それはそうだけど」
「それに、ケトルの蓋がどこにあるかだって全然教えてくれない。蛇口はどこをひねれば水が止まるのかとか、なんかそういうの本当に無理なんだよね。だって、一時間も私、こうしてキッチンに立って、ケトルに水を流し続けている。信じられる? 私をこんなに拘束し続けた人間なんて、この世であんたと係長だけよ」
「そんなこと言ったって、私もわかんないんだもん」しおりはコントローラーをほっぽり出し、その衝撃で窓ガラスが割れた。「なんでも私に聞かないでよ。友達ならさあ、一緒に探してよ、正解を!」
「一理ある」友達は顎に指をやって考えに耽った。
 ところで、イルカは昔足が生えていました。しかし、そんなものいるかっつって、とってしまいました。
「じゃあさ」友達は豬った。「カップラーメンを食べるの、手伝ってよ」
「共同論文書いちゃおうかしら」
「それもいいね」友達は腹を抱えて泣いた。情緒不安定だった。「早く来てよ! ねえ、お願いだからさああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「それで」しおりは立ち上がり、彼女の右手首に左手を添えて言った。「まずはこの水を止めよう」
「うん」
 しおりが蛇口を捻ると、牛肉が出てきた。これではすき焼きになってしまうだろう。
「ここじゃないか」
「ね、ねえほんとに大丈夫なの」友達は不安げな顔で言った。
「知らないよ! それをこれから調べるんでしょうが!」
 しおりはそれから、次々と蛇口を回していった。しかし、どの蛇口もすき焼きの具材が出るばかりで、肝心の水を止める蛇口が見つからない。そうして、十三個目の蛇口を回そうとしたとき、耐えかねた友達は俄に叫び出した。
「どうしてカップラーメンを食べるのに、こんなに苦労しなきゃならないんだ!」
「ちょっと黙ってて」
「いやだ、私は黙らない。永遠に喋り続けてやる。喋ることなんて山ほどあるんだ。私はできる営業マンだからね、奥さんの興味関心のあることならいくらでも話を膨らませられるんだ、ちょうどカップラーメンの麺が伸びるみたいに」
「あんまり膨らんでないけど」
 友達が聞こえないくらいの声量でぶつぶつと呟いているのを無視して、しおりは蛇口を捻った。卵黄がひとつ、にゅるりとノズルから出てきた。チェッと小さく舌打ちする。
「そんなに言うんだったらさあ、なんかお題言ってみて」
「SDZs」
「え!? え、なにそれ、ええっと――その、そのセルフ、ううん、自己中的な?」
「SDZsも知らない奴が営業マン名乗るな」
「なんだよお、知らなくたっていいじゃんよお、こんなに頑張ってるのに、どうして評価してくれないんだよお」
 何が評価なものか。しおりは口に出さないように注意しながら、友達を見た。こいつはといえば、さっきから水が流れているのを見ているばかりで点で役に立たない。彼女は本当にカップラーメンを食べたいのだろうか? この家にはカップラーメンはない。それに、彼女が買ってきている形跡もない。つまり、たとえ水を止めて、ケトルでお湯を沸かすことに成功したとしても、彼女はカップラーメンを食べることはできないのだ。状況を演繹すればつまり、私たちは一体何をやっていたのだろうかと言うことになる。無論、そんなこと、本当は考えたくない。しかし、客観的にはそう言う結論になるのだった。私たちは、買ってもいないカップラーメンを食べようとして四苦八苦している。殊に、この水の止まらない蛇口を捻り、捻り、捻り倒して、しかし代わりにできたのはすき焼きだった。
「すき焼きを食べればいいんじゃないの?」しおりは言った。
「どうせ喋るしか能がありませんよ……」
「喋る脳もないじゃん……」
 しおりは友達の頭頂部をちらりと見た。その頭蓋骨は全く禿げていたのだった。

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