エドンマーティヌの墓③

「――では、今日の授業は終わりです。お気をつけてお帰りくださいね」
 授業終了の鐘がなった。講師がお辞儀をして、周りの学生がガタガタと立ち上がる。前の壁にかかった時計を確認すると、午後四時半を回っていた。今から大手町駅に向かえば間に合う時間だった。――けれど、まあ、行くわけないよね。帰ってユグドラやんなきゃだし。今、ちょうど時限イベントが開催しているから、逃したらやばい。無課金オンラインゲーマーの私の名が廃る。マキャベリアンぶりっ子モンスターなどにかまっている時間などないのだ。――私は立ち上がり、教室をそそくさと出た。

 校門を抜け、私は最寄りの春日駅へと向かった。坂を下り、大学から一番近い入り口付近につくと、私は見覚えのあるシルエットを遠めに見た。果たして――アスカがそこに立っていた。
 どうやら、誰かを待っているらしい。私か? もしかして待ち伏せされているのだろうか。くっ、厄介な。おとなしく大手町で待っていればいいものを。――このままやり過ごそう。

 そばにあった大きな看板の後ろでしばらくじっとしていると、向こうから誰かがアスカに声をかけた。男だ。目を細めてそっちの方を見ると、金髪の、いかにもな感じのチャラ男が手を振っていた。アスカは、顔のそばで小さく手を振って応答している。そうか、私じゃなく、あの男を待っていたのか。
 ――ふっ、やっぱりビッチだったか。私との待ち合わせなんて嘘だったのだ。私に大手町駅へ向かわせておいて、自分は男としっぽりやる。クソ野郎だな。よく考えれば、ショートヘアーをキャラメルモカブラウンに染めた女に、いい奴なんているわけがない。はっ、少しでも気にした私がばかだった。本当はユグドラなんかせずに、大手町駅に行こうと思ってたのにさ。バカみたい――あーあ、冷める。
 ま、いいわ。今回の時限イベントは、普段は課金でしか手に入らないアイテムが、条件によっては無課金でも手に入ってしまうという、超一大イベント。きっと運営がドンペリでも飲んで頭がおかしくなってしまったんだとフォロワーが噂するレベルの太っ腹企画! こんなんね、参加しないわけがないでしょ。大手町に行く選択肢がもうないわ――にしても、あいつら、まだあそこにいるのか。早くどっか行けよ……。

 しばらくして、アスカはその男と腕を組んで駅へ消えていった。この時間の都営三田線の車両間隔は約五分。五分待てば、アスカと被らずに電車に乗れる。私はじっとそこに佇み、行き交う車を眺め見た。彼らはいったいどこへ向かっているのだろう。家か、会社か、学校か。買い物や旅行、もしかしたら病院かもしれない。様々な目的を持った人間が、車というベールに包まれて、画一化された風景を醸し出す。
 道路の上では――切羽詰まった人間も、悠々と娯楽に興じる人間も同じように扱われるのだ。だから、車社会は独特な様相を映し出すことになる。煽り運転、渋滞、果ては死亡事故――そういった〈事件〉が、近代文明には必然的に内在していると言って、社会に警鐘を鳴らしたのはポール・ヴィリリオだったか。私たちは、こういった文明に依存せざるを得ず、つまりは〈事件〉を必然的に内在しているといえる。すべては、便利さと引き換えに――私はふうとため息をつく。すべての事象はエロスが内在している――祖父よ、あなたはどうして私に神の光を――あ、五分経ったな。

 私は急いで入り口を抜け、階段を駆け下りた。改札を下りると、ばらばらと人の群れがこちらに向かってきているから、きっと電車はまだついたばかりなのだろう。私はそれに飛び乗った。同時に、扉が閉まる。再び、ふうとため息をつくと、絶望なるかな、ぽんと後ろから肩を叩かれた。
「ごきげんよう、イリアさん」
「ぎゃあ!!」
 私が叫ぶと、社内の人間が一斉にこちらを向いた。恥ずかしい。私はほとんど無意識に首を上下にカクンカクンした。はぁ――と深呼吸してから、私はアスカを睨んだ。
「お嬢さん、そう怖い顔をしないで。あなたはどちらまで行かれるんですか?」アスカは上品ぶった笑顔で言った。
「か、川崎だけれど……」
「奇遇ですね、私は大手町なので同じ方向ですわ。……ということで、降りてもらうよ」彼女は急に声のトーンを低くした。
「てかなんで! さっき一緒にいた人は?」
「ああー! やっぱり見てたんだね! まったく、覗き見は趣味が悪いよ。……まあ、知ってたんだけど」
「あ?」私は再びアスカを睨んだ。
「ぶっちゃけて言えば、どうせ約束なんて守ってもらえないだろうとは思ってたんだよね。だからわざわざ、春日駅で待ち伏せしていたんだけど、多分それじゃイリアさん、絶対に出てこないじゃん」
「そ、そんなことな、ないけれど……」図星だった。
「そんでまあ、人間って、いいことをした人間をいい人って判断するよりも、悪いことをした人間を悪い人って非難する方がずっと楽なんだよね。いい人を信頼するのは難しいけれど、悪い人を裏切るのは簡単って感じで。特に――普段から壁を作りたがっちゃう人間はそう。でも――あの人たちは、自分で壁を作っているつもりで、その逆になっちゃってる――つまり、分かりやすい人間になっちゃっていることに気づきもしないんだよね」
「くっ――!」
 アスカの言葉のすべてが図星を指していた。悔しいが、反論できなかった。まさしく、その通りだった!
「そういうわけで、私はわざとイリアさんの目の前で約束を破って、悪人に成りすました。イリアさんは元々私のことを悪人だと思っていたみたいだから、演技はバレないと思ったよ。そして、すんなり私の演技を信じた君は、私がすぐに電車に乗ったと思い込む。んで、多分家に早く帰りたかったんだろうね。君はこの電車の車両間隔である五分間だけきっちり待って、一本遅い電車に乗る――まさか、こんなにうまくいくとは」アスカは楽しげに、首を揺らした。このマキャベリアン・ペコちゃんめ……。
「お前、いったい何者……」
「マキャベリアンぶりっ子モンスター」
「え?」こいつ、頭の中まで読めるのか!?
「マキャベリストは、目的のために手段を選ばない人のことを指すことが多い。ぶりっ子は、自分を偽ってでも相手に媚びを売り、好かれようとする人のことを言う。モンスターは、その程度が怪物並みってことだよね――まあ、まさに私。私は――お金が欲しい!」
「だから、お金なんて持ってないってば――」
「あのさあ……」アスカは周囲を見回して、声を落とした。「あのトレジャーハンターが夢に出てきてんだよ。今のイリアさんにお金はなくとも、将来のイリアさんは分からないってわけじゃん。私は、あなたに恩を売って、お金を稼ぎたいの。分かる? ドゥユアンダースタン?」
「……恩を売るなら、放っておいてほしい……」
「あ、出た、あれでしょ、イリアさん、物語の主人公が嫌いなタイプだ。お節介はよしてー! ってやつ。うける。ま、これがお節介かどうかは、私の家に来てから判断しなさい」アスカは、強い意志を秘めた様子でこちらを見ていた。よほど自信があるらしい。
「まあ、そういう条件なら……」
 私はうなずいた。正直、これ以上断り続けるのも面倒くさかったし、彼女の部屋を一瞥してから貶しまくるのも、まあそれはそれでスリル満点のボーナスステージには違いなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?