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起業して成功した先に"幸せ"は無かった

「あの…『寝ろ。』の三浦さんですよね?」

僕はついに赤の他人からいきなり声をかけられる存在になった。
別に有名になりたかった訳じゃないが、気分が悪い訳でも無い。


起業して1年半。会社は年商1億円規模に成長し、単月黒字を達成した。
つまり、直近いきなり会社が潰れることは無くなった。
しかも日本で初めてのビジネスモデルで、だ。

加えて、この1年間で優秀なメンバーが沢山入ってくれたお陰で、もう僕がいなくても会社は存続出来そうな勢いだ。

特に今月に入ってからは、土日関係無く毎晩徹夜でパソコンに向かっていた1年前が嘘の様な静かな時間が流れている。


あえて端的に表現するが、たぶん僕は成功した。
まだまだ上を目指せばキリが無いのは分かるが、自分では成功の第一ラインを超えた感覚がある。


サラリーマン時代に切望していた時間やお金の余裕、承認欲求の満足はそこそこ手に入れたんだと思う。
そう、たった1年半前に心の底から欲していたモノを僕はようやく手に入れた。


しかし、僕は今自分が幸せなのかよく分からなくなっている。


不幸とまでは思わないが、思ったより心が満たされていないのだ。
せっかく静かな時間が流れてきたので、僕はこの心の虚空感と向き合ってみることにした。

虚空感の原因は”達観”

成功者には

  1. 没頭して成功した人(大谷翔平、ホリエモン)

  2. 達観して成功した人(本田圭佑、ひろゆき)

の2種類いると思っている。


没頭して成功した人

想像の域を出ないが、野球の大谷翔平さんは周囲の声を無視してピッチャーとバッターの二刀流を貫いた。つまり自分の信じる野球に没頭して成功した。

実業家のホリエモンはインターネットの存在が社会から危険視・疑問視されている時代にIT企業を立ち上げて巨大な資本を手に入れ、テレビ局や野球チームを買収しようとした。

彼らは社会の常識や周囲の声を無視して、自分の信じる道をひたすら真っ直ぐ進んで成功した。そう、自分の信念に没頭して成功した。


没頭して成功する道は、孤独との戦いだ。

「大人になれよ!」「現実見ろよ!」
そんな凡人や老害からの声を無視し続けて、自分の信念・直感・夢だけを信じて孤独に生きていった先に成功がある。

例え成功したとしても、成功の過程が再現不可能な上に自分自身の世界観が強すぎて、結局周囲と意見は合わず孤独は拭えないだろう。

没頭して成功する道は、孤独との戦いだ。

達観して成功した人

サッカーの本田圭佑さんは足が遅い。だからスピードで勝負することは諦めて体幹を鍛えてボールキープ力を向上させ、敵からボールを奪われないようにしたと言う。
彼は自分の得意不得意を的確に・現実的に把握して戦略を立てて努力し、成功した。

元事業家のひろゆきはアメリカ留学の際にアメリカには既に存在していて日本には無かったインターネット上の掲示板の存在を知り、プログラミングが得意だったので”2ちゃんねる”を作った。
これは起業家の常識だが、アメリカで流行ったモノはだいたい日本では数年後に流行るので、ひろゆきは数年後に成功した。


彼らは自分の視座を上げて、自分の得意不得意、そしてサッカーやビジネスのルールを把握し、自分が成功する道を見つけて歩み、成功した。
そう、社会における自分の立ち位置を達観して把握した上で行動することで成功した。


達観して成功する道は、絶望との戦いだ。

達観するために視座が高くなればなるほど、社会の絶対的なルールの存在を知ってしまい、資本主義や民主主義の不変性と限界に絶望する。
「所詮この世界なんて…」「俺に出来ることなんて…」そんな言葉が口癖になってしまう。

例え成功したとしても、成功の代わりに社会の汚さや自分の無力さに対する絶望がセットで付いてきてしまう。

達観して成功する道は、絶望との戦いだ。

僕は達観して絶望する側の成功者になりかけている

今の僕の虚空感は、本田圭佑やひろゆきが歩んでいる達観して絶望する道の第一歩な気がしている。

つまり自分の視座を上げた結果、自分というちっぽけな人間の限界値や、社会の絶対的ルールのどうしようも無さを感じてしまい、自分の心にポッカリ穴が空いてしまった。

そんな気がしている。


最もキツかった絶望は”人”に対する絶望

起業して雇用主となり、僕は一応経営者になった。

僕は会社の特性上、副業人材を含めると既に100名以上採用した。
もちろんその裏には、その何倍もの採用しなかった人たちがいる。

この過程で僕は採用、育成、評価といった人事関連の仕事に多く時間を使ったのだが、特に採用しなかった人たちから様々な絶望を感じてしまった。


絶望の種類は

  1. お金のために働いている人の多さ
    人がお金をコントロールしているのでは無く、お金が人をコントロールしている。そう達観すると見えてしまった。
    →資本主義に対する絶望

  2. 能力が低すぎてどうしようも無い人の多さ
    言語によるまともな意思疎通が取れず、四則演算もままならない人が多すぎて、そんな人たちが含まれている多数決によって物事が決定されるこの社会がまともな訳が無い!と達観すると思えてしまった。
    →民主主義に対する絶望

  3. 同調圧力やマーケティングに踊らされ、無思考化している人の多さ
    自分の意思で生きている様に見せかけながら、実際は周囲と右向け右をしているだけだったり、企業のマーケティングに操られて行動しているだけで、自分の脳みそを使えていない。そう達観すると感てしまった。
    →自分の頭で物事を考えられない人の多さに対する絶望

以上3種類の絶望が存在した。

そして何より、
この絶望の壁が巨大すぎて、僕一人が何をしたところでどうにもならないな…と達観して絶望しまった。

唯一の希望の光は、若者に対する教育

断言するが、人は年と共に変化出来なくなると思う。
これは感覚値だが、25歳を超えた人はもう根本的には変われないと思っている。

逆に言えば25歳以下の人だったら、教育によって変われる可能性があるとも思っている。

ここで言う”教育”とは勉強の様な狭義の教育では無い。
人が学び、変わること自体を指している。


僕はまだ教育に対する知識も浅く、スタンスも無いので今後徐々に磨いていければ良いと思うが、今頭にあるのは

  • 若い企業に出資し、並走しながら僕の知識・経験を伝えたい

  • 大学で授業を持ちたい

  • 高校生以下の人に対する教育のスタンスを磨きたい

あたり。
なので、ベンチャー投資を行なっている人、大学で授業を持っている人、その他教育に対する独自のスタンスを持っている人と今後は積極的に関わっていきたいと思っている!


まとめると、
どうやら僕は達観して自分のちっぽけさと社会の絶対的・不変的ルールに絶望しかけてしまっていたらしい。

しかしそれでも人生は続くので、自分が何か社会に還元できないか、引き続き模索していこうと思う。


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