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スマートフォンが埋め尽くした「暇」から生み出されてきたもの。

2023年3月26日、日曜日。
晴れていれば桜が見頃で小田原の街も賑わっていただろうけれど、あいにくの雨で本屋の店番もとっても暇。暇だから、暇について考えていることを少し書いてみたいと思います。


「暇」という圧倒的に貴重な資源。

自分がまだ会社員だったころ、会社の後輩がずっと「バンドやりたいんですよ!」と話していて、私はずっと「やりたいならやれば?」とホリエモンみたいな身も蓋もないことを言っていたのですが、4年、5年経ってもなかなかバンドを始めない彼を横目で見ながら「なんでやりたいことがあるのにやらないんだろう?」と考えていました。

「そもそもそんなにやりたくないのでは?」という当然のツッコミが思い浮かびつつ、こんな風にも思っていました。

「もし彼が1970年代くらいに20代前半の若者だったらもうバンドやってるんじゃないかな?」


10代後半から20代前半くらい、一般的に大学生をしているくらいの期間は人生において圧倒的に暇な時間が多い期間です。
10代前半~中盤は思春期や初めての恋、部活、受験などでドタバタ。20代後半くらいになるとだんだん仕事にも責任が出てきたり、結婚&子供なんて話も現実的に。

若くエネルギーに満ちていて、自分のことだけに集中できる貴重な時間。そんな10代後半~20代前半をもし1970年代くらいに過ごしていたら…

TVも深夜には砂嵐になっちゃうし、今日はラジオも面白いのがやってない。「夜だから寝よう」なんて規則正しい生活は送って無いし、友人に連絡する手段もない。そんな暇と有り余るエネルギーを持て余した若者が気晴らしにギターを持って路上に出て、下手糞な歌を唄いながらギターをかき鳴らしてみる。

なぜなら、暇だから。

でも、今は2023年。暇は無くなってしまいました。

2007年、iPhoneの誕生をきっかけに世界は一変。世界中の情報が手のひらに収まるようになって、洪水のようにコンテンツがなだれ込んでくるようなり、最初の頃は異様に感じた「電車の中にいる人全員がスマホを覗き込んでいる風景」も見慣れ、自分もその風景の中の一人に。

若者の
「暇だなぁぁぁぁぁぁ……………………………!!!!」

から生みだされてきたものってとっても多いと思うのだけれど、今はその暇を全てスマートフォンが埋め尽くしています。SNS、Youtube、NETFLIX、エロ、スマホゲーム … etc 。溢れかえるエンタメ、コンテンツが可処分時間を秒単位で奪い合っている。

以前「映画を1.5倍速で見る若者」みたいな記事が話題になっていたけれど、「タイパ」を意識しながら大量のコンテンツを消費するのに忙しくなりすぎた結果、暇が熟成されて何かを始めるエネルギーに変化していくのを待てる時間がない忙しすぎる日常。


私たちが手に入れたもの、失ったもの。

スマートフォンは超便利ですべてが詰まってる。そこから生み出されたものもたくさんある。でも私たちはスマートフォンを手に入れて確実に「暇」と「自分自身と向き合う時間」を失いました。

だいぶ歴史を遡りますが、例えばキリストやブッダ、ムハンマドの時代にスマホがあったら彼らは世界3大宗教を生み出すことができたのか?

日の出と共に起きて仕事をし、日が暮れたら真っ暗で空に輝く星空を見るくらいしかやることが無かったから「あれ?星ってちょっとずつ動いてね…?」と誰かが気づいて、そこから地動説なんていうそれまでの世界の捉え方をひっくり返すような新しい考えが生まれてくる。

暇だから。

暇だから、考える時間がある。

自分の中に生まれた小さな違和感や疑問について考えを巡らして、その輪郭の解像度を高めていくことができる。

暇だから、育む時間がある。

自分の中に生まれた小さな興味や情熱を、ろうそくみたいな小さな火から焚火に育てて、誰かを巻き込んでいくような大きな炎にすることができる。

でも今は、その疑問や興味が行動に結びつく前にスマホから通知が飛んでくる。「友達から新しいメッセージが届いたよ!」「あなたが前に見た動画の続編だよ!」「SNSで話題だよ!」

お風呂でもトイレでも、寝る前も後も、移動中も。

スマホがあるからずっと退屈しない。退屈しないけれど「暇」があったからから生み出せたものが生み出せなくなっているのかもしれない。


何かを手に入れる時に、それによって「失うもの」を想像するのは本当に難しい。

何かを手に入れたら確実に何かを失っている。それはポジティブネガティブに限らず必ず起きる普遍的なこと。

彼女ができていろんなことを経験したら「俺も大人になったな…!」と思うけれど、童貞の頃に持っていたどこにも行き場のない無限のエネルギーは失ってしまう。

結婚して子供ができて毎日とても幸せだけど、自分自身に使える時間はずいぶん少なくなる。

仕事を頑張ってお金をある程度貰えるようになったらちょっと高いものを買ったり食べたりできるようになるけれど、若くてお金が無い時に、小汚い定食屋で先輩に奢ってもらった生姜焼き定食より美味しいものは無かったりする。

何かを手に入れる時に「それと引き換えに失う物は何だろう?」「それは自分にとって失っても良いものなのか?」という視点を持って一旦立ち止まる。その一考を挟んだ上で「手に入れよう」という選択ができている人はどれ位いるんだろう?


美味しい珈琲を飲んでみたい。

私は山に登らないし、珈琲もあまり得意じゃないけれど

山頂で飲むコーヒーは最高に美味しい。

というのは本当のことだと思う。なかなか手に入らないから、やっと手に入った時に感動があるのであって、簡単に手に入れられるものを手に入れてもあまり感動は無い。

こんなこと自分にできるのかな?やったことないし良く分からないけれど、なんとかしなきゃな。そんなふうに思いながらも歯を食いしばってやってみる。失敗もするし、プレッシャーで逃げ出したくもなるけど、そこを乗り越えて目指していたところに辿り着いた時の感動や達成感は、人生を照らす輝きになる。

私たちはそういう輝きの大切さにどこかで気づいているから、ふだん全然見ていなかった野球をWBCで見ても感動できるのかもしれない。華々しい舞台で人間離れしたパフォーマンスを見せてくれる選手たちが、そこに辿り着くまでに重ねてきた努力や失敗を少し想像することくらいはできるから。


今、この瞬間、スマートフォンでSNSを見ることは「ぼんやり」と楽しい。でも、その「ぼんやりと楽しい」が無かったら。今、暇を持て余していたら。

自分は何をするんだろう?
何を考えるんだろう?

そんなことを、雨の日曜日、誰もいない本屋の中で考えています。


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