十三作目 ユータラスのゆりかご 百合子作り世代継承作品集より
※この作品は一部、自我の境界線を失うような表現が含まれています。
また、抽象化された表現が続きます。
気分を悪くされる方はただちに読むのを辞めることをおすすめします。
一 安寧のなかで
温かいその空間の中で私は呼吸すらも剥奪された。
ただただ安らぎのゆりかごに抱かれる。
心臓の音、臍帯を通じてなにかが私の中に流れ込んでくる。
しかし、それを認識するにはあまりに安寧として。
息苦しい社会から切り離されて。
たくさんの私は今日もこのたゆたいのなか。
大きな母の中で安らぎを享受するのであった。
二 サロン・ド・ユータラス
「ここ……なの?」
〝salon de Utérus〟そう看板に書かれているものの、読み方すら分からない。
それ以外はただの白。ただ純白のその建物には窓もない。
扉と看板。地下鉄の終点。
そこから三〇分ほど歩いた住宅街。
ぽつんと立つ白の塊。
コンビニも、スーパーも、飲食店すらないその場所に。それはあった。
その空間に入るためには儀式が必要とのこと、それは。
「ただ待つだけ……」
それが一番つらかった。私の脳は、私の意思に反して物語を展開する。
勝手に、話し始めてしまうのだ……。
突然に届いたDM「そこには菫(すみれ)様へ、お母様に会いたくありませんか」そう書いてあった。こんな怪しいものに引っかかるほど私は不用心ではなかったけれど、今ここにいるのは事実。それもそのはずで、なんだかこの世界に疲れてしまったからであった。
二十数年生きた。しかし、この世界には安寧というものがなかった。
私は、母という存在に庇護されて生きてきたからだ。
その母は私が小学生の頃に死んだ。子宮頸がんだった。発症のピークと言われる三十代。
その初め。まだ、そんな歳だったのに。
彼女はもがくこともなく、優しいほほえみだけを残してこの世を去った……のだと思う。
なぜなら、葬儀すらもされず。母の終わりを確認すらしていないからだ。
つまり、私は母を悼むことすら赦されなかった。
だから、そのほほえみを見た最後の日。
それを命日にして幾年も独りで彼女を弔った。
そして私は孤独に生きてきた。
世界にひとり放り出されたような感覚だった。
今思えば、諸手続きは誰かがやったのだろう。
そこに知った名前がなく。私の中には彼女の存在しか記憶にない。
音夢(ねむ)。大切な母の名前だった。
それにちなんでネムノキのある公園に暇があれば悼みに行っていた。
そんなことを繰り返し、高校を卒業。
必死に勉強しやっとのことで就職にこぎつけたが、就職先のデザイン会社。
そこは到底「お母さん、私頑張ってるよ」とは言いがたいところであった。
普段の扱いもそうだが、正規の手続きで有給休暇を頂いたときだ。
それこそ母の命日だった。私は、母に就職の報告をしに行っていたのだ。
思いもよらなかった。次の日に出社したら、嫌味を言われた。
ぐちぐち。
ねちねち。
まるで、ねばついた排水溝のぬめりのように。
数名から、いや。ほとんど全員から。
心の底から嫌悪した。
先方からのクレームがあったそうだ。私が知るはずもない案件のクレーム。
私は一切ふれていない。それを私の過失にされたのだ。
その時私は公園でネムノキの白銀桃の色に見蕩れていた。
水面に映る自らの姿が母に似てきたことを喜んでいたのに。
その繰り言に私は辟易した。そして説教の中で、とある言葉が出た。
『母親いないって聞いたけど。あんた捨てられたんじゃないの?』
私は、おとなしい人間だった。他人の言葉なんて外を吹く風のように流せる人間だった。
しかし、私というものを構成している母の恩恵。それを否定された。
そして『親の顔が見てみたい』などという常套句で貶められた。
それらはどうにも、私の心の琴線に触れた。
私は母を尊敬していたし、世界中の誰よりも優しい人で、立派だと思っていた。
腹が立った。
反抗してしまった。
「あんたになにが分かるの」
その上司は初め、息をのんだ。
表情が変わった。怯えだ。
私が一歩前へ出ると尻もちをついた。
そしてヒステリックを起こした。
その後、当然私の立場は悪くなった。
さらにそれを『母親もおかしかったんじゃないの』と責められた。
私はさらに激昂。もう、あの場所に帰る気はない。
そんなことを考えていると、知らぬ間に汗をかいていた。
落ちた汗は光に反射して赤く見えた。
扉が、内側から何度か軽く蹴られたような音がする。
出勤拒否をした時にアパートのドアを蹴られたのとは違う、別の。
どこか優しげな柔らかな足の音だった。
「菫(すみれ)様」
「は……はい……」
「大丈夫ですよ。落ちついて。あなたのお母様を思い出してください」
中から優しい、優しいささやきが聞こえる。
私があまり驚きを感じていないのは、DMにその旨が書かれているからであった。
安堵した。
母を思い出す。
彼女は花を愛でる人で。
近くの公園に行って私の手を引きながら。
そっと、ほほえむ。
そして、その花の名を私に聞く。
それはまるで小さないたずらをするような、かわいい笑顔で、優しく――
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