Stay Snake
冬眠から目覚めたその美しいへびは、すぐに気がつきました。守り続けてきた小さな家の気配が、眠る前とは違っていることに。
その白いへびは、むかしむかし、とある川の神様として大切に祀られていました。祠のあるふもとの村は、たとえ大雨が降っても川が暴れることはなく、長いこと守られていたのです。しかし時がたつと村人の数は減り、神様の存在を言い伝えるものが少なくなりました。へびは少しずつ力を失くしていきました。
私は、用済みということか。
へびは初めて「怒り」というものが体の内に増していくのを感じていました。赤い瞳が、だんだんと濁ってくるのが自分にもわかります。
このまま怒りを持ち続ければ、呪いに取り憑かれてしまう。
へびは、怒りをためてしまわないよう、深く息をするようになりました。その呼吸はいつかため息に変わり、体から空気が抜けきってしまうほど、長い長いため息をつきました。冬には深く眠り、力を回復しなければならなくなりました。そしてある日、村人を恨む気持ちにすっぽりと包まれてしまう前に、祠を出る決意をしました。二度と戻らない旅に出たのです。守り神を失ったことに気づいた、ほんの一握りの年老りと動物たちは、涙を流しました。その後、氾濫した川に村は飲み込まれてしまいました。
人の使う年号というものが、大正から二つ三つ変わったころ、長い旅の末にへびがたどり着いたのは一軒の古い家でした。茶色い屋根の小さな家。縁側からは、きちんと手入れをされた芝生と、季節の花の咲く、こぢんまりした庭を眺めることができます。そこにはおばあさんが住んでいました。おばあさんは、長く連れ添ったおじいさんを亡くし、たくさんの思い出とともに、ひとり暮らしていたのです。へびは、居心地の良いその家も、優しい目をしているおばあさんも気に入りました。床下の土に穴を掘って、そこに住むことにしました。
ドン コトトン
何かいつもと違う音がすると、へびはそっと縁側から家の中をのぞきました。いつもはおばあさんの無事を確認してすぐに巣に戻るのですが、一度だけおばあさんと目が合ったことがありました。へびはすぐに隠れましたが、おばあさんはそのへびが、家を守ってくれている存在なのだと感じたようでした。何かお礼がしたいと思ったおばあさんは考えました。そして神棚の代わりに、かまぼこの板を貼り付けた小さな台を作ると、丸い皿に自分の好きなこんぺいとうを入れて供えました。ピンクや緑や白の、こんぺいとう、というものをへびは初めて見ました。匂いをかぎそっと口に含んでみると、細い舌の上で甘くゆっくりと溶けていきました。へびはそのお供え物をたいへん気に入りました。
どんなに力を失ったとて、この家一つくらい守れるだろうさ。
そうして静かに、暮らしを続けていたのです。でも、ある冬のこと。へびが深い眠りについている時、おばあさんは静かに亡くなって、眠っているへびごと、その家は売られてしまったのでした。
家の空気が違うことに戸惑いながらも、へびは眠りから覚めるといつもそうするように、こんぺいとうの供えてある場所に向かいました。でも、お皿は空っぽで、うすく埃がつもっています。
あれ、はどこへ行ったのだ。私が目覚めたというのに。
へびは、なんとか落ち着きを取り戻そうとしました。
まさか、あれまで私を必要としなくなったのではあるまいな。
人には寿命というものがあることを、へびは知っていました。けれど、村を去った時の悲しい気持ちを思い出してしまい、なんの挨拶もなく勝手にその家を去ったかもしれないおばあさんに、お前もか、という気持ちが生まれてしまいました。へびの心の中に、ふつふつと怒りが込み上げてきました。
見つけ出して食うてやろうか。末の代まで呪うてやろうか。
そう思った時、
タカカッ タカカッ タカカッ
何か、硬いものを打ち付けるような、響く音がしました。
おや? いるのかい?
へびはそろりと床下から庭に出ました。
庭は春の光に満ち溢れていました。若い緑色の草には、今朝降った雨粒がついています。その雫の光っているのを見ると、ヘびは口を近づけて長い舌で巻き込むように、コクリと一口飲みました。喉がうるおうと、少し体の力が抜けました。そして静かに息を吐くと、こみ上げていた怒りが、明るい空にとけてゆきました。
家の方に目をやると、部屋のガラス戸は大きく開け放たれていて、中がよく見えます。首をもたげて縁側のあたりから中をのぞくと、そこにおばあさんの姿はなく、一人の若い、いや幼い女の子が立っていました。部屋の中なのに黒い靴を履いて、しきりに足を動かしています。
タカカッ タカカッ
その子が足を動かすたびに、不思議な音がします。今までに聞いたことのない音色です。
タカカッ タカカッ
後ろで一つに結んでいる髪が揺れます。おでこには汗が光っています。女の子は左手を斜め上に、右手を斜め下に伸ばし、足を蹴り出したり引いたりしています。
なんだ、この妙な動きは。いったい何をしている?
へびはいぶかしげに部屋のようすをうかがいました。女の子の足元には、なにやら怪しげな板が敷いてあり、靴を板に打ちつけるごとに、音が鳴るようです。しばらく考えたへびの目が丸くなりました。
ははあ。わかったぞ。見たことのないこの動き、そして音。これは私への奉納の舞なのだな。小さいのに殊勝な心がけではないか。
へびは大きくうなずきました。
むかし見たことのある、たおやかな手の動きの舞とはずいぶん違っていましたが、まあこれはこれで良いとへびは思いました。少しせわしない音ではあるけれど、この舞がたいへん気に入りました。へびは、女の子の姿をよく見ようと、頭をもたげて体を伸ばしました。そしてもっと近くで見たいと思い、大きな石を伝ってするすると縁側に上がり込むと、格子のついたガラス戸に隠れたまま、じっと見つめました。女の子が板の上に、ペタリと座り込むのが見えました。
今日は終わりにしちゃおうかな。ちっともうまくいかないし。
桜子は座ったまま、拳でコンコンとタップ板を叩きました。
一人で練習してもつまらない。みんなで大きな鏡の前でいっしょにやりたい。桃子先生のお手本をいっぱい見たい。
桜子はひざを抱えました。
一年生からタップダンスを習っている桜子は、この春三年生になりました。お母さんがミュージカルに連れていってくれた時、舞台の上でたくさんの人々が、ピタリと音を合わせてタップを踏んでいるのを見てびっくりしたのです。それは、新しい音楽のように聞こえました。
「お母さん、あれ、あのダンスやってみたい」
桜子がそういうとお母さんは目を丸くして、
「さすが桜子!」
といいました。そして次の日には、桜子が通えるスタジオを見つけてきてくれました。仕事で海外にいるお父さんも大賛成で、すぐさまタップシューズを送ってくれました。でもサイズが大きくてぶかぶかで、お母さんと二人で大笑いしました。
この春の発表会では、ひとつ上の萌音ちゃんと二人でステージに立つことになっていました。でも、予定していた発表会は中止になり、学校もしばらく休みになってしまいました。発表会の予定日だった日、桜子は長いこと萌音ちゃんと電話をして過ごしました。
「みんな。発表会は中止になったんじゃなくて、延期よ。必ずやるよ。だから家でも練習を続けてね」
桃子先生から毎日のようにメールが来ました。先生はスタジオで使っているタップ板をノコギリで切って、持っていない子の家に届けてくれました。桜子のタップ板には、ピンク色のガムテープでぐるりと縁取りをしてあります。先生はいつも、レッスンの合間に楽しい話をしてくれました。
「桃も桜もピンク色だから、私たち仲間だね」
先生の声を聞くと桜子はむくむくと元気がわいてきます。でも、その声もしばらく聞いていません。練習の足を止めると、家の中はしんと静まりかえり、もっとさみしくなります。お母さんは、まとめてたくさん買い物をしなければならなくて車で出かけて行きました。帰るまで一人でお留守番です。
「練習が終わったら、算数のプリントやるのよ」
お母さんの声を思い出し、首をイヤイヤと振りました。プリントなんて今日は絶対やりたくない気分なのです。桜子は、立ち上がって、タップ板を裏返しにしました。そこには、びっくりするほど大きな文字で、
桜子ちゃん、ファイト!
と、書かれています。
「仕方ないなあ」
桜子はぽつりとつぶやきましたが、しかたないなあーのなあーが、大きなあくびになりました。
あと少し。うまくシャッフルを鳴らせたら今日はおしまいにしよう。
畳の上にあるガラスの瓶を引き寄せると、ピンク色のジェリービンズを口に放り込み、立ち上がりました
発表会の曲はしっかりと頭に入っています。アップテンポのかっこいいジャズの曲です。一番の見せ場は、
タカカ タカカ タカカ タン
後半に、このステップを連続でやるところです。タップは靴裏についている、タップス(金属の板)を床にぶつけて音をだします。このステップは、左足で軽くジャンプして「タ」、ほぼ同時に右足で、蹴る時と引く時に「カカ」と二つ鳴らします。三つの音を、同じリズムで、おんなじ音の強さで「タカカ」と鳴らさなくてはいけません。
「シャッフルはどうしても引く時の音がかすれてしまいがちなの。均等にならせるように、こうね!」
先生はどんなステップも、魔法使いのようにラクラクと奏でます。
先生の音は、なんでこんなに楽しそうなんだろう、なんて良い音なんだろう。
同じような靴を履いて、同じように足を動かしても、全く違う音が出るのが、不思議でなりません。
「私、先生と同じ音を鳴らしたい」
桜子は先生に真剣な顔でいいました。「桜子ちゃんは、ちゃんと桜子ちゃんの音が鳴ってるよ。だから大丈夫」先生はなんどもそういってくれました。負けず嫌いな桜子は、先生にほめてもらいたくて、繰り返し練習しました。
タカカ タカカ タカカ タン
ようやく、きれいにステップが踏めた日、萌音ちゃんと両手が痛くなるくらい何度もハイタッチしました。でも喜んでいるのもつかの間、
「ね、そのステップに、手のポーズもつけてみない?」
桃子先生はいたずらっ子のように笑いました。
「萌音ちゃんは右腕を上に、左手を下に。桜子ちゃんは逆ね、そう、左手を上に。そうすると、二人でVの字を作っているみたいに見えるの。ほら、かっこいいでしょ」
鏡の前で手のポーズを決めると、確かにかっこよくて、萌音ちゃんと一緒にうん! とうなずきました。でも、両手を斜めにピンと伸ばしているだけなのに、それまでできていたステップが、急に踏めなくなくなりました。
「ええーなんでー?」
桜子は、また焦ってしまいました。
「ほら、二人とも。両手はピンと張っても、足の力は抜いて」
二人でタコみたいに、なんども足をぶらぶらをしては、力を抜きました。桜子は夢中でステップを踏みました。そして、二人は同時にできるようになり、
「いえーい!」
先生と三人でハイタッチしました。萌音ちゃんは、
「桜子ちゃん、指先までピンと伸びてきれい。私も頑張る」
と、鏡を見ながら桜子の腕の角度に合わせてくれました。一つ上だけれど、萌音ちゃんはちっともいばったりしません。桜子は萌音ちゃんと一緒にステージに立てるのを、とても楽しみにしていました。
でも、延期になっちゃったし。
発表会がいつできるのか、大人に聞いてもさっぱりわかりません。二人で、髪はポニーテールにしようと決めて、衣装も色違いで用意して、準備万端だったのに。桜子は悲しくなり、ムキになってステップを踏み続けました。
タカカッ タカカッ
白いへびは、女の子の姿を見ていると、なんとも体がムズムズとしてくるのを感じていました。体の表面から感じる振動が、音となって体に染み込んでいきます。繰り返し聞こえるそのリズムは、キツツキの音のようでもあり、子馬が大地を蹴っているようでもあり。眠りから覚めたばかりの体を芯から起こしてくれます。へびは知らないうちに、体を揺らしていました。そして、もう少し近くで見ようと、隠れていたガラス戸から姿をあらわし、知らず知らずのうちに、縁側の真ん中へと移動していました。
ペン ペン
こきみ良い音がして、へびがその音の方を見ると、それが自分のしっぽで縁側を叩いた音だと気づきました。
おや、私にこんな音が出せるとは。
へびは、しっぽを打ち付ける強さで音が変わるのを不思議に感じながら、ペン、ペン、ペン、と鳴らし続けました。
もうちょっと、もうちょっとでできそう
桜子はそう感じていました。最初は難しいと感じていたステップも、繰り返すうち体に馴染みます。すると足の力が抜けて、ふっと、突然できる瞬間がきます。その直前に、なぜだかわからないけれど、
できる
と予言みたいに感じるのです。桜子は静かに目を瞑って想像しました。
ここは、いつもの練習スタジオ。
先生が、パン、パン、とリズムをとっています。
タカカッ タカカ タカカ
リラックスすればするほど、右足を引いた足で鳴らす音が、カッとかすれずに、きちんと打てるようになってきました。すると、桜子の耳に本当に、先生の手拍子のような音が聞こえて来ました。
ペン ペン ペン
それは小さいけれど、きれいな良い音です。その音を頼りに、ステップを踏みます。
お願い、その音、消えないで。
左腕を上に、右手を下に、指先までピンと伸ばします。なんだか、右隣には萌音ちゃんがいて、一緒にステップを踏んでいるような気がしてきました。目の前には、スタジオの大きな鏡。萌音ちゃんの伸ばした腕と自分の腕が、綺麗にVを描いているのが見えます。その瞬間、桜子は笑っていました
タカカ タカカ タカカ タン!
やった、できた!
足を止めてふうっと息をはき、ゆっくり庭の方を見ました。さあっと強い風が部屋に入ってきて、縁側に開きっぱなしにしていた本のページが音を立ててめくれました。その本の隣に、何か白くて長い生き物がちょこんと座っていて、その小さな赤い目と桜子の目が合いました。
ぶおん
エンジンの音が聞こえました。お母さんが帰ってきたのです。へびは聞きなれない大きな音に、あわてて縁側を降りようとしました。
「あ、待って!」
波打つように白い鱗が光り、細いしっぽが縁側から滑り落ちました。桜子が縁側の下をのぞき込むと、床下の方へ、何かがするりと消えていくのが見えました。
あれってへびだよね。白いへび、初めて見た。なんでだろう、なぜだかちっとも怖くないし、それにあの音……。
頭を下げたままぼんやりしていると、暗さに慣れた目に、お茶碗みたいな小さなお皿が見えました。サンダルを履き、頭を打たないようにかがんで縁側の下をのぞくと、小さな木の台の上に白いお皿が置いてあります。ままごとのお皿のようにも見えます。
なんでこんなところに、こんなものがあるんだろう。
しげしげと見つめて、ふと思いました。
これ、もしかしてへびさんにご飯をあげるお皿だったりして。
埃が積もったお皿を、ティッシュで拭くときれいになりました。お皿を見つめながら、桜子は思いました。
さっきの音って、やっぱりあのへびさんが鳴らしていたのかな。
ペン ペン ペン
桜子は、聞こえたリズムを真似して右手でふくらはぎを叩きました。
あのテンポ、小さな音だったけど、桃子先生の手拍子みたいだった。あの音に合わせてタップを踏むの、すごく気持ちがよかった。また、タップを踏んでいたら、へびさん出てくるかな。
そう思いながら、黄色のジェリービーンズを一つ、口に放り込みました。レモンの香りが味が口に広がります。
あ、そうだ。
桜子はいいことを思いつきました。ガラスの瓶から、白と緑とピンクのジェリービーンズを一つずつ選んで取り出すと、その小さなお皿に入れました。そして元の場所に戻しました。
おーい。へびさん、また遊びにきてね。きっとね。
床下の暗闇に向かって小さな声でいいました。へびを驚かせないように。
「桜子ー、帰ったよ。荷物を降ろすの手伝って」
お母さんの声がしました。桜子は庭から車のガレージに向かって、スキップをするように走っていきました。
今、その家の小さな庭にはスズランの花が一面に咲いています。今日も桜子は、部屋でタップの練習です。
「ねぇへびさん。もう少し大きな音でテンポ打ってくれないかなぁ。そうしたら桜子、もっと、だんぜんやる気が出ちゃうんだけど」
縁側に座ったへびはすました顔をして、今日も淡々とリズムをとっています。へびは、自分のために踊っているこの子と一緒に、しっぽで音を鳴らすのがすっかり楽しくなっていました。自分の体が、楽器になったように感じていました。
「ね、へびさん。ジェリービーンズ、あと三つおまけしちゃうから、もう少しアップテンポでお願いね。いくよ、せーのっ」
桜子が力強く蹴り上げた右足から、弾むような音が響き、へびのリズムとピタリと重なりました。
(原稿用紙二十一枚)
☆お礼のことば☆
冬眠の蛇ごと家の売られけり 河添美羽
(蒼海8号 堀本裕樹選 推薦30句より)
この句の蛇の「その後」を想像し、美羽さんご了承の上で書かせていただきました。美羽さん、ありがとうございました。堀本先生、蒼海のみなさま、ありがとうございます。
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