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小説「邪悪なる笑み、あるいはむき出しの歯グキ」

その赤ちゃんを見て、ぼくは絶句してしまった。まるっきり猿だったからだ。猿みたいな顔ではなく猿そのものだ。平らな鼻、でかい耳。愛嬌なんてどこにもない。しかもでかい。

生まれたての赤ちゃんの顔は大きくわけて2種類あると聞く。ガッツ石松か朝青龍か。たまに鶴瓶師匠か渥美清の場合もあるという。その赤ちゃんはどちらでもなかった。強いて言うならモンキー派か。

ぼくは学生時代の先輩の家に来ていた。赤ちゃんをひと目見た瞬間に用意していた「かわいい!」をいうつもりだったのに、言葉が出なかった。先輩は奥さんの後ろから顔を見せ、入って入ってとぼくを部屋に促した。

赤ちゃんの名前は「じょうじ」だった。ぼくはじょうじ君のほっぺに手を触れうようかと思ったけど、噛みつかれそうだったのでやめておいた。奥さんがだっこしてみる、と聞いてくれたけど、ぼくは遠慮した。

一体どういうことなのか? 目の前にいる赤ちゃんは猿なのか。猿に見えるだけなのか。

僕が静かに紅茶を飲むと、じょうじ君がテーブルの上の焼き菓子をつかんでぼくに投げつけてきた。肩にぶつかり、服が汚れた。奥さんはぼくにティッシュを差し出し、息子のやんちゃぶりに幸せそうに目を細めていた。先輩も同じく仏のような慈愛に満ちた眼差しで我が子を見つめていた。

こんな場所にはいられない。ぼくは実は急用ができたので、あまり長くいられないといった。もちろん嘘だ。連絡内容を確認するふりをしてスマホを取り出した。すると、そのスマホをじょうじ君に奪われてしまった。

僕はせいいっぱいの作り笑いをして、それはおもちゃじゃないんだ、返してくれるかな、と語りかけた。少し声が震えていたかもしれない。じょうじ君はスマホを口にくわえ、あ! と思った瞬間に噛み砕いてしまった。

ごめんごめん、と先輩はいった。やんちゃという言葉ではくくれないことをしたというのに先輩は笑っている。息子が可愛くて仕方がないらしい。赤ちゃんを抱く奥さん。息子の頭をそっと撫でる先輩。笑うじょうじ君。笑っているのか、ただ単に歯グキを見せているだけなのか。

むき出しの歯グキ

その後もじょうじは暴れ続けた。僕の財布を奪い、札を取り出して破いたり、髪をひっぱったり、服をつかんでボタンを飛ばしたり、ふくらはぎに噛み付いたり。甘噛みなんてもんじゃなく、ガブッとやられた。

許さねえぞこの猿め、と思った。じょうじと名付けられたこの猿を、絶対に痛い目に合わせてやる。もしこのまま泣き寝入りしたら、おれは自分を許せなくなるだろうと思った。

チャンスはすぐにやってきた。先輩がトイレに行くといって席を立ったあと、奥さんがお菓子を持ってくるといってじょうじを置いて部屋を出ていった。

おれは素早い動作で、冷めた紅茶をじょうじの顔にひっかけた。猿が驚いて飛び退いた。歯をむいて敵意を現したので、ジッポに火をつけてみた。小さな火のせいかそれほどおびえてない。バカなエテ公め。わからせてやろうとジッポを近づけると猿がそれを振り払った。床に落ちてカーテンに燃えうつった。

猿は悲鳴のような雄叫びのような声をあげる。

悲鳴をあげたいのはおれのほうだ。おれはすぐに消火器を見つけた。そこでふと思いついた。火を消すのは今じゃない。

猿はカーテンの火に怯え、部屋の対角線に移動した。天井近くに張り付いている。おれは猿から目を離さないようにして燃えるカーテンを引きちぎった。それを一振りしてやつを追い詰める。片手に燃えるカーテン、片手に消火器。

猿がとびかかってくるのと、部屋のドアが開いて奥さんが姿を見せるのは同時だった。おれのフルスイングは猿の顔面をとらえた。猿はひっくり返り、おれは流れるような動作で消火活動を開始した。

その後は大変な騒ぎだった。パニックになる奥さんと先輩、気絶した猿、消火剤で真っ白な部屋。あの瞬間を奥さんに見られたどうかはどうでも良かった。おれは先輩に追い立てられるようにして部屋を出た。

帰り道、消防車のサイレンが聞こえた。

それっきり先輩には会ってない。年賀状のやりとりも途絶えた。風の便りもない。いつかなにかのきっかけで再会することがあったらこういいたい。その節は大変申し訳ありませんでした。息子さんはご元気ですか。治療を受けたのは病院ですか、それとも動物病院ですか。

終わり


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