感音性難聴を解する人は殆どいない

難聴にも違いがある

医療や介護のテキストに必ず書かれているのが難聴にも種類があること。
ところが、いざ現場でそのことをよく理解し対応できる人は圧倒的に少ないのが現実です。

これは生きた訓練がなされていないことにつきるのではないでしょうか。
家族でさえも、難聴者の理解できない人は随分多いように思います。

加齢性難聴は、伝音声難聴から感音性難聴へ

難聴の種類は伝音声難聴と感音性難聴ですが、それを区別する意味は本来はなさそうです。そもそも区別をしたのは、種類があることを理解するためのもので、当事者本人が加齢とともに劣化する音をどうに感じているかという心の理解も併せ持つ必要があります。

先天性の難聴は機能自体に異変があったり、出生前・出生後に何らかの障害が生じた場合ですが、加齢性難聴は当初は伝わりにくさから難聴が生じているように感じます。言葉は聞こえているので初めは問題は生じにくく、聞き取るボリュームが上がれば、内容は伝わります。しかしやがて、しっかりと伝わってこなくなります。

しかし、これが進むと感音声難聴という、音が単に伝わりにくくなるというばかりか、一定以上の音は確かに聞こえているし、相手や周囲が何か音を発していることはわかるのですが、いざ音声を拾えても会話としての「言葉」として聞き取れなることです。

従って、高齢者が、自宅に引きこもりがちになるというのは、こうように難聴が進むと相手との会話が成り立たないことから、
 ・顔見知りの人から声をかけられても会話が成り立たない
 ・相手の言っていることが聞き取れない

等と生じて、出来る限り人に会いたくないといいます。

高齢者は外出する機会を増やすことを推奨している事例をよく見かけますが、高齢者の本質を見誤っているように思えてなりません。個人的な性格で手段的な活動の場にあまり出たくない人も多いはずですが、これに加えて身体的機能の衰えから集団的活動に出る機会がなくなるのはあまり意識されていないように思えます。

難聴者は、マスクを外してもらいたいと思っている

難聴者への理解不足は、介護施設など高齢者と接しする機会が多いところでもよく見かけます。介護職員が難聴者に大きな声で話しかけるまではできても、ゆっくり口元を利用者の方に見えるように話そうとする訓練ができていなかったり、今のようにマスクをして口元を見せないのは難聴者には大きなデメリットです。

それにもかかわらず、他の国のようにマスクのない社会を一刻も早く目指そうという空気は日本の政治の場にはないようです。マスクをすると、人の表情や口元を読み取ることができず、難聴者の不安を増幅しているはずです。それにもかかわらず難聴者がいつまでも混乱する社会環境を放置しているのでしょうか。

日本は何かにつけて、知らない間に同調圧力を強めてしまいます。目先の感染症ばかりに気を取られて、難聴というハンデキャップを意識できない行政運営に疑問が生じてきます。先進国は早くからマスクのない社会を意識していました。残念ながら、
 ・日本は未だにマスクをいつ外すかさえ示せない
 ・目先の新型コロナ対策を広げないだけの対応

しかできていません。総合的科学的対処ができないように見えます。

感音性難聴に、補聴器の利用価値は小さい

それでなくても難聴者、殊に感音性難聴者に理解がある社会・施設ではないように思えます。特に感音性難聴は、補聴器をしても「言葉」として認識できるような音が拾えません。個人的には、頭蓋骨の歪みが音を拾う際の障害が何らかの形で増幅しているように感じます。「利用価値はなくなる=補聴器が使えない」というわけです。感音性難聴者がどんなことに困っているか正しく理解が進んでないように感じています。理解が進めば、自ずと全ての対応が違うはずです。

わたしは幸いにして、当初は補聴器を使っても言葉としてちゃんと聞き取れないのですから、意味はありませんでしたが、頭蓋骨が締まった今では補聴器が使えるようになりました。


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