昨日の武藤敬司に勝つ——この気持ちが活力になるんです|元気の秘訣|武藤敬司さん
プロレスの世界は自分の現実とはかけ離れたものでした
俺は生まれた時から大きくて、出生体重は4000㌘、成人するまで頭一つ抜けていました。小学校5年生の時には朝日新聞社・文部省・都道府県教育委員会が合同で行っていた健康優良児として表彰されたこともあります。
俺だけでなく、親族もほかの人より一回り大きいので遺伝かもしれません。親族の結婚式に行くと、「ああ、これは間違いなく俺の親戚しんせきだな」と分かってしまうんです。男は俺と同じくらい大きくて、全員ハゲてるからね(笑)。
幼少期は体が大きくて丈夫な上に、すごくワンパクでした。山梨県の田舎だから、ゲーム機もなくて遊ぶといえば戸外。家の周りは田んぼなので、冬場は干したワラを重ねてクッション代わりにして、バック転の練習なんかもしていました。
友だちと遊ぶ時は、決まって仮面ライダーごっこ。本気で将来「仮面ライダーになりたい」と思っていたんです。親戚のおばさんに話したら、「仮面ライダーは改造人間だから、そこの市立病院に行って手術しないとなれないね」といわれ、改造人間になるための手術を受けようか、真剣に悩んだのはいい思い出です(笑)。
仮面ライダーの代わりにプロレスラーを志したわけではありません。高校を卒業したら柔道整復師の国家資格を取得する専門学校に進みました。柔道は小学校から続けてきた身近なスポーツだったのですが、専門学校を卒業する間際に接骨院での就業体験をしてみると、「……俺には、どうも柔道整復師は向いてねぇなぁ」と感じたんです。実家は植木屋で、俺は一人息子だし、「親父の後を継いだほうがいいのかも」と考えていた矢先、ある接骨院の院長から「プロレスをやらないか?」と声をかけられたんです。その治療院には、新日本プロレスの選手がケガの治療でよく通院していました。
当時の俺には、プロレスはあくまでもテレビの中の、自分の現実とはかけ離れたものだったので、正直よく分かっていませんでした。ただ、専門学校の先輩に「骨接ぎ、俺には向いてないです」と相談した時にも、また新日本プロレスを紹介してくれて……。これは「よくよくのご縁だ」と、プロレスの世界に挑戦してみようということになりました。
いざ挑戦を決めてみると、「俺は骨を治すよりも、壊すほうが得意なんだろうな……」と感じていました。親父には「ちょっと新日本プロレスの現場を見学してくる」と伝えただけで、ほんとうに軽い気持ちだったんです。でも、プロレスは俺にとって天職であり、最高の舞台でした。
1984年に新日本プロレスに入門。すぐにお世話になった鬼軍曹の山本小鉄さんをはじめ、リングの中の技術やテクニックは新日本プロレスの道場で学びました。アメリカに渡ったのは、デビュー翌年の1985です。
よく「海外でもグレート・ムタとして人気を博した理由は?」とインタビューされることがありますが、俺の正直な答えは「分からない」です。もしかしたら、当時のアメリカの人たちには、俺の技がすごく新鮮に見えたのかもしれません。
日本ではがたいがいい部類だった俺でも、アメリカのプロレスラーに囲まれるとぜんぜん小さくて、これはどう考えてもパワーだけじゃ絶対通用しないと悟りました。そこで、日本で培った細かいレスリングの動きや技を存分に披露したんです。実はほとんどが昔からある技で誰かの二番煎じだったんですが、大味なアメリカプロレスにはない展開だったので、観客には大喜びされましたね。
アメリカプロレス界の殿堂「WWEホール・オブ・フェイム」のパンフレットでは、「鎌固め」が「ムタロック」と表記されているんです。鎌固めに込めた俺の熱量や、精練された技そのものの美しさが、歴代のプロレスラーより少しだけ勝っていたのかなと自分なりに分析しています。
多くの日本人レスラーは、帰国した時のことを考えるものです。日本に帰ったらこれまでとどんな違いを見せて、なにで勝負できるようになっておこう、などと考えてしまうわけです。でも、俺は帰国後のことはいっさい考えず、「アメリカの地でどうすれば勝ち上がれるだろうか?」と常に思考を巡らせていました。
格上の選手に対しては「なんであいつが上にいるんだ? 一つも劣っていることはないのに?」と考えていました(笑)。現地の団体も、そんな俺の意気込みやリングでの動きを気に入ってくれたようで、全面的に推してくれました。その時に生まれたグレート・ムタは、現地の人に大歓迎されて全米屈指のヒール(悪役)として愛されました。
実は、グレート・ムタとしてデビューしてからアメリカには丸一年もいないんです。でも、その間にアメリカで繰り広げたグレート・ムタのプロレスのインパクトの大きさに、自分のことながら驚くことがあります。例えば、当時の俺を幼少期に生で見た人が、後にアメリカの現役トップレスラーとして活躍しているんですよ。それから、アメリカのプロレス団体の間では、当時の俺の技が教材になっているとも聞いています。
俺の38年にわたるプロレス人生の中でも、アメリカで活動した経験はかけがえのないものです。特に大きな学びは、「なぜアメリカではプロレスがビジネスとして存在するのか」ということです。
アメリカのお客さんは、俺が子ども時代に公園で紙芝居のおじちゃんを待ちわびていたようなワクワク感で、選手を待っていてくれるんです。アメリカでは、身近なエンターテインメントとしてプロレスが定着していることをいつも肌で体感していました。だからこそ、単に相手と闘うだけじゃなくて、しっかりと魅せていかないといけないんです。
プロレスは同じ相手とばかり試合をすることもあるので、どうしてもマンネリ化しやすい一面があります。実際、同じ日に同じ会場で、同じ相手と二回対戦することもありましたが、同じプロレスはできません。工夫した結果、いい意味で観客の予想を裏切るライブ感を演出することにつながります。プロレスの魅せ方を鍛えられた1年でしたね。
意外なようですが、プロレスの魅せ方には人間性が大きく関係してきます。性格が真面目な人は動きも真面目で、意外性に乏しくてあまり面白くない。一方で、やんちゃな性格な人は調子に乗って許容範囲を超えたことを突然やってのけるので、見ていて面白くなる。ただし、許容範囲を超えると失敗が多くなって、ケガのリスクも当然高まりますから、プロレスラーの人間性については、どちらが良いとか悪いとかは決められませんね。
自由にプロレスができないという事実がいちばんこたえました
俺が半月板の切除手術を受けたのは24歳の時です。試合最後の決め技「ムーンサルトプレス」でひざの靭帯が不完全断裂してしまって、すぐに手術を受けることになりました。当時はまだスポーツ整形外科が確立していなくて、リハビリの指導もあいまいだった気がします。手術が終わったらすぐに退院で、3週間後には仕事でプエルトリコにいました。
プエルトリコはビーチが多い南の島国ですから、「リゾート地で手術後の静養によさそうだ」などとのんきに考えていました。ところが、現地でレスラーに欠員が出て、「ちょっと、おまえ出てくれよ」と急なオファーが舞い込んだんです。体調も少しよくなっていたし、まぁこの一回だけならと思って試合に出たら、えらく気に入られてしまって。それからアメリカでチャンピオンになるまでずっと試合を続けていました。
ひざの調子は徐々におかしくなりました。プロレスに集中していても痛むようになり、試合前にひざをテーピングでがちがちに固めるようにしたんです。ただ、あまり早くからテーピングすると、血流が悪くなって足に力が入らなくなるので、試合が始まる直前に巻き終えるように調整していました。今振り返っても、毎回40分かけてテーピングするのは骨が折れましたね。コスチュームをロングタイツにしたのも、実はテーピングをお客さんに見せるのがみっともないと思ったからなんです。
レスラーが体を壊すいちばんの原因は、無理してプロレスをするからだと思います。変な話ですが、靭帯断裂や骨折ならいいんです。どんなに無理をしても動けないので、強制的に休まざるをえません。でも、少しの負傷である程度動ける状態なら試合は休めないし、主役になればなるほど休みづらくなります。
ポツンポツンと石に落ちる雨のしずくみたいに、「痛いけれど動けるから」「痛いけれど隠せるから」の積み重ねで、いつの間にか肉体が崩壊していたという感覚です。レスラーの誰もが抱えている悩みですが、自由にプロレスができないほど体が壊れてしまった事実に直面した時がいちばんこたえましたね。
ひざがどれだけ痛くても、「人工関節に換えるとプロレスができなくなる」と聞いていたので、人工関節の手術は受けていませんでした。転機は2017年、BSジャパンのドラマ『プリズンホテル』で元K-1ファイターの武田幸三さんと共演した時です。闘うシーンで俺がひざを痛そうにしていたら、「武藤さん、いい先生がいます」といって彼のかかりつけ医を紹介してくれたんです。
その先生が「人工関節にしても試合できるよ、武藤さん」といってくれたので、手術することをすぐに決断しました。これまで数えきれないほどたくさんの病院に行きましたが、「人工関節にしても試合ができる」と断言してくれた医師は初めてでした。
ただ、俺の人工関節は、日本人離れしていただけでなく、アメリカサイズでも大きさが足りなかったんです。特注で作ることになったのですが、原型はオーストラリアの先住民・アボリジニのひざ関節らしいです。左右で関節の状態が異なるため、形状の調整に苦労されたと聞いています。
実際に手術で切開してみたら、左右4本ずつ、両方合わせて8本なければならない靭帯が、なんと1本しか残っておらず、しかも骨どうしが癒着して固まっているほどの散々な状態。そのため、手術は予定時間の2倍もかかったそうです。でも、この手術のおかげで、ひざ関節の痛みがなくなって生活はかなりらくになりました。
痛みが消えて動けるようになったのがうれしくて、下半身を鍛えるレッグ・プレスをしていたら‟ボキッ”と嫌な音がしたんです。それはひざの皿がきれいに半分に割れた音で、すぐに病院に行きました。先生にめちゃくちゃに怒られて、復帰が少し延びてしまったのは猛反省しています。
40年以上続けてきた日々のトレーニングが自分を整える習慣です
現役時代に毎日していたトレーニングは、引退した今も同じ内容で続けています。人工関節付近の骨がもろくなると、取り返しがつかなくなるといわれていることもあるのですが、それだけではありません。40年以上続けてきた日々のトレーニングこそが、無理なく自分を整える習慣であり、ストレス発散にもなっているんです。嫌なことがあった時も、トレーニング中は目の前のことだけに集中することでリセットすることができます。実際、ベンチプレスを上げながら考え事なんてできないですよね(笑)。
俺にとってトレーニングは過去の自分との闘いで、常に「昨日の武藤敬司には負けない!」という気持ちで取り組んでいます。この気持ちを抱くことで、やる気や活力が湧いてくるんです。若い頃は二日酔いでも、ちゃんと昨日の武藤敬司に勝ち越せていました。でも、年齢を重ねるごとに全勝できなくなり、1週間で4勝3敗、2勝5敗と負けが続く……。それでも気持ちだけは「今日は勝つ!」と気合いを入れて、今でもジムでトレーニングに励んでいます。なんに対してでもいいので、「昨日の自分に勝つ」ことを意識すると活力が自然と湧いてくると思います。
自分との闘いの後の食事と晩酌は心底おいしい——。汗をしっかり流さないと、不思議と食事やお酒があまりおいしく感じられないんです。引退の時に、俺がワイン好きと知っていた方々から高級ワインをたくさんいただきました。今は、高級ワインをちょびちょび開けていくのも楽しみの一つです。食事やお酒をおいしくいただくためにも、皆さんも汗を流すといいかもしれませんね。