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浦和レッズと私①

突然ですが私の長男は中学校1年生ですが、勉強があまり得意ではありません・・・。私は連休中は家庭教師をやる事になりまして、ずっと家にこもっています。コロナウイルスの影響もえげつなく事になっていますので、ちょうど良いのかもしれません。実は子供が問題集を解いている間にやる事が無いのでブログを書いています。

いつもは中小企業診断士の受験支援記事が中心になりますが、この記事は全く関係がありません。

浦和レッズと私というタイトルにしましたが、私が大学に入ると同時にJリーグが開幕しました。私は大学入学と同時に埼玉県浦和市(今はさいたま市ですか)に住んでいましたので、当然浦和レッズの試合は良く観に行きました。

因みに西武ライオンズの試合も良く観に行きました。大学もほとんど授業には行かない不真面目な学生でしたので原付バイクでふらふら遊びに行っていました。なので埼玉県は愛着が強いです。

当時は福田正博という超スーパースターが在籍しましたが、めちゃくちゃ弱いチームでした。でも何となく浦和に住んでいるから大学の先輩や同期と観にいきました。

ヴェルディ川崎や横浜マリノスというメジャーなチームとは別格の弱さでサポーターだけは超一流と揶揄されていました。浦和レッズは当時はドイツ色が強いチームと言われていました。ドイツ色ってなんだ?っていう位特色は出ていなかったような気がします。

 しかし、そんな浦和レッズの逆襲が始まります。そのきっかけはドイツ代表のギド・ブッフバルトやウーベ・バインの獲得でした。今まで弱小チームであった組織文化にゲルマン魂の注入され、組織文化が変わったかもしれません。
その当時のチームコンセプトは「とりあえずギドブッフバルトを中心に守って、ボールを奪ったらカウンター」でした。とりあえずまずは守る。ボールを奪ったらパスの名手であるウーベ・バインにボールを渡してFWの福田正博や野人・岡野を走らせるという明確なサッカー。当時の監督はボルガー・オジェックだと思いますが、やる事が徹底していました。

見ている方も清々しかったですね。とりあえず岡野走れ!!みたいな感じでした。

福田正博も得点王になりましたし。福田も解説者として定着していますが、やはり浦和の中心は福田正博であり、今後監督を是非やって欲しい。私の願望だけですが・・・。

 当時はカウンターサッカーを確立したかに思いきや、クラブの方針で攻撃的サッカーへの転換を図ります。しかし浦和レッズの悪いところは監督がはまらない事です。

その後ケッペル新監督になりましたが、据えましたが全くダメ。攻撃的サッカーといってもビジョンが不透明のままでは強くなりません。診断士試験でいう社長の想いが伝わらない状態だからです。

浦和レッズを振り返るシリーズはまだまだ続きますが、今日はこのへんで・・・。

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