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アクションゲームにおける“ダイレクトな死”の回避の歴史

 最近、ツイッターでシューティングと難易度の話題が上がっているのを見ました。歴史的経緯などを含め、この話は定期的に繰り返されますね。

 ぼくもこの話題については以前、強制スクロールという視点からnoteに記事を書いたことがあるのですが、今回また違う角度から、シューティングゲームを含め、アクションゲームにおける「死に易さ/死ににくさ」がどう変遷してきたか、少し書いてみました(ちょっと大げさなタイトルをつけてしまいましたが)。

ブロック崩しが持つ独特のシビアさ

 昔、ブロック崩しがゲームセンターのカジュアルゲームの代表格だった時代がありました。1970年代後半の短い時期ではありますが、このころはまだゲームの種類自体がとても少なかったので、当時ゲームセンターに通っていた人にとっては、大変印象に残るジャンルだったと思います。

 ただ、ブロック崩しの持つ、ほかのジャンルにないシビアな特徴として、ボールが飛んできたタイミングで自機のパドルを確実に「その一点」に移動させないとミスになる、というのがあって、非常に“神経を使うゲーム”ではあったんですね。

 難易度自体はどうにでも作りようがあるのだけど(ボールの速度、パドルの大きさ、ブロックとの距離、ヒット時の跳ね返り角度のランダム性の導入等)、そのこととはまた違う、構造的に曖昧なプレイが許されない遊びだった、とでもいえばいいでしょうか。

 ごく短いスパンで定期的に「特定の時間に」「特定の座標に」移動しないと死にますよというルール。高い集中力と緻密な操作が求められる。でも、これをゲームマニアでも何でもない層がこぞって遊んでいた時代があったわけです。

 これが80年代に入る前にはもう、『スペースインベーダー』を機にシューティングゲームに取って代わられます。

ブロック崩しとシューティングは似てるようで正反対のゲームだった

 「カジュアル層にとって、ブロック崩しよりシューティングゲームのほうが(複雑で)難しいだろ」って思われるかもしれないけど、当時はジャンルとして新鮮だったというのがまずあって、プラス、ブロック崩しの「弾を受ける遊び」から、正反対の「弾を避ける遊び」になったことで、敵弾の座標さえ避ければ、基本的に自分が「どこにいてもいい」遊びになったんですね。

 このことから、当時シューティングゲームに感じた自由度はすごく大きかった気がします。集中力が必要という点では一緒かもしれませんが、受動的だったブロック崩しからすると、自身がショットを無限に発射できることも含め、自分の意思で能動的にプレイしている感、自ら攻め込んでる感がすごかったわけです。

(もちろん、すべてのプレイヤーが『スペースインベーダー』などのシューティングゲームに移行したわけではありませんが、このとき、とてつもなく大きなムーブメントがあったことは間違いありません)

 でも、やがて敵弾がどんどん強化されたり、システムも複雑になり、シューティングは尖鋭化していきます。反動として当時『アルカノイド』で先祖返り現象が起き、そして『テトリス』が登場します。カジュアルプレイヤーはそちらに(それだけではないですが)流れていきました。

『テトリス』は一定のプレイ時間が保証されている

 今さらな話かもしれませんが、『テトリス』のすごいところの一つに、タイマー制の遊びというわけでもないのに、一定時間は絶対に(スティックを真下に入れ続けていたら別ですが)死なないことが保証されているという点があって、かといってプレイヤーに緊張感がないかというと、その間ずっと頭脳的な遊びをしています(無敵とは違う)。大小のミスが積み重なることでどんどん山が積み上がり、ゲームオーバーに近づいてることが明確にわかる。これは画期的な遊びでした。

 もちろん、アーケードで一定時間死なない(プレイ時間が保証されている)ゲームというと、たとえばレースゲームだったり、クイズゲーム、スポーツゲーム、ガンシューティングものなどもありました。ただ、それらはタイマー制やHP制で、少なくともそれが尽きるまではゲームオーバーにならないというルールであったり、序盤は敵が攻撃してこない等の配慮によって、プレイ時間を保証していました(残機制もそれらに近いといえばそうなのですが、残機制はよりミスがゲームオーバーに直結して感じられる仕組みだったと思います)。それらに対して『テトリス』の斬新さと吸引力は強烈だったんじゃないかと思います。

 仕組みとしては、近年のスマホのハイパーカジュアル系ゲームの多くもこれに若干近い気がします(敵からの攻撃という概念がない)。

“死(プレイヤーミス)”に至る過程の分割

 この視点で格闘ゲームを見ると、敵と自分が攻撃を当て合う遊び、という点ではシューティングゲームと同じだけど、一発で死ぬこと(もしくはそれに比類する大きな一発)がなく、ミスの積み重ねで徐々にゲームオーバーに近づくという点では、『テトリス』と同じ優れた仕組みが組み込まれている、といえます。

 つまり、アクションゲームの歴史は、死に至る過程もしくはその概念をどんどん細かく分割していくことで、遊びやすさやプレイの納得性を高めていった歴史でもあるーーそういう見方もできると思うんです。『魔界村』や『スーパーマリオブラザーズ』などは、そうした要素が導入された初期のゲームです(耐久力がある)。

 これは単純に良し悪しで語ることではないとは思いますが、主に当時のシューティングゲームは、格闘ゲームと異なり、その「回避難易度」にかかわらず、すべての敵の攻撃力が一律なんですね。ザコ弾も敵の体当たりも極太レーザーも当たり判定つき背景も、受けるダメージは「1」(もちろんHP制のシューティングもありますが)。

 格闘ゲームは、そうした土台の違いの上に、さらに「対人戦」という短時間決着型の仕組みも乗っかっているわけなので、それは新鮮だったし、(当時のゲームセンターにおいて)商品として強いですよね。

 余談ですが、弾幕シューティングは、ここぞというところで「ほとんどある一点の座標を見つけてそこで弾を避ける」という点で、ブロック崩し的な遊びにある意味先祖返りしてる、ともいえるのが興味深いです(厳密には一点ではないですし、そこを見つけ出す要素もあるわけで、同じではありませんけれど)。 了

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