見出し画像

久しぶりに母親の状態像から考えた。

母親の認知症状はかなりのスピードで低下が進んでいるのだが、とにかく認知症は困らされると同時に、脳の機能の不思議を思わざるを得ない。

例えば、デイサービスで午後は脳トレをやっているようで、その脳トレのペーパーを見ると漢字の読みや、算数の計算などをやっている。その返却されたものを見せてもらって驚くことがしばしばだ。

日頃、日常の通じなさから見ていると、「頭がわからなくなってしまった」と当方はどうしても思いがちになるのだが、そういうのが裏切られてしまう。例えば漢字の読みだって、今の北海道の季節でいえば、「啓蟄」という言葉だろうと、「鶯」だろうと、母は読めるだろうと思う。算数とて、さすがに二ケタ同士の計算としては出てないが、二ケタと一ケタをかけると言っても、奇数同士だと結構面倒な計算だと思う。例えば「79×7」なんて計算は横に計算式を書いてやらないと答えが簡単に出ないのではないかと思う(ぼくなんか計算式を書きそうだ)。でも母親の場合、全て暗算で出来てしまう。

普通の意味で「読み書き、算術」に支障がないのだ。丁稚奉公、合格だ。
だが、母親にとっては今日が仮に火曜日で、4月27日であっても、明日が28日で水曜日になり、訪問で誰々が来る、あるいはデイサービスに行く、ということの理解が困難なのだ。真剣に新聞の日付とか、時計の日付とかで日付合わせをしている。これではでっち奉公どころか、一人で日常生活を送れない。

短期記憶に関しては脳の「海馬」という場所が大きな役割を果たしているらしいが、難聴を考えると側頭葉にも問題があるかもしれないし、良く幻視を見ることを考えると、視覚を司る後頭葉にも何か原因があるかもしれない。

ともかく、個別の「読み書き算術」という部分の完璧さと、全体を総合する概念の統合がどうしてかくも噛み合わずに崩壊しているのだろうか。これは“嘆き“の意味合いばかりではなく、そのメカニズムの不思議を自分は知りたいなあという強い要求が生じてしまう。誰かわかりやすく説明してくれないものだろうか。(あるいは、わかりやすく説明されても、理解できない僕自身の生物学の無理解があるのかもしれないが)。

今日は珍しくデイサービスに行く時間に本人の夢幻の世界が醒めなかったらしく、デイ職員さんに電話で代わってもらっても、混乱した話をしながら本人は憤っていた。職員さんが別の送迎先に移動してまた戻ってきてもらい、落ち着いてからデイサービスに連れてもらう形にしてくれた。落ち着いてからいただいた職員さんの懇切な応答に感謝しつつも、最初はやや苛立ちを含んだ「また改めて来ますから、落ち着くよう自宅に再び電話してもらえませんか」と少し余裕なく言われ、職員さんのスケジュールに狂いを生じさせてしまい申し訳ないなと思う。

それにしても「ザルのように忘れる」というか、あの複雑に刻まれたシワの多い「脳」に刻まれてはいかない、記憶が「刻まれない感じ」というイメージは言葉にはしにくい、こちらの肉体にもズシリとこたえるものがある。ずっと同居してきて、初めてわかっていく母の頭脳には刻まれていかない日常の様々な簡便なコミュニケーションの要素。常識的な立場から言えば苛立ちの要因であり、違う次元にあるのだという立場から考えれば、「不思議」としか言いようがない。
「読み書き、算術」の支障のなさとの落差が極端にあるから、なお一層のことだ。

父を送り、その後認知症に母がなって四年、父を施設で見送ってから5年。僕は「記憶力が高い」とか、「能力」とか、自分の痛烈な「才能崇拝」がずいぶん減ったような気がする。(それでも嫉妬心を含めてまだその要素があることは認める)。

どんなに常識的でも、どんなに艶やかでも、最終局面は肉体に毀損が生じて、人は皆老いて最終的には死が待っている。仏教で言う「生老病死」の四苦と言うのはもっとも哲学的な意味で生き物の、特に人間の究極的真実だと思う。引きこもりも神経症病みも、「老病」の恐怖と不安、そして「死」の不安が究極なのだと思うし、それが「生」の苦しみでもあろうと思う。

だ か ら こ そ

いま、瞬間が幸せであること、幸せを指向することは決して否定してはいけないのだろうと。そう自分は理解しないといけないな、と思う(一応、と言うしかない所がつらいが)。
今年還暦を迎える自分も老いが近いわけで、母を鏡として自分を見なければならないと考え、彼女に付き合うことのしんどさの愚痴と同時に、自分も自分の肉体でできなくなることが中心になっていくということ。これを考えてしまう。

夢のような未來を見るより、「終わりから考える」と言うのも、生きる今を楽にしていく方法にもなり得るのではないだろうか。そういう逆転の意識が自分に芽生えつつあるような気がしている。

いつか好物も美味しく感じなくなリ、いつか執着する愛する人や物、対象との付き合い、環境もおぼろげになっていく。
だからこそ、今。

自分が好きなもの、好きなこと、好きな人、大事な人たちを再考して吟味して味わう。その幸せ。

この場合、過剰に煌びやかになるイメージは僕は持ってない。タワーマンションに住みたいとか、高級寿司を食べたいとか。そんな自分に見合わないことではなく。ごく普通の幸せ。大事だなと。

ただ、僕の文章を読んでくれるような人たちは結局、最初から「自分さえ良ければいい」とは思えない人たちだろう。結果だけ見れば、自分だけでも幸せにということはあるかもしれないけれども、どこかで他人があっての、社会があっての、対象があっての自分であると言うのは抜けないだろう僕らだから。他者の世界が抜きの自分の瞬間的な幸せへの執着というのは感じにくいだろう。

いずれにしても、老い、病み、死に向かう人と向き合って生活するというのはそれなりに大変だけど、きっと今何かを学んでいるところもあるのだろうと思う。

一つは前述したように、「終わりから考える」という思考もあってもいいんじゃないか、ということだ。

うむ。結論がうまく着地できなかった気がするが、そういうことだ。

よろしければサポートお願いします。サポート費はクリエイターの活動費として活用させていただきます!