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京都旅行2日目ー比叡山延暦寺、銀閣寺

5月21日 火

 今日も京都は天気が良い。我ながら晴れ男だと思う。
今日は比叡山へ。八瀬比叡山山口というところまで電車で行って、そこから急峻な山坂をケーブルカーとロープウエーで登ると比叡山の延暦寺東塔前に着く。
 比叡山は本当に鬱蒼とした大きな山で、京都と滋賀県にまたがっている。開祖・最澄の力に驚かされる。平安朝を造営した桓武天皇に特に気に入られたが、当時の仏教主流派であった奈良の南都六宗には嫌われ、天台宗開祖として奈良仏教と対峙する(桓武天皇も政治化した南都六宗の奈良を遠ざけ、京都に都を置いた経緯がある。その意味でも最澄という存在は天皇にとっても大きかったと思われる)。
 比叡山の中心、根本中堂は改修中で、中は拝観できる。かなり遠くに本尊薬師如来が見えるが、率直にいって遠い。ここに青年最澄が彫った仏が秘仏として逗子の中にあるらしい。山岳修行者のようにこの比叡山で天台教学を極めようと決めた最澄は、なんとそのとき21歳。当時としてそんな若い時から一切衆生を救いたいと願をかけたというから、ただならない信仰者である。南都六宗とは法論でたびたび対立していたとはいえ、空海が本当の密教を持ち帰ってきたらそれを学び、禅の方法論も取り入れた。仏教の悟りの入り口が真摯であればどのような仏教思想も自らの御山に取り入れ、いつのまにか天台・真言・法華経など比叡山は文字通り日本仏教における総合大学のようになり、そこから専門の学派とでもいったら良いだろうか。比叡山教学を学んだ天才たちがのちに自分たちの専門分野でその後の鎌倉新宗教に至る教祖たちになる。禅宗の栄西、道元。浄土教の市ひじり空也、そして専従念仏・法然、親鸞、一遍。日蓮宗の日蓮など、この比叡山で深く学び、ある者は唐へ行ってより深く、ある者は人々の中に入り戻って衆生済度へ向かう。そこには叡山開祖の最澄の根本哲学、「一隅を照らす」に収斂するものといえそうだ。
ーーー長々と前講釈が過ぎた。とにかく今日は比叡山を中心に観光をしたのです。

〈東塔〉


・根本中堂
 ちょうど修学旅行の中学生たちが根本中堂の由来や法話を聞くときとバッテングしたので後ろで一緒に聞かせてもらう。想像が容易なほどに中学生にとって由緒あるとはいえ、比叡山の開祖の話や仏教の話などは彼らにとって縁遠いものと思う。かなり退屈で落ち着けないのでは?と思ったが、意外にみな静かに真面目に話を聞いている。感心なことだなと自分の中3時代を顧みて思う。



・大講堂
 長々上述したように、この叡山修行を卒業した?我々に馴染み深い自らの宗派を作った開祖たちの、ここに彫像と肖像が飾られている。それらがメインな感じだ。





・阿弥陀堂
 本日最初の急所。急な階段が結構長く、息を整え、少し気合を入れて歩く。阿弥陀堂は本尊の阿弥陀如来が祀られ、そしてこの堂の隣りに法華総持院東塔がある。これを持って比叡山東塔というのだろう。ある意味法華経は大乗仏教の中でも最も平等性が高い教えと言えて(女人成仏も唱えている)、最澄も一番徳があるお経として法華経を認める。

・国宝館
 階段を下って国宝館へ。こちらで最も印象深いのは小さいながらもとても個性的でリアルな維摩居士坐像だった。木彫りの四天王のうち二像もこちらに安置され、それも見事だ。仏師の確かに木彫りだが、木の軽みが全然感じられない。仏師の技術に感心するばかり。

もつと知りたい延暦寺の歴史(東京美術社より)



〈西塔〉

 その後に東塔から西塔にまっすぐ歩いて移動する。東塔から西東までのシャトルバスもあるが、両者の間にそれほど距離はない。比叡の山中を歩いていくが、平日のためか人っ子ひとりいない、と言ってもいい。途中で若い西洋の女性たちの3人組と居合わせたくらい。

・にない堂

西塔の境内に入ると、まず親鸞の浄土真宗と、日蓮の法華経を学ぶ御堂がふたつながら同じ大きさで朱色に染められて建てられている、そして二つのお堂は渡り廊下でつながっていて、「にない堂」というらしい。ふたつの専門の教え、“にない“=担ってくださいよ、という感じだろうか、なんちゃって。
なんとなくライバル銀行が並んでいて、渡り廊下で繋がっている姿を想像した。

・釈迦堂
 この御堂は比叡山のお堂の中でもっとも鄙びていて、昨日の東寺を思い起こさせるものだ。

・横川へ
延暦寺西塔から、場所的に最も滋賀県側に面する横川にシャトルバスで行こうと思ったが、バスが来るまで30分以上ある。この際歩いて行こうと山道を歩き始めたが最後。一昨年の奈良の大野駅から室生寺へ向かうヤバイ自然道歩きと同様な山岳修行道ケースになってきた。



エッセエッセと歩き歩き、何とか一般道路と交差した。右を見ると駐車場があり、展望台とレストランが見える。これ幸いと昼食もまだだったのでそこに向かうと、横川の一つ手前のシャトルバス停だった。横川行きの時間を確認し、横川についたら参内を見学するのは諦め、まっすぐ延暦寺バスセンターから比叡山を降りる時間を確認し、レストランで食事。平日でレストランの客は外国人客グループのみで眼下に山脈と琵琶湖の展望が素晴らしい場所をとる。最高なロケーション。


 横川について、あとは各宗派オールスターの生い立ち絵解きの絵を眺めながらほんの10分ほどで午後3時半のバスで比叡山を降りて、大ファンの銀閣寺前で下車。ほかにお客が降りるボタンを押してくれたから良かったものの、ここは本当に銀閣寺の前なのかと思うくらい、ギリギリまで山中の気配が濃厚だった。一つ手前の駅から市街の入り口まで相当長くバスが停車しなかったこともあったと思う。

・比叡山観光で考えたこと
 実際に比叡山について思うのは、この比叡山そのものが全て結界である仏「仏の山」だということに尽きるかと思う。だから織田信長の比叡山焼き討ちという大変な悪業とも言える災厄ゆえに、実際には再建は豊臣秀吉以降のもので、根本中堂の現在の修復中の姿にも見られるように、思った以上に仏寺の美学に執着してるふうには見えない感じもある。それはあくまでこの山が仏道修行に専念する学坊を中心に据えているゆえもあろうかと思う(有名な千日回峯行とか)。

 それにしても、織田信長の延暦寺への弾圧ぶりは何故だろうか。伝わるところ、比叡山焼き討ちは各塔は言うに及ばず、老若男女、僧俗問わずに数千人以上犠牲者を出したというから驚きだ。その驚きは実際、この深くて、かつバスで各堂を回らなければならない山の広さ思えば、その破壊にかける力、叡山にも当時三千からの僧兵を抱えていたというから、抵抗勢力も数としても相当だったと思うが、確かに日本史に残る最大級の宗教弾圧だったと思う。織田信長の行動を持って日本の中世は終わった、というのは宗教的な意味では確かにそうだったのかもしれない。以後の仏教は普通の生活にはお葬式、そして関心の持ち方としては美学や美術として残り、もはや最澄や空海が思い描く宗教世界のパッションはなく、それはすでに明治維新前からそういうふうなものとして日本の宗教はなっているものではないかと思う。


・銀閣寺
 話は変わって銀閣寺はいつきても良い。最高だ。この寺社は本当に大好きだし、建築様式の景色が最高だと思う。最初のインパクトも大きかったし、以後いつ来ても素晴らしいという言葉しか浮かばず、飽きるところがない。庭の景色も素晴らしいし、一巡するときに方向を変えて浮かぶ銀閣=慈照寺の姿は本当に美しいというより、素晴らしいを繰り返したくなる。ぼくはそう感じている。



 京都に多大な損害をもたらした応仁の乱の責任者でもある将軍足利義政は結局政治に関心がなく、建築ばかりに関心のある人だったという。逆説的だが、心血注ぐその形がこういう美として残ったのなら、皮肉というしかない。まあ、そんなことは忘れてもいい。yoー

暗くなったホテルへの帰宅時、夜景の中でも明るい東寺の五重塔を見て、ああ、これもやっぱり素晴らしいなぁと改めて思った。

比叡山につながる大乗仏教への歴史と、最澄については、こちらの動画をどうぞ

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