見出し画像

宇野重規 日本の保守とリベラル 第七章〜終章

1979−1980年 日本の戦後保守主義の転換点

全ては1979年に始まった?

・イデオロギーから市場化と宗教の時代の始まりの年
 この年は世界にとってと同様、日本の保守主義にとっての大きな転換点だった。
 この転換を総理大臣であった大平正芳の政策研究会を中心に考えてみたい。
 1979年はイギリスでサッチャー政権が誕生し、中国で鄧小平による開放政策が本格化するなど、その後の市場化への流れを加速する重要な転換の年であった。同時にイランでホメイニ革命が起き、ソ連のアフガニスタン侵攻に対する抵抗運動が活発化するなど、現代イスラム復興の起点の年ともなる。

20世紀が実質的に1917年のロシア革命とともに始まり、1989年のベルリンの壁崩壊で終わったとすれば、この世紀はまさに「社会主義というオルタナティブ」とともにあった一世紀であった。
 そしてそれに変わる社会の推進力が一方において「市場」に、他方において「宗教」に求められるようになった。(また、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル)が刊行された年でもある)
 その時、日本の経済は好調で、市場でも宗教でもなく、自らの現状の維持を選んでしまっていた(世界が新たな方向性を模索し始めた頃に)。

大平首相の研究会


 1979年、日本では大平政権が本格始動。彼は1月25日の施政方針演説で、日本社会の新たな課題として「近代化」から「超近代」へ、また「経済の時代」から「文化の時代」への転換を主張する。
 具体的に9つの政策研究グループからなる「大平総理の政策研究会」を発足させる。特に「田園都市」「環太平洋連帯」「文化の時代」といった研究テーマは大平自身のイニシアティヴで決定され、梅棹忠夫、内田忠夫、大来佐武郎らは大平自身の指名による。
 この研究会はオイルショックを乗り越え、ある意味で完成を迎えつつあった日本の戦後社会が本格的な転換期を迎えた問題意識に立つもので、そこで示された課題の数々はその後も決して完全に克服されたとは言えない課題群である。

 中央集権の是正と地域社会の発展、脱物質主義的な生き方や価値の追求、新たな中間層の育成、情報化社会への対応、環太平洋時代の国際戦略。

 この時期から、「中央公論」文化人が活発な議論を繰り広げていく ー 香山健一、佐藤誠三郎、公文俊平、山崎正和、村上泰亮など。
 書籍として『文明としてのイエ社会』(村上・公文・佐藤)、『新中間大衆の時代』(村上)、『柔らかい個人主義の誕生』(山崎)
 この時期を境に丸山眞男に代表される「岩波知識人」から「中央公論知識人」の時代が始まった。

研究会の背景にあったもの

 この学者・文化人130名、官僚89名からなる大掛かりな研究会は、一つには日本の保守主義内部における危機意識の高まりを指摘できる。
 1975年に『文藝春秋』に発表された論文「日本の自殺」。この論文は“グループ1984“というペンネームで発表されたが、メンバーは香山健一・佐藤誠三郎・公文俊平である。ウシオ電気社長の牛尾治郎の仲介により、大平研究会の組織化においても中心的な役割を果たす。論文で印象的なのは現代社会における「魂の分裂」「社会の崩壊」による「自己決定能力の喪失」などの日本社会の精神的解体、危機に瀕しているという危機意識である。

石田博英

 このような診断の背景にあるのは、日本社会の構造的変化であった。1963年、すでに石橋湛山のブレインであった石田博英は高度成長のもと、農村から都市への人口移動が続いていること、結果として農村部を基盤とした自民党の得票率の低下は今後も続くと予測。この論文がきっかけとなってこの時期以降、自民党の近代化を目指す党内改革の動きが活発化した。
 このような動きに対し当時、党組織の合理化、派閥解消、小選挙区制の導入などの指針が議論されたが、大平の思考はそれとはやや方向性を異にしており、彼の念頭にあったのは経済成長を軸とするキャッチアップ型の近代化の限界という主題であった。(ローマクラブの報告書『成長の限界』などの影響も考えられよう)
 大平は、ここで本格的に経済成長を中心とする近代化の「次の段階」を構想するようになる。1973年に始まるオイルショックは、まさにこのような構想の正当性を示すように思われた。
 大平は次第に自らの立場を「近代を超える文化の時代」として定式化していく。背景には、外交的にタカ派として知られ、自主防衛や憲法改正に対して熱心なライバル、福田赳夫の立場への対抗意識があったと言える。

大平研究会の両義性

1980年に発表されたベストセラー小説、『なんとなく、クリスタル』の膨大な脚注の最後は人口問題審議会の報告書から抜粋された少子高齢化を示唆する予測であった。
 少子高齢化の原因は男女関係のあり方を中核とする、人々の価値観や生活スタイルの変化にあるということの認識も生まれつつあった。大平研究会にはジェンダー研究者もおり、1986年の男女雇用機会均等法へつながる一つの源流を見ることもできる。
 とはいえ、問題点もまたここにある。部会の報告書を一読すれば明らかなように、そこで中心的に描かれているのは、基本的には企業に働く夫と専業主婦であるその妻、という家庭像である。それは文字通り「男性稼ぎ主モデル」そのものと言わざるを得ない。他の部会のおいては顕著な日本型経営、日本型企業モデルへの肯定的評価と相まって、今日なお有力な家族モデル、働き方のモデルがここで雄弁に語られている。
 同じ研究者たちで書かれた「日本の自殺」と違い、「大平総理の政策研究会」に目立つのは、自己肯定の意識と、現状追認の姿勢である。この間にあったのは、オイルショックを比較的早期に克服したとされる日本経済のパフォーマンスにあった。(終身雇用、年功序列、企業別組合の三種の神器)
 その意味で、日本社会の構造的変容に対する鋭敏、かつ正当な問題意識からスタートしたにもかかわらず、結果としてこの研究会は、強力な現状維持イデオロギーを生み出す装置になってしまった。

大平研究会の残したもの

 大平研究会は大平の突然の死によって終わりを迎える。大平の跡を継いだ鈴木善幸首相は研究会に関心を示さず、その報告書は政治的影響力を持たなかった。
 唯一の例外は中曽根康弘で、中曽根はこの報告書に注目し、のちに香山・佐藤・公文は中曽根首相ブレインになって、第二臨調や行政改革を推進する原動力になっていった。

中曽根康弘

 ただし、大平から中曽根にかけては明確な違いが存在すると説く論者もいる。例えば政治学者大嶽秀夫は、中曽根行革を主導したのは主に経済学者や財界人であり、改革を貫いたのは経済的自由主義のイデオロギーであったと主張する。対する大平ブレインの場合、文化人を多数含んでおり、競争原理とは異なる独自の理念を持つグループであったと。
 この点で、同じく大きな政府を否定したとしても、その論理は大平グループと中曽根グループは大きく異なるというのが本書の立場である。すなわち、大平らが国家主義に対抗し、地域コミュニティや企業組織などの中間集団を重視したとすれば、中曽根らは民営化によって新自由主義的改革を進めようとした。イデオロギー的に両者は全く異質である。
 中曽根内閣は1986年の衆参同日選挙で大勝し、「左にウイングを伸ばした」と主張されたように、生活が安定化し、保守化した都市民の支持を獲得することで、日本の保守派は新たな時代を開拓した。
 大平研究会の遺産は中曽根によって両義的に継承され、バブル経済に向かっていたこともあり、報告書の持つ、より楽観的で自己肯定的な側面が肥大化された。

 しかしながら、大平研究会のより積極的な面が1990年代の日本政治に全く影響を残さなかったわけではない。例えば日本新党の細川護熙による1993年以降の政治改革、そして細川の下での連立政権の発足。
 さらに細川政権が倒れた後の自民党が社会党を担いで発足させた自社さ政権。連立政権を主導したのは大平の政治的後継者であった加藤紘一であった。例えば95年の村山談話。この限りにおいて1990年代の前半から後半にかけて、ある種の「保守リベラルの時代」ともいうべき一時期があった。それは大平研究会の遺産が最後の輝きを示した時代であったのかもしれない。だとすれば、日本の保守主義について国家主義的な潮流と一線を画し、むしろ発展しつつある日本の市民社会の発展に期待するもう一つの保守主義という意味で、大平研究会には一定の意義があったのは間違いない。この方向性は90年代に独特な輝きを見せ、そして2000年代以降は完全に沈黙してしまっている。

 「市場化と宗教」へと向かう時代にあって、日本の保守主義が独特な選択を行った。それは日本社会の自らの現状維持を図るものであったことは、今日の目からすれば明らかである。とはいえ、そのような現状に対する異議申し立ての種子もまた、この時代の知的動向をしっかりと捉えていた。その意味で大平研究会が示した日本社会の評価はその後の「失われた30年」をある意味決定づけると同時に、それを乗り越える鍵を秘めていたと評価することもできる。

終章 日本の「保守」と「リベラル」の現在と未来

 終章では日本の保守とリベラルの現在と未来を検討する。
 7年8ヶ月の第二次安倍政権が2020年9月に終焉、短期に終わった菅義偉首相を挟み、2021年10月には自民党内リベラルを代表する「宏池会」出身の岸田文雄首相が権力の座についた。

戦後保守政治からの転換

1955年、自由党と日本民主党が合同して成立した自民党は、明らかに異なった政治的思考を持つ集団が併存していた。重要なのは、軽武装・経済国家を目指す吉田茂の路線と、ナショナリズムへの思考をより強く持つ岸信介元首相の路線の違いである。前者が日米安保体制の下、自由な経済活動を重視したとすれば、後者は安保改定でアメリカに対してより対等な関係を求めたように、日本の独立を強く求め、自主憲法の制定を主張した。しばしば「保守本流」と呼ばれるのは吉田茂の路線である。
 前者の流れが池田勇人から大平正芳へと繋がる宏池会へと継承されたのに対し、後者の流れは岸から福田赳夫の清和会に受け継がれた。両者の間にあったのは、吉田の愛弟子ながら、岸の実弟である佐藤栄作で、そこに起源を持つ田中角栄から竹下登へ引き継がれた経世会への流れである。
 この三派のうち、高度経済成長からバブルにかけて優位だったのは、田中角栄と大平正芳の友好関係に象徴される経世会と宏池会の連合であった。清和会の流れが劣位だったのは、背景にある経済成長と冷戦体制である。
 このような状況が大きく転換したのは冷戦終焉である。この時期バブル経済崩壊によって経済成長時代が最終的な終わりを迎えたことと併せ、戦後政治の大前提が崩れた。1990年代は政治改革の時代になったが、この時期に経世会が分裂し、宏池会の存在感が次第に低下する。アメリカの軍事支援のもと、経済に専念できた戦後日本の「保守本流」の時代は終わりを告げた。
 2000年代以降は、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と清和会出身の首相が続くことになる。それぞれの個性に違いはあっても、経世会が分裂し、宏池会の地盤沈下の必然的結果でもある。このうち、特に安倍元首相は、より明確にナショナリズムへの志向を強く持った。日本を巡る東アジアの国際状況の変化を受けた結果でもある。
 安倍元首相の保守主義は、今までの保守本流が日本国憲法を前提としつつ富の再分配による平等を目指し、キャッチオールを掲げる包括的保守だとすれば、安倍元首相の保守は憲法改正を強く求め、左派、リベラルへの敵愾心を隠さない、より対立的な保守である。協調主義的な保守ではなく、世論の分断・分極化を前提とする、より攻撃的な保守であった。その意味で、安倍元首相の長期政権は政権運営や選挙戦略の巧みさに還元できない、時代的な背景があったといえよう。そのような時代の変化に最も適合的だったのが安倍元首相であったとすれば、経済停滞と東アジアの国際的緊張が続く限り、「安倍的」なものが続くことが予想される。


歴史的転換点としての宮沢喜一政権

宮澤喜一

自民党内の「保守本流」の衰退は、宮沢喜一政権(1991=1993)においてすでに明らかであった。
 蔵相だった池田勇人ともにサンフランシスコ講和条約の準備交渉に加わり、会議にも随員として参加した宮沢は、まさに戦後日本の保守政治の生き字引であり、その中枢にあり続けた政治家である。大蔵省から政界入りし、大平正芳とともに池田政権の運営を支えた宮沢は、宏池会を継承し、常に戦後日本の保守政治の「本流」にいた稀有な存在である。宮沢は単に保守であるだけでなく、本書での用語法からすれば、「保守リベラル」と呼ぶべき存在であった。宮沢は常に自らを「保守」と定義し、リベラルを自称することはなかったが、自由主義的な信念を持つ政治家であったことは間違いない。
 宮沢が1991年に政権の座についたのは皮肉なことで、ある意味保守本流を支えた二つの大前提(経済成長と冷戦体制)が崩れていく時代に「保守本流」の最後の切り札である宮沢が70歳過ぎてようやく首相になったのである。
 宮沢は首相就任直後にPKO協力法案に取り組むことになった。知米派の宮澤は、日米関係が大きく揺らぎ、安全保障面を含め、日本の新たな指針を求められた時期に政権を担当したのである。その後、政治改革において主導権を握れないまま、総辞職し、自民党が下野。五十五年体制最後の首相となった。

「保守」と「リベラル」の現状

 このように「保守本流」と「保守リベラル」は、冷戦終焉と宮沢政権終焉を機に次第に衰退していった。それでも「リベラル」については、1990年代の一時期、独特な輝きを示したとも言える。戦後「革新」と呼ばれた勢力の一部はこの時期に「リベラル」の名の下に生き残りを図り、そこに自民党内の保守リベラルが合流、結果として「自社さ」政権が誕生し、社会党の村山富市を首相とし、石橋湛山に私淑した田中秀征が新党さきがけの理論的支柱として連立政権を支え、日本の植民地支配と侵略行為を認め、謝罪した1995年の戦後50年決議は、ある意味で1990年代における「リベラル」政権が生み出した数少ない成果の一つであった。

 しかしながら、2000年代以降は自民党の清和会出身の首相時代が続き、他方で自社さ政権のメンバーの一部はのちに民主党結成に向かい、2009年には政権交代を実現した。鳩山首相は「新しい公共」を掲げ、市民運動出身の菅直人が次首相になったが、「リベラル」と呼ぶに相応しい政策を実現するには至らなかった。

21世紀のリベラリズム

現代の日本に求められているのは、21世紀にふさわしい新たなリベラリズム、それはこれまでの「リベラル」や「保守リベラル」と呼ばれたものの単なる焼き直しであってはならない。
 まず着手すべきは、「多様な価値観を表明し、受け入れるだけの気概と道理を持ったリベラル」の再建であろう。
 福沢諭吉や石橋湛山、清沢洌ら近代日本のリベラル振り返る中で、彼らがいずれも明治の政治体制やエリート養成システムの「外部」に根拠を持つ。彼らのような外部性こそが、「自律」と「自由」への希求を支えたのである。

 現代日本において、社会のメインストリームにあえて異を唱え、自らの精神の独立を維持する、そして他者に対する寛容と相互理解を自らの精神の基本的態度として、その上で自らの責任において新たな企てに着手する創造的な「リベラル」はいるだろうか。
 日本における「リベラリズム」の確立は未だ実現されない未完のプロジェクトである。
 重要なのは、そのような「リベラリズム」を特定の個人のものではなく、社会に広く共有されるコモンセンスとして定着させることである。

 その際にヒントになるのは、本書で検討した丸山眞男の主体論かもしれない。丸山は現実に働きかけ、これを変革していく主体を模索した。初期は抽象的な形で展開されたが、やがて日本の伝統において人々を突き動かした多様な情念の具体的な再検討に向かっていった。
 例えば『葉隠』に象徴される武士の精神。かつて葉隠といえばひたすら主君への忠誠を強調する法権的思想の象徴のように語られた。これに対し丸山は、主君が主君として適切に振る舞わないとき、むしろ忠誠心ゆえに抵抗反逆する精神として、積極的に評価する。これは自由の国制を破った英国王ジョージ三世と対決したエドマンド・バークに通じるものがあったと言えるだろう。
 福沢の「一身独立して一国独立する」という言葉もまた、今日改めて振り返るに値する。果たして二一世紀のリベラルは「一身の独立」と「一国の独立」をどのように結びつけていくだろうか。

 また、戦前において僅かに清沢洌や河合栄治郎らによって主張されたソーシャル・リベラリズムの伝統についても残された課題である。個人の自由のために必要なのは、多様な人間の個性を活かし、その自己実現を支えるためには社会からの公的な支援が不可欠である。リベラルがリベラルであるためには、そのための社会経済政策が必要である。現代ではグローバルな資産課税や所有権の絶対を超えたコモンズの思想に注目する必要がある。

 リベラルに対して、日本の「保守」にとってはいかなる課題があるだろうか。近代日本で常に問題になったのは、「保守」が「保守」として成り立たないことであった。村上泰亮が指摘するように、明治以来常に「追いつき型近代化」を目指した日本においては、むしろひたすら欧米の制度、文物を無原則に導入し続けた「保守」の現実であった。そこに自らの自由の制度を持続的に発展させていく契機が弱かった。経済成長が終わった時代の保守の目標はあるのか、そこで大切にされるべき日本の歴史的な価値は何なのか。明治維新から150年過ぎ、ついに日本の「保守」はその名にふさわしい保守主義の思想を持ち得なかったと言える。

 現代日本の保守にとってつまずきの石になるのはやはり憲法であろう。保守主義は本来、現行の政治体制の基本的な正当性を承認した上でその斬新的改革を目指すもののはずである。そうだとすれば、憲法の基本的な正当性を疑い、「自主憲法制定」を目指す保守というのは、どうしても矛盾があり、それは保守というより、「異形の保守」である。もし現代日本の「保守」が真にエドマンド・バーク以来の正当な保守主義を継承しようとするならば、保守主義に不可欠な歴史の連続性の感覚を確保することが、保守主義の「正常化」につながるはずである。福田恒存は歴史における「切断を乗り越えて、なんとか連続を見出し、その架け橋を造ること」を進歩主義に求めたが、その課題は現在、むしろ保守主義の側においてこそ重要になってくる。

日本オリジナルの「保守」と「リベラル」

 その上で、今こそ目指すべきは、日本独自の「保守」と「リベラル」の意義と可能性を追求することではないか。例えば「保守」が前提とする歴史の連続性において、明治維新と戦後改革という二つの「断絶」がある日本はどうしても難しさがある。しかしながら、世界の多くの国々の歴史を振り返れば、歴史の連続性が確保されている国の方がむしろ例外的だと言える。多くの国々は革命や政変などによって、あるいは敗戦や侵略の結果として、大きな歴史的断絶を経験している。重要なのは、そのような深刻な断絶を経験した国々において、安定的な政治制度や社会的価値を創出することである。

1945年の世界地図



 世界の国々の多くで、その出発点から自由の原則が広く共有され、社会の基礎的な原理となった例はかえって例外である。いずれの国の場合も、自由の原理、リベラリズムの原理というのは、多くの対立や葛藤、矛盾や悲劇を通じて、徐々に社会に浸透し、制度的な保障を得るようになったのが現実である。現在の世界を見ても、多くの国において「リベラリズム」はなお、未完の課題であり続けている。

 今一度、私たちが真剣に考えなければならないのは、日本の政治的伝統のうち、何を価値あるものとし、その維持と発展に力を尽くすか、ということである。
 同時に、私たちはもっと「自由」にならなければならない。人間のエネルギーを引き出すのは、「意に反して人にやらされている」ときではなく、「自分の意思であえて選んで実行している」と感ぜられている時である。
 日本の政治において何を「保守」すべきであり、自分たちが「自由」であるために、何をどう変えればいいのか、今こそ、一人ひとりが静かに考える時である。

付録資料ー「自民党政治の変容」中北浩爾 〜 宇野重規「保守とリベラル」七章、終章用


よろしければサポートお願いします。サポート費はクリエイターの活動費として活用させていただきます!