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NPO法人 訪問と居場所 漂流教室 理事 相馬契太さん インタビュー(前編・2)

今の学校はどう見えているか

杉本:相馬さん自身には今の学校はどのように見えていますか?

相馬:うーん、難しいなあ。相談支援パートナーで久々に校舎に足を踏み入れてまず思ったのは、「こんなに貼り紙あったっけ?」ですね。あれするな、これするな。あるいは、あれしろ、これしろ。自分が中学生の時にもあったのかもしれないですけどね。当時は気にしてなかっただけで。

杉本:注意事項的な貼り紙が多いということですか?

相馬:そう。「○○委員会」とかで生徒が書いて貼っているんだけど、それは生徒の意見じゃないよね、「べル5分前着席」とか

杉本:(笑)そうでしょうね。書かされているんでしょう。

相馬:でも、子どもらの中でもそれが当たり前で、それでいいんだと多分思っている。

杉本:5分前着席が?(笑)

相馬:実際にするかは置いといて、「学校とはそういうものである」という価値観を持ってるんじゃないですかね。

杉本:なるほどー。自分も相当従順な子どもだったと思うけど……。そんなこともないかな(笑)。とにかくぼんやりしている子どもでしたけど。子どもってそんなに優等生でしたっけ?

相馬:どうでしょうね。わからないですが。あと、これは自分が在学中からうすうす感じていたことだけれど、入学式とか卒業式とかでなんでそんな脅すのかなと。

杉本:何ですか、それは。

相馬:言っている側は「激励」なんだと思うんですよ。脅すつもりじゃないんだろうけど。たとえば入学式では「中学生の自覚を持って」といった話をするわけです。卒業式では「これからは高校生になる。義務教育という期間は終わって、自分の責任がより増します」みたいな話をする。そんな脅さなくても、「おめでとう」だけでいいじゃないって思うんだけど。

でも、新入生もね。「早く○○中学校の一員になれるように頑張ります」って答えるんです。卒業生なら「○○中学校の卒業生として高校生になってもしっかり頑張っていきたいです」みたいなことを言う。

杉本:例えるなら高校野球みたいな?

相馬:俺は暴力団みたいだなと(笑)。ウチのしきたりに従えるか従えないか。

杉本:はは(笑)。やはり管理する場所との印象は持ちますし、何でしょうね、学校の歴史というのもちょっとあるかなと。古い話ですが、ぼくの兄は1957年生まれだけど、その頃はまだ高校生から学生運動をやってる時代の残り香があったそうです。そういう影響が何となく残りつつ、ぼくの中学校はプレ校内暴力校というか、荒れたクラスのわりと先駆けで、たまたま自分のクラスがそうだったんですよ。先生も抑えきれないみたいな感じで。そのあと校内暴力世代が出てくるじゃないですか。ぼくもよく知りませんが、「金八先生」じゃないけど体育会系教師みたいなものがガッツリ抑えにかかり、時には警察も入ってくるみたいな感じで。そのあとは管理教育で押さえ込んでいくみたいな歴史があったと思うんです。相馬さんが仕事で学校に入るようになったのは?

相馬:2012年ですね。

杉本:ほぼ10年前ですね。その頃はもう大人の側からの「こうあってほしい」みたいな流れが完成しちゃっていた感じですか。

相馬:うーん、そうですね。ただ、そこも別に無理に従わせているという感じではない。貼り紙に驚いたりとか、挨拶に驚いたりはしたけれど。学校差があると思いますが、総じて子どもらは本当に優しいですしね。

杉本:うん。それもよく聞きますね。

相馬:相手のことをよく考えるというか。まあ悪く言えば忖度するというか。で、先生方も別に乱暴ではない。非常に丁寧に生徒に接していると思います。だから環境としては別にそんな悪くなっている感じはしない。でも、きっといろいろしんどいんでしょうね、そんな中でもね。

杉本:そうか。落ち着いているわけですよね。荒れた学校とか、それを抑えるために高圧的に大人が振る舞うという時代も終わり……。

相馬:その辺もね。本当はわからない。小学校がひどく荒れているという話を聞いたりします。児童から先生への暴力があるとか、教室の中でも暴れるとか。で、高校は高校で、ニュースで聞く限りいじめの問題はなかなかハードだと。それは中学校もですが。だから本当に学校によって、もしくは地域によって違うんだろうなと思います。少なくとも、いまいる学校は穏やかに過ごしているように見える。でも、自分があそこに身を置いたらと考えると、やっぱりちょっと大変かな。

杉本:それは何なんでしょうね?

相馬:やはり人のことを考えすぎなんじゃないですかね。

杉本:ああ、そういうことですか。

相馬:30人のことをいっぺんには考えられないですよ(笑)

杉本:(笑)そりゃそうだ。

相馬:優しいは優しいし、気を遣うのは遣うけど、「気を遣わないとならない」になっちゃったら大変ですよね。

杉本:「気遣いの優しさ」と「気を遣わないといけない」は似ているけど、かなり印象に違いはありますね。それは何だろうな。一皮剥くと、ぼくもそうだろうけど、やはり集団に対する怖さみたいなものが背景にあるのかな?

相馬:そうかもしれないですね。

杉本:突出しちゃうとみんなからシカトされる、何かみんなから弾かれちゃうんじゃないかみたいな感じかな。

相馬:そこがね。わからないんですよね。というのは、自分の子どもの頃って全然まわりを見てなかったので。自分がこんなことしたら浮くんじゃないかとか思ったことがないんです。そもそも「浮く」という言葉があったのかというのもありますが

杉本:(笑)確かに。

相馬:おかしいと思われるんじゃないかとかね、そういうことを考えたことがなかったんですよ。特に小学生の間はね。中学生になると多少は出てきたけれど。

杉本:相馬さんの時代って学校は荒れてませんでした?

相馬:上はね。荒れてました。

杉本:校内暴力からもう少し後の世代?

相馬:そうですね。あと、小中と新設校に入ったので。

杉本:じゃあ自分たちが一番上級生だった?

相馬:いや、上もいるんだけど。上はそれまで他の学校に通っていて、新しい学校ができて移ってきた。小学校の時は新設校の2年目、中学校は新設校の1年目で、何というのかな。先生方に、「この新しい学校をいい学校にしていくぞ」みたいな気合いが入ってたんですよ(笑)

杉本:ぼくの中学校は、「ひどい」という伝統がね。地域的に悪いヤツが多いという伝統がありまして。兄貴も中学校すごく嫌いだったらしいんだけど。逆に新設校だと何もないから、おっしゃったように自分たちでつくっていくみたいな意識を持ちやすくて、そこはラッキーかもしれないですね。

相馬:そうですね。ただ、カルチャーとしての不良文化はあったから、『ビー・バップ・ハイスクール』の時代だし、何もなかったわけではないですよ。他校の生徒が乗り込んできたりもしたけれど、でも、大荒れというほどではなかった。

杉本:結局、今の中学生の辛さは、「空気を読む」とか「浮く」とかいう言葉が存在しなかった時代の我々とか、相馬さんくらいまでの時代とね。もっと言えば、学生運動があった団塊の世代くらいの「俺たちのほうに権力を寄せろ」みたいな。大人はたぶん敵であるみたいな。そういうのとはもうまったく違ってるんでしょうね。そもそも子どもも少ないでしょうし。

相馬:難しいですよね。自分たちの記憶もね。もうだいぶ改変されてしまっているじゃないですか。

杉本:それはまったくそうです(苦笑)

相馬:結局、そこを生き延びての今だから。記憶をダイレクトに今の中学生たちと重ねられない。なので、全体のことは置いといて、自分のことに限って言えば、それでもだいぶ補正は入っているけど、人のことを全然気にしてなかったなとは思います(笑)

反抗、どうでしょう?

杉本:教育大学の平野先生に話を聞いた時も、「自分はADHD傾向があって」みたいな話をしていて。人の家に上がって勝手に冷蔵庫を開けたりとか、勝手に人のものを触ったりしていたと。「ぼくなら避けていますね」と言ったら、「いや。そんないじめている意識は全然ないんだよ」と。まったく悪意はなかったんだけど問題児だった。先生からこっぴどくやられたという話をしてたんですね。でも「ADHD傾向があって」みたいな語り、昔はないですよね。

自分の中学時代も、明らかに5~6人ワルがいて昼休みなんか本当に荒涼たる世界で、特定のいじめられっ子が犠牲になる。ぼくもそっち側だから、逃げ回って昼休みは教室にはいられない。誰か彼か犠牲者が出る状況で。いま考えたら発達障害系の子どもばかりじゃん、みたいな話になりかねないですけど。でもある種、「ワルっているんだなあ」みたいな気持ちはあった。おっかない同世代、ツッパリや不良がいることはしょうがないことで、「発達障害」と括られた時点で何か元気がなくなってしまうでしょう。威張れる元気がなくなるというか。自分の方に問題あるんじゃないかみたいな目線になる。

ぼくはね、そうやって仲間をいじめたり先生を殴ったりする、そういう発散の仕方は絶対いいとは思わないですよ。でも何だろうなあ。ぼくの中で「大人に対して子どもは警戒すべき」みたいなのがあるのかな。それが、「発達の問題」といった言葉で管理されてしまう。何か自分の中でそう思ってしまう節があって。抗いの方法がなくなってしまうというか。無目的にいじめたり、大人に喧嘩を売ったりする必要はもちろんないんだけど、何か自分はそこに思想性みたいなものを持ち込みたくなっちゃうのかな(苦笑)。

相馬:それはどうだろう。わからないですけど。

杉本:何か反抗する元気があったほうがいいぞ、みたいに思うことが自分の中にあるのかな。「そのエネルギーを同世代にじゃなくて大人に向けたらいいんじゃない?」みたいな。尾崎豊モードみたいなものがあるというか。自分はやれないんだけど、やってくれる人がいたら拍手する。

相馬:ははは(笑)。「野蛮さはどうなっているのかな?」と思うことはあります。「知らねえやバカ」みたいな感じで全部ひっくり返したくなったりしないのかなって。まあないことはないんだろうけど、それを発散する場所が別にあるんじゃないですか。「ここしかない」と思ったらその中でひっくり返して戦うという選択肢になるかもしれないけど、よそに逃げちゃえというやり方だってあるじゃないですか。

杉本:ありますね。そうすると今の時代は別に気持ちの捨て場所があるということかな。

相馬:自分も子どもの頃、むしゃくしゃした時に近くの大学のゴミ捨て場に行って、捨ててある蛍光管をぐちゃぐちゃに叩き割ったりしてましたからね。いま思うとあれ、片付けてた人がいたんだろうな。悪いことした。なので、離れたところで暴れるというのはもしかしたらあるかもしれない。

杉本:やはり子どもは言語で大人に対抗できないから。他人と調和が保てる前の子ども時代って、規則とかこうしなさいという大人の要求に対して、「そうすべき」と思ってる部分と「しんどい」と思ってる部分の両方がありますよね。そのしんどさの部分がね。昔はむき出しの暴力といった形で出ていたと思うんです。できるやつは同級生いじめたり、もっと強気なやつだと学校の先生さえぶん殴るとか。それができなければ家庭内暴力。

先生に「うるせえ」と怒鳴ってこちらから見るとちょっと「カッコいいな」「よくぞ言った」みたいな感じの子もいたんだけど、やっぱりそれは良くも悪くも結局学校に囲われているからですね。そこに適応しづらいとそういう流れになってしまう。今はそのあたりの「従うしんどさ」をどう表現しているのか、ちょっと興味深いところではありますね。

相馬:どうなってるんでしょうね。わかんないな。

杉本:空いた時間に相談室に来る子どもたちなんかはどう発散している印象がありますか。

相馬:そこは変わらないかな。やっぱりしゃべって愚痴って、もしくは好きなものの話をして発散しているんだと思います。

杉本:昔でいえば保健室みたいなもの。

相馬:うん。

杉本:保健室は保健室で別にあるんですか。

相馬:はい。

杉本:それはそれで愚痴機能みたいなものは果たされているんですかね

相馬:おそらく果たしてると思うんですが、やはり保健室は体調悪い人のための場所なので、そのためにずっとは開けてられないですよね。

杉本:なるほど。実際ソフィスティケイトされているというか、洗練されているんですね。今の子どもたちは。

相馬:そうですね。ちゃんとしてるんだと思います。


両方に足をかけて

杉本:漂流教室さんの話に戻れば、「ちゃんとする」のも少し大変な子どもたちが集うのだろうか。あ、でもそれも世代が上になってきているか。

相馬:そこもですね。「○○するのも大変」とか「○○するのも辛い」とか、自分も言ってはいるんだけど、そもそもそういう言葉で区切っていいのかと疑問で。大変だろうがなんだろうが、どうでもいいはずなんです。本人の内面がどうであろうと関係ない。使いたきゃ使ってくれたらいいわけで、相手がなにを抱えていても構わないし、子どもたちが今どうであるのか考える必要もないんじゃないかと。

杉本:へえー。面白いなあ。

相馬:だって、どうでもいいじゃないですか(笑)

杉本:まあそうなんですけど。だってほら、元気だったら別に利用しないじゃない?

相馬:元気だったら利用しないかどうかはわからないですよね。「利用しない人は利用しない」としか言えない。まあ、どちらが必要性が高そうかと言えば、自分からグイグイ出かけて行って、自分で場所を見つける子は来ないかもとは思います。でも、フリースペースに来る子はきっとここが大変なんだな、ここが大変な子は訪問を利用するんだなという括りかたはあまりしたくないですね。まあ、そうは言っても、「きっと家から出づらいんだろうな」とか考えてしまいますが。でもあえて切り分けなくてもいい。

杉本:スタンスとしてはそういうことなんですね。なるほど。そこらあたりは平等にね。確かにそういう風に打ち出していますものね。

相馬:そこは本質ではないですからね。

杉本:どんな人でも。そこで場所については寄付金でまかないましょうということですものね。

相馬:そう言いつつ、でもそれだけじゃ不登校の子、いま学校に行ってない子に情報が届かなかったりするし、不登校をめぐる情勢に不満なところもあるので。だから誰が使ってもいいんだけど、少し不登校の部分も押し出していこうかなと思っています。でも、そうするとさっきの話に戻っちゃうでしょう。学校に行けなくて、家から出られない子が利用するって括りになって、「いや、そういうわけじゃないんだけれど」と説明して……。

杉本:じゃあ、両方に足をかける感じですね。

相馬:そうですね。もしくは両方どっちにも行けない(笑)

杉本:片側だけ強調するのはどうにも違和感があるということなんですね。

相馬:それはほぼあらゆる局面でそうですね。自分の癖なんだと思うんだけど。こっちはこっちで引っかかり、あっちはあっちで引っかかり。で、どっちも行けない。

杉本:「行けない」ということは「両方行ける」というふうにも言えますが。

相馬:そうですね。その中でバランスを取れる場所を探す。その旅です。

杉本:(笑)大変そうだな。何かそれはすごい、贅沢といえば贅沢な印象もありますけれども。

相馬:そうかもしれませんね。

杉本:活動するには、ポイントを絞っちゃった方がそこで深掘りできそうだし、ニーズもわかりやすそうだし、活動は飽きてくるかもしれないけど(笑)、目標も定まって、やりやすそうですけど。

相馬:ウダウダしていたいんですよ。

杉本:でも、ウダウダできると言うのはすごいことですね。両方気にしちゃったら張り詰める方に行っちゃいそうな印象があるんですが。

相馬:なるほど。

杉本:全体をカバーしてるように聞こえるので。不登校でもそうじゃなくてもいい、困る、困らないで捉える必要もないと、一つ一つおっしゃってくれるとその通りなのですが、全体をカバーするのは大変そう。

相馬:でも、結局自分の内側のことですからね。

杉本:え、自分の内側?

相馬:だって、俺がどう決着つけたいのかという話でしかないから。

杉本:そのほかのスタッフの人もそれでOKなんですか?

相馬:それは知りませんけど(笑)

杉本:ははは(笑)。漂流教室ってどんな組織なのか。

相馬:いろんなことを気にして、どう動こうかと、それを気にしているのは俺なので。

杉本:相馬さん個人の中での話なのですか。

相馬:そうそう。俺の中でどうしようかという話です。

杉本:スタッフでミーティングとかしないんですか?

相馬:あんまりしないですね。

杉本:おおー。珍しいですね。

相馬:雑談はしますけど。でもなかなか顔を合わせることもないというか、合わせないこともあるから。

杉本:漂流教室って個々に自立している組織なのかな?

相馬:うーん。大まかな方向性さえあっていれば、あとはそれぞれにどうぞというか。

杉本:それはすごいですね。へえー。まさにNPOとしての大枠はこちらの場所の利用と、訪問、送迎という枠組みであり、理念を共有していれば価値観のバックボーンはそれぞれ自由で構わないと。本当に自由な組織なんですね。面白いな。ぼくはそういう組織ってはじめて聞いた気がするな。

相馬:訪問の場合は1対1で会うから、どうしたって自分の存在そのもので関わるしかないですからね。でも、利用者と会って話して、そのやり方でよかったかどうかは自分ではわからないから、他の人と照らし合わせるしかない。それでOKだったのか、他のやり方があったのかは他者と話して確認する。別に普通な感じがしますよ。

杉本:なるほど。少し深掘りして細分化した話をしちゃったから、他のスタッフも特殊な動きをしてるのかなみたいな話にしちゃいましたけど、「ざっくり違って普通でしょ」的な話かな。

相馬:そう。やってること自体は人と人がただ会ってるだけですからね。別にスペシャルなことは起きない。まったく起きないわけじゃないけど。


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