大澤真幸 この世界の問い方 第一章
今までの読書会で取り上げた本よりは、論証立てづらい筆者の直感的な考えも多いと思われるゆえに、説明しづらい本かもしれないが、逆に言えば、この本を軸にいろいろ各自が推論や想像、連想を膨らませるのには大変興味深いものではないかと思います。
(著者、大澤氏の直観的な考えも、ラディカルに本質をついていると思われた)。
よって、今回の自分の担当は、この本に沿いながら、他の本からの興味深い発見も多かった。この本を読む際に資料として使い、推論が多い本書を軸として、もうひとつ自分の推論を重ねる思いで読めた気がします。
第一章の資料:
『歴史の終わり』フランシス・フクヤマ 文庫・上、中、下
『ロシアの思考回路』三浦清美 扶桑社新書
『ロシアとソ連邦』外川継男 講談社学術文庫
『文明の衝突』サミュエル・ハンチントン(一部)
ー本書が取り上げている全体の(時事)問題ー
・ロシアのウクライナ侵攻
・中国と権威主義資本主義
・アメリカの変質
・ベーシックインカム
・日本国憲法
<まえがき>
・ウクライナ侵攻に関して ー なぜ大きなコストをかけてこんなことをやるのか。プーチン大統領以外にわからない。いや、プーチン本人さえ、自らを駆り立てる無意識の衝動を十分自覚できてないかもしれない。戦争を規定している説得力ある論理や法則が見当たらない。
・中国とアメリカの対立について ー 権威主義と資本主義の結合は、社会科学がこれまで前提にしてきた法則からするとあり得ないものだ。
(それは本当だろうか?→ F・フクヤマ「歴史の終わり」を参照。)
・公共圏に関してー いま(先進国を中心に?)ひとつの国の中でも公共圏が崩壊しつつある。逆に、同時に地球環境危機などに対するグローバルな連帯の必要性が生まれている。私たちはそのことを自覚しつつもその状況で公共圏が今までになく縮小している。公共圏の状況は、私たちの必要に対して完全に背馳している。
混乱、無秩序は常に悪いものではない。既存の秩序の構造が人々の要求との間で圧倒的なまでに噛み合わなくなったとき、例えば「革命」のような状況にそれは必要な条件だ。では私たちがいま直面する混乱や無秩序は、そのような良性のものなのか?どのような条件のもとで、混乱と無秩序が希望に結びつくのか。私たちがどこからきて、どこへ向かおうとしているのか。明確な展望を持てること、それが必要な条件だ。
第一章 ロシアのウクライナ侵攻
⑴何のための軍事侵攻か
発表者の仮説ープーチンの衝動とは?
●ビザンツ帝国由来の東のキリスト教(東方正教、ロシア正教)と、ローマ・カトリック(その延長としてのプロテスタント)との根深い対立、あるいはコンプレックス?
●ロシアが持っている歴史性?
●地政学的条件(?)
⇨ 大澤氏は、もっと深いレベル、いわば世界の構造レベルで考えているように思われる(後述)
・NATOの接近に対抗してのウクライナ侵攻だ、という理由ー表向きそう言われ、プーチンも認め、一般的に人口に膾炙するが、そうであるとして、それがいちばんの理由なのだろうか?むしろウクライナ侵攻によってNATOを逆に引き寄せることになってしまったのではないか?(緩衝的な立ち位置だった北欧のNATO加盟申請など)。
・果たしてロシアはヨーロッパなのか?
プーチンの問いであり、著者・大澤氏はプーチンはロシアはヨーロッパであると思い、その点に関してコンプレックスがあると見るが、実はプーチン自身、西欧に対する疑念があるかもしれない(…西欧はロシアをヨーロッパとみなしてくれていないのではないか、と)
※ここから、東方正教ロシアとヴァチカン西欧(ローマン・カトリック)との歴史的な確執、葛藤が見えるかもしれない。
・それは「どこまでが西か」をめぐる競争でもあり、あるいは、キリスト教の正統性を巡る闘争としてもか?
ヨーロッパには、西と東をめぐる対立がある。
西の方が優位であることを皆、認めている。「西」こそが、本物のヨーロッパなのだ。
👉 果たして、ロシア人はそれを受け入れるか(歴史が絡んでくる)
ウクライナ戦争では、プーチン氏は「ルーシの世界」の1000年の歴史と言って、ロシア国家黎明期の歴史を押し出した。
「東ヨーロッパ」には、ヨーロッパの東という意味以外に、ヨーロッパの外、という含みがある。東西冷戦の鉄のカーテンが降りたあとの「境界線」が明瞭でないことが、ロシアの今回の行動で見えてきたことのひとつ。ここには単純な地理概念に還元できない問題がある。それがキリスト教の問題である。つまりローマン・カトリックか、東方正教なのか、という問題である。
(「歴史の終わり」の時代には、「生活と文化」の問題になる ー フランシス・フクヤマ)
ヨーロッパにおいて西が優位になったのは、資本主義と結びついた近代化に西側キリスト教諸国が圧倒的に成功したからである。西欧が特別視されるのは、そこが近代と資本主義の起源であり、いまだにその中心であるからだ。アメリカは地理的に隔絶しているが、圧倒的に別格な「西」である。
(2)「文明の衝突」ではあるが….
プーチンは実は「理念戦争」を仕掛けている、という推察。
ふつう戦争は、現実的利益を覆い隠すために「理想」「理念」を旗頭に掲げる。ところが、今回のウクライナ侵攻は、「NATOの脅威」などという現実の被害を口にするが、そこには説得力がない。現実被害が説得力がないのに口にされるのは、逆の思惑があると考えられる。
この戦争は、サミュエル・ハンチントンが論じるところの「文明の衝突」のひとつの現れであり、このような認定はある条件を前提にしたときに受け入れられる。その条件とはフランシス・フクヤマが論じた「歴史の終わり」である。著者によれば、フクヤマの「歴史の終わり」ではヘーゲルに依拠しつつ、東西冷戦が終わったことは、つまりイデオロギーの時代が終わったということ。それがいわゆる「歴史の終わり」で、これは明るい見通しだ。見出される最高の社会秩序は「世界規模のリベラル・デモクラシー」であると。
(私見:著者はフクヤマの「歴史の終わり」に、世界規模のリベラル民主主義の勝利によって歴史は終わる、という楽観主義を見ているが、発表者にはそのような簡単な結論になるとは読めなかった。もちろん、フクヤマがリベラルデモクラシーが一番大切なものと捉えているのには異議はないが…。むしろ新たに「生活文化」「宗教」「権威主義と民主主義(平等主義)」の対立が生まれる、と読めた。そしてそれを止揚するのが、リベラルデモクラシーであると。
∴
「歴史の終わり」の時代には、文化の間の葛藤や緊張が、つまり「文明の衝突」へのポテンシャルが社会空間の随所にはらまれる。歴史の終わりの政治の一義的な目的は、この葛藤や緊張の処理にある。
現代社会は、世俗の大義(イデオロギーや政治的スローガン)が大衆を動員する力を持たない。大衆を動員するのは結局宗教か、民族への帰属意識しかなくなる。政治的指導者もまた、宗教か民族的アイデンティティに準拠しない限り、自らを鼓舞することができない。ロシアによるウクライナへの侵攻、西側への挑戦も、こうした衝突の深刻なケースであろう。
「歴史の終わり」時代の政治は「文明(文化)」のあいだの葛藤、衝突という形式をとる。たたし、諸文明は、平等にそれぞれ特殊なものとして相対化されているわけではない。実は西洋文明だけが文明間の競争・闘争のための場を与える普遍的標準として機能している。
著者(大澤)に言わせれば、歴史の終わり後はリベラル・デモクラシーに対しての真の挑戦者は現れない。だが、そこには限定がある。その限定とは資本主義である。「資本主義の枠内で」リベラル・デモクラシーは勝利したのだ。真の勝利者は資本主義である、と。
資本主義のグローバル化は階級的搾取の関係を、一国内に閉じ込めないものに拡大していった。グローバル化した階級的搾取なのが現代である。つまりグローバルサウス時代である。
※(グローバルサウスとは、「途上国」と同様の意味で用いられる言葉。アフリカ、ラテンアメリカ、アジアの新興国などが当てはまり、国際連合は、77の国と中国をグローバルサウスに分類している。)
プーチンの西側への挑戦の過剰性は、意外にも階級的搾取に由来するルサンチマンや不遇感が加算されている。いわば階級闘争へ向かうはずの怒りや情念が、この戦争に「文明の衝突」的なものとして付加されている。(ロシアは、冷戦の敗者として遇されることに強い屈辱を覚えている)
もちろん、プーチンが目指すのは階級闘争では無い。階級闘争におけるプロレタリアートは、支配階級を打倒したあとは自分たち自身のプロレタリアートの条件そのものを無化しなければならない。
プーチンが目指すのはロシアの大国化であって、自己否定への衝動はいささかも持っていない。
ナマの階級闘争は、世界のどこにもあらわれないだろう。なぜなら世界のどこも現在がすでに「歴史の終わり」を受け入れいるから。
「歴史の終わり」の受容とは、資本主義が最後の選択肢であることを、前提としていることを意味している。階級闘争は、さまざまな運動や闘争に“当事者には自覚されることなく”寄生している。
・西側の決定的な弱点
西側諸国はエネルギー価格の高騰ばかり心配している。それは結局資本主義市場とウクライナを天秤にかけているに等しい。「ウクライナを応援しよう、しかし市場が決定的に破綻しない限りで」と言っているのと同じ状況がある。
ウクライナが仮に勝利するとして、それはまだ文明の衝突の枠内のことである。しかし問題の真因は、まさに資本主義的な市場にあるかもしれないのだ。普遍的連帯への破壊的作用、つまり階級文化を生み出す搾取関係こそが、戦争という形で現れた問題の真の原因かもしれない。
⑶ 偽善ではあるが、しかし……
ラテンアメリカや、アフリカ諸国は西欧による「ウクライナの正義、ロシアの悪」の図式に偽善を見ている。欧米は「西側」理念と正反対のことを、いわゆるグローバルサウスに属する諸国に対して行ってきた。プーチンのロシアは、西側のこのような弱点を見据えていたように見える。ロシアは国際的立場の弱い国々に、軍事や治安の援助を行ってきた。武器供与や軍事訓練などによって。
プーチンロシアが、西側の植民地主義に苦しめられてきた国々を支援するのも、階級闘争的なものの痕跡である。だが、実際はロシアがやっているのはむしろ独裁国家の支援など、そのやり方は西側の植民地主義的な介入の仕方なのだ。
ロシアは、西側に抑圧されてきた諸国の同盟者になろうとするが、実は自分もグローバルサウス抑圧に加担している側なのに、その責任は全て西側にあるかのように振る舞っている。
著者によれば、偽善があっても、西側の方がはるかに良い、と。偽善が可能な状況は、偽善が原理的に不可能な状況よりもずっと良い。
偽善が生じるのは誰にも適用されるような倫理の普遍的基準がある場合である。その基準を前提として認めているのに、一部の人にはそれが適用されないとき、偽善が生じる。これに対して特殊性や、差異への権利や承認を要求して、最終的に特殊性や差異が制覇する世界ではどうなるか。そうやって実現される世界の内部には、偽善なるものが、そもそも定義上ありえない。なぜなら偽善という判断の前提となる普遍性を要求する基準がないからだ。
偽善は大問題である。しかし、偽善には希望がある。偽善は、まさにそれを偽善とみなす基準に依拠して克服することができるからだ。偽善をなすものは、それを掲げ、引き受けている倫理の基準に反していることを自ら自覚できる。偽善という判定は、他者にだけ属する基準によってではなく、自分自身も引き受けている基準によって下されているからだ。
⑷ 戦争の最も望ましい終わり方を巡って
戦争の理想的な収束については、ロシア国内で大規模な反戦運動、反政府運動が起こり、プーチン政権が倒れることだ。世界中の人たちがこれを最も望ましいことと考えているはずだ。しかし実際にはこのようなことが起こりそうな状況では無い。
・ロシアの戦争反対の動機として望ましいもの。
ロシア人がウクライナ人が戦争で経験している苦しみに対する同情や共感、むしろ「共苦」から戦争に反対する、あるいは自分たちの政府がこのような戦争を遂行していることを恥じて反政府運動が起きたとしたらどうだろうか。それはわれわれにとって以上にロシア人にとって良い。これはたとえば経済制裁に伴う生活苦とか、自分や身内が戦場に送られることへの拒否等の、基本的に利己的な動機よりも、ウクライナの人々への「共苦」や自国政府が誤っていることの「恥の意識」のほうがより高い倫理性を持つのは明らかだ。
西側のキリスト教の教えはシンプルで、それは隣人愛である。この隣人愛の世俗化された近代的な表現が、こんにち「自由」「博愛」「民主主義」などの政治理念になっている。
ロシア政府の侵略的戦争を恥じて反政府の運動を起こしたとしたら、それが意味したものはロシア人はヨーロッパの最良の部分を代表する理念を、ヨーロッパ人以上に忠実に実行していることになる。このとき初めて、ロシア人は、ヨーロッパに対する劣等感を克服することとなる。そうなれば、圧倒されるのはヨーロッパの方になる。
愛国主義、ナショナリズムを通って普遍主義へ至る道がある。それは、ロシアに対して愛国的であるがゆえに、ロシアが普遍的に妥当な正義や理念に立脚して行動するロシアの人たちである。ただの愛国主義者、ただのナショナリストではダメである。いきなり普遍主義に飛びつく人もダメである。希望を見出すことができるのは、ナショナリズム、愛国主義を経由し、それを突き抜けるようにして普遍主義にたどり着く人たちである。
私たち日本人が(ロシアに)「まともな市民」がもっと沢山いれば良いのにと思うとき、その期待を寄せている人間像を純化させると、それは「愛国的であるがゆえに普遍主義に立脚することができる人間」である。では、日本人はどうだろうか。日本人は「まともな市民」だろうか。
わたしたち日本人は凡庸なナショナリストである。たとえば、ロシア-ウクライナ戦争においてウクライナの側に立つにあたって、日本人、あるいは日本の政治家は、それが国益にかなっているかだけを考えている。何をすることが普遍的正義に適っているかという発想はない。
疑問:
→ この理想主義的な考えと、第二章の中国に対する現実主義的な考えとの整合性は?
※ 第二章に関して。
台湾を巡る中国の軍事行動を考えるとき、アメリカの側につくべきと言う著者は、この第一章の「資本主義問題」とロシアのナショナリズムを経過して普遍主義に到達するロシア市民を展望する論理が失せてリアリズムになるのはなぜか?(最終章で、答えを出してはいるが、それでも二章の内容との整合性が感じられなかったーこれは発表者の宿題)
※「権威主義的資本主義」の可能性について→フランシス・フクヤマの議論の一部抜粋
※こちら(コテンラジオ)でロシアとウクライナの関係の歴史が非常にわかりやすく動画解説されています。ぜひご覧ください。
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