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母親の誕生日

同居している、というかさせてもらっているというべきか(苦笑)。いずれにしても同居の母親が無事に94歳の誕生日を迎えました。おめでたい㊗️

多少足腰が弱ってきたとはいえ、基本的には身体的な問題がないし、そこそこ食事もできているので安心ではある。まだまだ長生きできそうな様子ではあります。

かように在宅で生活ができるのも介護保険で様々なサービスを受けることができるおかげ。認知症があるので、訪問看護や訪問リハビリ、デイサービスや生活支援などさまざまな人が関わってくれ、包括的に助けてくれているおかげでありまして、感謝感謝です。結局、いろんな人が関わってくれないと関係をぶっ壊し、こちらの精神状態もおかしくなっていたと正直思う。そもそも一人で生活させるのが無理です。まして今はコロナ禍もありますし、厳寒の札幌ですから、一人なら施設に入ってもらっているだろうし、幸いこの状況で施設入居には至らず、日々時折おかしな言動や行動でこちらも右往左往されつつも、ギリ安定した生活ができているのは幸い。いま施設に入っていたら面会も難しいですし。

それにしても認知症というのは難しいし、あえてポジティブにいえば興味深いしろもの。もともと自分が不安定な状況の時も安定した状態の人として母親がいてくれて、それが無意識に自分の救いになっていたのですが、そういう人もまあ、「壊れていく」というか。そういう「崩れ」は脳であれ、身体であれ、みな訪れて、いわば老境が深まるにつれ誰もがそうなる。というか、人間はみな死ぬ以上は過程でそういう、「崩れ」は内包しているものだな、と。

であれば、その認知症を「興味深さ」へポジティブに転換していければ良いのだけど、当然ながら難しいです。明日デイサービスがあるといえば、素直に行くよといったその口が、1時間もせぬうちに、「明日から仕事に行かなければならない、もうここには帰らない」と言ったり、頻繁に階上で、「おばあちゃんは寝てるのかい?」と祖父母、叔父叔母が住んでいるのを前提にした発言が出るのは毎日。階下で一人で過ごしていると、誰かと話している様子だが、それは独り言。

そういう状態は最初はドキドキさせられましたが、慣れました……と言いたいところですが、あまり慣れないですね。難聴もひどいので、大きな声で確認事項を伝えても、「怒っている」と思われたり。また実際、自分も感情的になってたり。

おじさん介護の名作、『ペコロスの母』のように、認知症母の「現在」が「過去」と頻繁に混じり合う世界を、同じように周遊できれば名人芸で最高なのですが、なかなか難しいものです。

これから多くの人が家族などを通じて接する機会が増えるであろう認知症ですが、それ自体は治しようのないものなので、認知症とは、現在の生活原則に従って生きる人たちがもう一つの「人間世界=認知症世界」があると捉えてその世界とどう関係を作れるか、ということかなと思います。

と、偉そうに書いていますが、筆者自身がまだそのツボが掴めないし、上手く関係を作れていないので、なかなかストレスフルは解除できないものです。致し方ない。ごめん。

ただ、幸いに我が家の場合、親が根が温厚なのと、なんだろう?家族関係が良かった人なのかな?あまり根に持たない、というか、認知症なので、根に持てない、というのが正しいのか(笑)。「感情の持ち越し」がほぼ皆無なので、こちらが「あの時こう言ったよな」と身構えたり、あるいは「あの時、ああいう調子で言ってしまったのは不味かったな」と思っても、本人はけろりと忘れているので、そこは助かります。助かりますが、なんだか自分が一人相撲をとっているみたいになるわけです。

というわけで、とにかくコロナ感染にかからないことだけは強く願うところ。コロナに関する政策については山ほど言いたいことがあるが、その現実は現実として。

自然に亡くなるのではなく、「流行り病い」で死ぬのはなんとも悔しい話じゃないか、ちくしょうめ。ということで、なんとかコロナが退散してくれるまで生きていてほしいところではあります。自然死礼賛、です。誕生日おめでとう。

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