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用水路の天使

大きめな仕事を納品した後は、僕はたいてい酒に酔ってくつろいでいる。徹夜明けならなおさらだ。
そしてその場所はどういうわけか駅のホームだ。だって駅のホームの端っこで飲む酒がいちばん旨いんだもの。

酔うといろんなことを思い出す。

小学生だったあるとき、自宅までの帰路に、ふと思い立って、いつもと違う経路で帰ってみたくなった。

適当に道を選んで歩いているうち、僕は見知らぬ路地を曲がり、か細い用水路のような川が流れている、いわば道なき道のような通路に入ってみたくなった。ちいさな冒険である。

人が1人通れるか通れないか、ギリギリのスペースしかない場所を歩く。
一瞬、ちょっとした考えごとでもしたのだろう、僕は足を滑らせて、そのか細い用水路に落ちてしまったのだった。

その瞬間、対岸にある家のサッシがガラッと開き、チリチリパーマのおばちゃんが血相を変えて飛び出してきた。

おばちゃんは、用水路をものともせず、パンタロンのようなズボンをずぶ濡れにしながらザブザブ乗り越えてきて、僕のことを抱え上げてくれた。

僕は気付けば膝に傷ができて赤くなっていた。

おばちゃんは何も言わずに、自らの手をぺろっと舐めて、ぼくの膝小僧にそれを塗りたくった。そしてたったひとこと、

「安心しな。大丈夫だからね」

といったような意味のことを言った。
正確な一言一句は覚えていない。しかし確かにおばちゃんはそういう意味のことを言ってくれた。

幼い僕は、この人の、人としてのぬくもりのようなものを感じたのだと思う。その場で泣き出してしまった。

もう45年ほど前のことだから、おばちゃんはもうこの世にはいないだろう。いや、そうとも限らないか。

いずれにせよ、大人になって僕は、日本語には「恩送り」という言葉があることを知った。

あのときのおばちゃんに恩返しはできないけれど、あのおばちゃんのような衝動的かつ無条件な優しさを、僕は体現したいと思っている。
大変難しいことではあるけれど、なるべく。
できる限り。できないときもあるけど、なるべく。

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