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日本の水タバコの記録とイラン(ペルシア)

 ガフヴェハーネで提供されるのは、水タバコと紅茶が基本というのは、以前に話した通りだ。水タバコは、日本でも中東料理のレストランで提供されてきたほか、シーシャバーといった専門店もでき、近年ではすっかり馴染み深く、手軽に吸えるようになった。水タバコが手軽に吸えるようになったのは近年のことだが、水タバコの記述自体は江戸時代にまで遡れる。

 おそらく初出は、『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子で、医師であった大槻玄沢が編纂した『蔫録』という、タバコの研究書だろう。文化6年(1809年)にでた『蔫録』の追訳増補版には、「福蛤(ほっか)」という名前で、水タバコについて石川大浪による挿絵とともに、各部位や使い方の説明がなされている

 水タバコは、単にタバコを吸うために用いられるのではなく、たばこにアヘンを混ぜたものを吸うために用いられる喫煙具と考えられていたようだ。大槻が水タバコについて、どの書籍から情報を得たのかは定かではない。ただ大槻が杉田玄白らとともに、オランダからの幕府への使節が逗留する館に出入りする許可を得ていた際に、水タバコについても上述の挿絵を示して説明を求めたことがあった。

 尋ねられたオランダ人は、「福蛤(ほっか)」という名前であり、オランダでも用いるがアメリカ人がもっぱら用い、イギリス人も用いると説明していたらしい。また絵を見て、モンゴル・インド地方の製品であるといったようだ。「福蛤(ほっか)」というのは、インドで水タバコを指すフッカーに由来していると考えられるので、説明としては大間違いとは言えない。 
 なおオランダ通詞(通訳官)の話として、昔オランダの船長からある人物に送られた水タバコは、ペルシアのものであったと記されている。ペルシア製の水タバコの実物が江戸時代の日本に存在していたということだ。とはいえ、大槻らがペルシア製の水タバコの実物を見たことがあったのか、また水タバコを実際に吸っている姿を目にしたことがあったのかは定かではない。

 実際に水タバコを吸っている姿は、スフィンクスの前で撮影された侍一行でもおなじみの、1864年の第二回遣欧使節団の岩松太郎による使節団の記録『航海日記』に残されている。岩の記録は、野菜や果物、人々の振る舞いなどについて細かに記録を残しており、興味深い記述が数多くある。チャーター船ではなく、一般の人々も乗船する船を乗り継ぎながら旅をしたこともあり、船内で非ヨーロッパ人と邂逅する機会にも恵まれた。水タバコについても、セイロンからアデンへ向かう船上での記録として残されている。

 岩は「亜剌比亜人所携の鶴片煙管の図上に記す。乍然荒らましなり。」と本文に書き、欄外に図を交えて「吸口其外通ひ道は皆竹にして表を●にて巻き其上を所々銀にて巻く内なり至て妙なり」という解説を加えている。加えて、直後に「アラビア人は誤りペルシヤと云国の人にしてアジヤ国の内に有る国なりそこの人なり」と記載している。つまり日本で最初に残された実際に水タバコを吸う姿は、ペルシア人、つまり今日でいうところのイラン人であったということだ。

 ちなみに岩は本で最初にカレーについての記述を残したとも言われている。「亜剌比亜人来る夕陽三拜同断且つ食事の節脇々見るに飯の上へトウガラシ細味に致し芋のどろどろの様な物を掛け此れを手にてませ手にて食す至てきたなき人物の者なり」というのが典拠とされている。しかしアラブ人が食べていた料理をカレーとするのには無理があるのではないだろうか。

つづく

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