イランと「たばこ」

 近年のガフヴェハーネでは、水タバコを吸うことができるが、紙巻煙草(以下、「たばこ」)を吸うことは禁じられている。これは2007年12月に施行された「喫煙に対する制御と国民闘争のための包括的法律」、通称禁煙法によって、ホテルやレストランを含む公共空間での喫煙が禁じられたからだ。そして同法第7条によって規定されているタバコの提供許可制度によって、ガフヴェハーネの店主は水タバコの提供の許可証を取得するようになった。「たばこ」も水タバコもいずれも喫煙なのだから、一方が禁止で、他方が許容というのも変な話である。もっともガフヴェハーネでの水タバコも禁じようとする禁煙法の拡大が2019年ごろに提起された

 喫煙文化そのものが煙たがられているというのは、今日の世界では大体どこに行っても同じである。なかでも、「たばこ」は目につきやすい嫌われものと言っていいだろう。だが、「たばこ」ほど他地域にまたがって生産され、かつ地域や時代によって味の嗜好にもばらつきがあるものも、珍しいのではないだろうか。

 一般的に、「たばこ」はクリミア戦争(1853-1856)頃から本格的に欧米を中心に広がっていった、刻んだ葉煙草を紙で包むという新しい煙草の消費の仕方であると言われている(この辺りは上野[1998]を読んでほしい)。しかも20世紀初頭までは、オリエント煙草と呼ばれるトルコやギリシアで生産された葉煙草で作られた「たばこ」が珍重された。つまり今日の中東地域で生産される随一「工業製品」でもあったのだ(このあたりについては、真面目に論文で書く予定なので、ここでは書かない)。

 イランの「たばこ」の歴史については、以前にも述べたフロアー先生の論文にも記されている。それによれば1860年ごろには、トルコやロシアの影響で「たばこ」がイランにも紹介された。1890年ごろにはトルコのトラブゾンやジョージアのトビリシなどからの輸入品だけでなく、カスピ海沿岸部のラシュトでロシア系商会が生産を行っていたようだ。彼らの「たばこ」生産の成功は、イランの人々の嗜好にあったブレンドを作ることに成功したことにあると言われている。なおラシュトのイギリス領事報告によれば、その風味はあまりにも辛く、下品であると酷評されている。そして喫煙方法としての「たばこ」の定着が比較的急速に進んでいたようで、貧しい農民でさえ自作の手巻きたばこを吸っていることも珍しくなかった。

 アメリカの発明家・実業家であり、後に世界の「たばこ」王となったジェームズ・ブキャナン・デュークが1891年に発明したボンサック式自動巻上機が普及するまで、「たばこ」は手動で巻くものであり、熟練の職人技が光る製品でもあった。そのため19世紀のヨーロッパでは、たとえばイギリスのフィリップ・モリスのように、「たばこ」製造業をなすために、ギリシアや黒海沿岸部から熟練した巻職人を呼び寄せることも珍しくなかった。また自動巻上機が登場しても、地域によっては手巻きが好まれ、機械式の導入が進まなかったこともあり、巻職人は「たばこ」に欠かせない存在であった。

 イランで19世紀にどのように巻職人が訓練されていたのかは定かではない。1920年代には職人技であったようで、親方と労働者と丁稚による生産構造があった。1930年代にも街角で手巻き「たばこ」は販売されていたようで、10代の美少年たちが客のオーダーを受けて巻いていたようだ。ガフヴェハーネの給仕といい、美少年がつきもののイラン社会である。

つづく

参考文献
上野堅実
 1998『タバコの歴史』大修館書店。

Floor, Willem
 2002 The Art of Smoking in Iran and Other Uses of Tobacco. Iranian Studies  35(1/3): 47-85.

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