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イランのタバコと水タバコの歴史

 今日のオヤジたちが集う老舗ガフヴェハーネから水タバコを除いてしまうと、もはや紅茶専門店だ。しかも選択肢もない。つまり今日のガフヴェハーネと水タバコの存在は切り離せないが、イランでタバコや水タバコはいつ頃から利用されていたのだろう。

 イランのガージャール朝の文物について英語で知りたければ、まずウィレム・フロアー(Willem Floor)先生に訊けとというのは、今やイラン研究者の初歩的な常識になっている(と私は思っている)。1942年にオランダのユトレヒトに生まれ、アカデミックな活動を続けつつも、大学卒業後からオランダの開発局で務め、1983年から2002年までは世界銀行でエネルギーの専門家として働いていた異色の経歴の持ち主だ。
 退職するまでもコンスタントに論文や著書を発表していたが、退職後はほぼ毎年著書を刊行しており、その著作は250を超えると言われる。著作の数もすごいが、何より目のつけどころがすごい。工芸だとか、劇場・大衆芸能だとか、ナーン(パン)だとか、生活のなかに溶け込んだものの歴史をとりあげることもするのだ。

 本題に入る前に長くなってしまったが、そんなフロアー先生がちょうど世界銀行を退職された2002年に発表された、イランのタバコの歴史について書いた論文がある。イランのタバコについて知りたければ、まずそれを読めと言うことだ。先述の『イラン百科事典』のタバコの項目もフロアー先生が書かれているが、こちらの論文の方が詳しい。ここからはフロアー先生の話をものすごく端折って説明させてもらう。

 新大陸で発見されたタバコはインド、あるいはトルコを経由して1600年ごろ、アッバース1世(在位1584-1629)の治世にイランにも紹介された。当初は、タバコはイギリスやオランダの東インド会社からの輸入品であったが、アッバース1世の治世にはイランでも栽培が行われるようになった。しかしアッバース1世は何度もタバコの喫煙に反対し、挙句の果てにはタバコを禁じるためにアヘンを許可したほどの嫌煙家だったようだ。王だけでなく、時には党派争いとも結びつきながら、聖職者たちがタバコの喫煙の賛成派と反対派に分かれ、タバコを禁じようとしたこともあった。とはいえ、王が禁じても聖職者が反対してもタバコの喫煙は広がり続けていった。

 ガージャール朝期になると、タバコや喫煙具はもはや男女を問わずイランの人々の生活必需品になっていった。19世紀後半に王が英国人にタバコの買付けから加工に運搬、販売そして輸出に至るタバコ利権を売り渡したことに抗議したタバコ・ボイコット運動と呼ばれる民衆運動が起こったが、生活必需品を放棄する大きな運動であったということだ。ところで、必需品であった喫煙具だが、当時はチョポク(čopoq)と呼ばれるパイプと、ガリヤーン/ゲリユーン(ğalyān/ ğelyūn)と呼ばれる水タバコだ。

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 「ガリヤーン」という言葉は、一説に16世紀前半に詠まれた詩にすでに現れていた。1600年ごろにイランにタバコが紹介されたと言ったように、タバコが紹介される前から「ガリヤーン」という言葉はあったということだ。16世紀前半に詠まれた詩を後代の詩人が詠む際に書き換えた可能性もある。一方で、タバコの代わりに別の葉っぱを吸って利用していたという可能性もある。さてさて、どちらがより妥当なのだろうか。

 ところで、このペルシアで作られた水タバコだが、一説には日本にも江戸時代にはもたらされていたようだ。

(つづく)

参考文献
Floor, Willem
 2002 The Art of Smoking in Iran and Other Uses of Tobacco. Iranian Studies  35(1/3): 47-85.

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