見出し画像

ガフヴェハーネの歴史

 ガフヴェハーネの歴史については、イランについて知りたければまずこれを引けと言われる『イラン百科事典(Encyclopædia Iranica)』の「コーヒーハウス」の項目を読めば、大まかなことが分かる。

 コーヒーの発見の起源については、9世紀のエチオピアのヤギ飼いのカルディ少年の逸話や、13世紀のイエメンのモカのイスラム神秘家ヌールッディーン・シャーズィリーの逸話であるとか、15世紀の同じくイエメンのアデンのジャマールッディーン・ザブハーニーの逸話であるとか、いくつかの伝承がある。いずれにしろ紅海を挟んだ両岸のあたりでコーヒーが発見されたということは間違いないようだ。
 16世紀までにイスラム教の聖地メッカ(マッカ)には、コーヒーを飲みながら音楽を聴いたり、チェスのようなボードゲームを楽しむ施設が作られた。そしてメッカに巡礼に訪れた人々によって、ムスリム社会の各地に同じような施設が作られるようになった。

 イランの場合、史料的な根拠については定かでないものの、サファヴィー朝(1501-1736年)の第二代君主タフマースプ1世(在位1524-76年)の治世に、当時の都であったガズヴィーンのほか、エスファハーンなどにガフヴェハーネが開かれていた。やがて都市化によって、エスファハーンのような都市に人口が集中するようになると、都市文化の一つとしてガフヴェハーネが一種のサロンのような場所として広がっていった。

 当初は裕福な男性や知識人たちの交流の場であったが、やがて芸術家や詩人たち、また高官たちもが集う場所になっていった。なかにはヨーロッパからの使節団への饗応を行えるような大ホールがあるものまであったように、初期のガフヴェハーネの建物は随分と立派なものであったようだ。21世紀に狭い店内で人生の疲れが漂う空間になっているなど、当時の知識人の客は思いもしなかっただろう。

 区切られた小座敷に座るということは、当時のスタイルとしてすでにあったようだ。17世紀後半にイランを旅したフランス人宝石商シャルダンは、区切られた小座敷に座り、水タバコを吸いながら、何かを飲む人物を描いている。

 ガフヴェハーネでは、詩人たちは『王書』などの英雄叙事詩を朗誦したり、物語師や演説師がいたりと娯楽性についてもこと欠かなったようだ。言論の自由がある空間でもあり、王にとってみれば政治談議が行われないかと恐れて、監視のために聖職者を送ったこともあった。

 とはいえ、16世紀にメッカのコーヒーハウスが道徳的な観点から閉鎖されたように、サファヴィー朝期のイランのガフヴェハーネでも道徳的によろしくないことが行われていたようだ。客のなかにはコーヒーハウスで働く若い少年たちと戯れる者たちもおり、少年たちに露出度の高い服を着て、淫らに踊り、下品な逸話を語るように求めた。またサファヴィー朝末期には、アヘンをはじめとする麻薬にも手を出す者もいた。水タバコで吸うタバコにアヘンを加えたか、タバコの代わりにアヘンを吸ったという具合だろう。

 18世紀末にガージャール朝(1789-1925年)が起こり、新たな都としてテヘランが造られていったが、ガージャール朝初期にはガフヴェハーネは隊商宿や駅などに作られるばかりだった。またサファヴィー朝時代のような大掛かりで豪華なガフヴェハーネではなく、シンプルな構造が主流となった。長期政権であったナーセロッディーン・シャー(在位1848-1896年)の時代に、ようやくガフヴェハーネが町中でも増えていった。とはいえ、アルコール飲料が提供される店もあり、道徳的に問題視されていた。なお、すでにこの時代には、ほとんどのガフヴェハーネではコーヒーは提供されず、紅茶が提供されるようになっていた。この時代から名ばかりのコーヒーハウスになっていったということだ。

(つづく)


参考文献
ʿAlī Āl-e Dawūd 2011 COFFEEHOUSE. Encyclopædia Iranica Online. https://iranicaonline.org/articles/coffeehouse-qahva-kana (最終閲覧日2021年10月17日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?