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ガンバ大阪選手OB会 会報誌

先日、ガンバ大阪選手OB会で発刊されている機関紙に掲載していただきました。
全文テキストでご紹介させていただきます。

ぜひご一読ください。

<以下全文 聞き手:フリーライター 高村美砂氏>

ガンバ大阪ユースの一期生として95年にトップチームに昇格し、2シーズンにわたってプレーした高木健旨氏。07年に指導者のキャリアをスタートさせてからは主に育成年代の指導、スカウト業に尽力されてきました。その経験をもとに、20年からは南葛SCに所属。自身にとっては初めてのチャレンジとなるトップカテゴリーで指導にあたられています。今回は、高木さんの今につながるキャリアと今後のビジョンなどについて話を伺いました。



ー最初に少しこれまでのキャリアについて伺います。ガンバ大阪ユースの一期生として、95年に宮本恒靖さん、松山明男さんと共にトップチームに昇格し、2シーズンにわたってプレーされました。ガンバ時代に印象に残っていることを教えてください。

聞き手:高村美砂氏

僕が高校2年生の時にJリーグが開幕しましたが、それはそれは華やかで…ツネ(宮本)やチャゲ(松山)と入場時にフェアプレー旗を運ぶフラッグベアラーを務めたりもしましたが、とにかくすごい盛り上がりに驚くばかりでした。僕はもともと釜本FC出身で、小さい頃からプロサッカーチームでプレーしたいと思っていましたが、Jリーグ発足によって、よりその目標が現実的になったのを覚えています。

ー97年からJFLの大分トリニータでプレーしたのち、98年にはフランスに留学されています。パリ生まれということも関係しているのでしょうか。

聞き手:高村美砂氏

親がアパレルの仕事をしていた関係でパリに生まれ、1歳半まで住んでいましたが、物心がつく前の話なので、僕自身はそれを意識することはほぼなかったんです。ただ、大分を契約満了になった後、所属クラブが決まっていなかった時期に家でワールドカップを観ていたら「ああ、フランスなんや」と。そこで「自分のルーツである国だし、時間もあるから行ってみようかな」と思い、W杯後に旅立ちました。ガンバでは試合に出られなかったし、これといってアピールできる実績はなかったけど、Jリーグの名鑑を片手に「ストイコビッチと同じリーグでやっていました! 一緒に練習をさせてください」と飛び込みで12〜13チーム回りました。親父の知人で、語学留学の仕事をしていたフランス人の方の家にホームステイをさせてもらい、午前は語学を学び、午後はその人に助けてもらいながらクラブを回る、という毎日でした。ただエージェントがいるわけでもなかったし、正直、自分でも契約までは難しいなと感じたことから、観光ビザが切れる3ヶ月で帰国しました。

ーその後はJ2リーグのサガン鳥栖で4シーズンにわたってプレーされました。

聞き手:高村美砂氏

フランスから帰国後すぐの11月頃に、以前からの知人で当時は名古屋グランパスのアカデミーダイレクターをされていたアイザック・ドルさんに「もう選手としてプレーするのが難しいなら名古屋で指導者にならないか?」と声をかけていただいて。翌シーズンから指導者になるつもりで名古屋で研修を受けていたんです。そしたら当時、鳥栖の監督だった楚輪博さんに連絡をいただき「明日、鳥栖にハンコを押しにくるなら来シーズンから契約するぞ」と言われて「ええ〜っ!」と。研修中だったので悩みましたが、まだ選手をしたいという思いが強く、アイザックに謝って翌日、鳥栖に行って契約しました。ただ、結果的に4年間プレーできたものの契約満了後はJクラブからのオファーはなく…。自分としては鳥栖に加入した時点で、次にキャリアアップできなかったら引退だと思っていたので、引退だな、と。現役最後のシーズンとなった02年は日韓ワールドカップが開催された年で同期のツネやヒデ(中田英寿)が出場していましたが、言うなれば僕らの世代は、ターゲット世代でしたからね。でも僕自身は箸にも棒にもかからない状況で…その現実を突きつけられたことも引退の決断につながりました。

ーその後、07年に指導者として現場に復帰するまでの約3年半はどうされていたのですか?

聞き手:高村美砂氏

実はサラリーマンをしていました。というのも引退にあたっては一旦サッカーから離れようと思っていたんです。僕はガンバアカデミーの一期生として先輩もいない中でキャリアを進んできて…人間関係の構築などを含めて、なんとなく「このままの自分ではいずれ行き詰まるだろう」と感じていたこともあり、一度全く違う世界に身を置いてみようと考えました。それで親父の伝手を頼ってイーストボーイというアパレルのカジュアルブランドに入社し、最初の1年半くらいは新宿伊勢丹で販売や在庫管理の仕事に就き、その後、本社に異動して営業を2年くらいやって辞めました。洋服を扱いながらも、心のどこかでサッカー界に関わりたいって思いがあったし、イーストボーイでも30歳を機に一平社員から役職のある立場になりそうだったので辞めるなら今しかない、と。ただ、環境の全く違う世界で学ぶことは多かったし、社会の厳しさを感じられたのは自分の人生にとっても良かったと思っています。

ー07年からはFCトッカーノで指導者のキャリアをスタートし、ヴィッセル神戸やジェフ千葉のアカデミーでのコーチ業を経て、20年に現在の南葛SCのヘッドコーチに就任されました。経緯を教えてください。

聞き手:高村美砂氏

20年に南葛の監督に島岡健太さんが就任されることになり、ヘッドコーチをしないかと声を掛けていただいたのがきっかけです。南葛は当時まだ東京都1部リーグのチームでしたが、自分としてはジェフでの17年にユースチームのコーチをさせていただいてトップチームに近い世代の指導にもやりがいがあるなと感じていたこともあり、指導対象のカテゴリーが上がることに魅力を感じました。またクラブの将来性にも面白さを感じたというか…正直、20年に加入した時はここまで名だたる元Jリーガーが揃うとは想像していなかったんですけど(笑)、実際に今も、クラブ運営を含めていろんなことにスピード感を持って取り組んでいるクラブですから。だからこそ現場も毎年1つずつカテゴリーを上げて来た勢いを止めず、今年は何としてでもJFLに昇格したいと思っています。

ーこれまでは主にコーチ業がメインでしたが将来的に監督をしたいという考えはあるのでしょうか。

聞き手:高村美砂氏

以前はS級ライセンスを取ろうかなと考えた時期もありましたけど、今はあまり思っていません。長くコーチ業をして来た中で『コーチ』という仕事にすごく面白さとやりがいを感じているのもあります。この世界、性格を含めて向き不向きは当然あるし、僕はそういう意味では監督よりコーチが向いていると感じているので、現場をやれるうちはコーチとしての仕事を極めていけたらいいなと思っています。

ー南葛にはかつてガンバに在籍した下平匠選手、安田晃大選手をはじめ、今年から稲本潤一選手や今野泰幸選手らも加わりました。高木さんを含めてガンバ色が強めですね。

聞き手:高村美砂氏

そうですね。他にもJリーグや日本代表として素晴らしいキャリアを築いた選手が揃っていますが、彼らと日々仕事をしながら感じているのは、いい選手ってサッカーに対してすごく純粋だということ。僕以上に素晴らしいキャリアを築いてきた選手も多いですが、彼ら自身が勝つこと、自分が巧くなることに対してすごく純粋で真面目だということもあって、仕事のやりにくさは全くないし、むしろ彼らの姿から僕自身も学ぶことも多いです。またチームとしても、昨年就任した森一哉監督のもとでスタッフ、選手が同じ方向を向いて戦えているので、今シーズンもしっかり結果を求めていきたいと思っています。

ー4月2日には関西サッカーリーグが開幕します。いいスタートを切れそうですか。

聞き手:高村美砂氏

こればっかりはやってみないとわからないので何とも言えないです (笑)。昨年もリーグ優勝をして昇格したわけではないし、1部リーグはさらに厳しいステージですから。クラブのいいサポート体制もあるし、戦力も揃ってはいますが、そう簡単には勝たせてもらえないと思うので、とにかく目の前の試合にベストを尽くします。

ーJリーグはすでに開幕していますが古巣であるガンバの試合を観ることはありますか?

聞き手:高村美砂氏

めっちゃ観ていますよ。残念ながらスタジアムにはなかなか足を運べませんが、純粋に頑張って欲しい、勝つといいなと思いながらDAZNではほぼ毎試合観戦しています。昨年夏までは同期のツネが監督をしていたし、今も現役時代に一緒に仕事をさせてもらった和田昌裕さんをはじめ、島田貴裕さんや松波正信さん、森下仁志さん、中口雅文さんらがクラブスタッフとして仕事をされているので親近感もありますしね。もちろん、アカデミーの後輩がたくさん在籍しているという意味でも楽しみはあります。僕自身、トップチームでは全く試合に出られなかったですけど、サッカー界で仕事をする上ではガンバのアカデミー出身ということでの恩恵をすごく受けてきたし、どのクラブで仕事をしていても、やっぱり自分の中にはガンバ育ちのDNAが残っているなと感じることは多いです。

ー今年1月には初めてガンバ大阪選手OB会総会にも参加されました。何か感じられたことや要望などがあれば教えてください。

聞き手:高村美砂氏

正直、僕はこうして欲しいという要望は全くないというか…この選手OB会の存在自体に価値があると思っています。もちろん、選手OB会がなくても付き合いが続いている仲間はいましたが、選手OB会の発足で繋がっていた人とはより深く、ご無沙汰していた人とも再会できて、新たな繋がりができましたしね。もちろん、会長の松波さんや副会長の木場昌雄さんらのご尽力があってこそですが今後、OBは増えていく一方だと考えても、選手OB会も大きくなっていくだけだと思うので、そこにまたどんな出会いや繋がりができるのか、楽しみしかないです。僕自身、これまでいろんなサッカー界の人脈に助けられて来ましたが、今後もこの人脈は一生の財産だと思っているし、総会ではなかなかお目にかかれない方とも、ぜひまたどこかで再会できたら嬉しいです。


<プロフィール>
1976年5月13日生まれ。フランス・パリ出身。中学時代は釜本FCに所属。ガンバ大阪ユース一期生として初代10番を背負う。高校3年生時にはJユースカップ選手権大会で初優勝を遂げた。95年にトップチームに昇格し、2年間プレーしたのち大分トリニティへ移籍。フランス留学を挟んで、99年からはJ2リーグのサガン鳥栖に4年間在籍し、引退した。07年にFCトッカーノで指導者のキャリアをスタート。11年から在籍したヴィッセル神戸ではスクールコーチやU-15コーチの他にアカデミースカウトも務めた。17年からはジェフ千葉アカデミーで様々なカテゴリーのコーチを歴任したのち、20年からは南葛SCのヘッドコーチに就任。A級ライセンス保持。

OB総会にて


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