観念ではなく、身体に生きる。

恋愛は観念。
結婚も観念。

ステータスだのキャリアだのも観念。
お金も観念。

「性欲」も観念。

人生という枠組みも観念。
言葉も観念。

言葉は社会的なもの。

今ブログを書いているというのも結局、文字を打っている指の動きの感覚。

今ここにあるのは、この瞬間の感覚とエネルギーでしかない。

そんなことを言っても、社会的に生まれ、社会的に生きてきたので、そういった部分を完全に無くすことはできない。無くす必要もない。
そもそも、こう生きるかああ生きるかのような、二者択一の選択構造ではない。

観念の泡の中で生きるだけでなく、身体性に意識を向けている生は豊か。
自身の「感覚」において、豊かだ。

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