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現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【10・最終回】終わりなき宣言文

著者・若林拓哉

 第一回の「宣言なき宣言文」に始まり、その後八回にわたって現代的な問いのキーワードを挙げてきた。今回は第十回の節目として、これまでの総括としたい。

―私は建築を愛し、建築家を嫌悪する。

 第一回の冒頭で私はこう述べた❖1。それでもなお、肩書きとして建築家を名乗り続けている。建築家が社会から断絶している現実は、建築界全体が向き合わなくてはならない課題である。そのためには、外野からの批評ではなく、当事者として立ち向かう必要がある。建築家に替わる新しい概念をつくるのではなく、あくまで

建築家自体を刷新

しなければならない。
 最初の原稿が紙面に掲載されたのは二〇一九年三月号だった。それから二年半が経つ。その間に「新型コロナウイルス=COVID‐19」の影響で、社会は激変してしまった。だが建築家はどうだろうか? 何か変化したのだろうか? ウッドショックの煽りを受け、日本という島国が、そして建設業界が外需に頼り切っていた事実が露呈した。リモートワークが推奨され、これまで当たり前のように生産し続けてきた近代住宅の中に無理矢理仕事場を詰め込むことを人々に強いた。不特定多数の人々が集まって場を盛り上げることが当たり前の価値として無批判に推奨される、その通念が失効した。近代社会が築き上げてきた建築界の常識が根底から覆されてしまった。否、

これまでひた隠しにしてきた不都合な真実が露呈しただけ

なのだ。
 内需を拡大し、生産力を上げないと国家的な生存戦略を考えるうえでリスクヘッジができないことも、近代住宅が前提としているライフスタイルや世帯構成がすでに破綻していることも、不特定多数の人々が集まる「みんな」のための賑わいの場などというものが非常に限定的で特殊な条件であることも、とうに分かり切っていたことなのだ。
 それでもこれらの現実は再生産され続けてきた。今もなお、マイナーチェンジをするだけで、抜本的な解決に舵を切る兆しは一向に見えてこない。不思議なほどに波は穏やかなままだ。現代的な価値基準に真摯に向き合うのではなく〝建築のための建築〞、つまりつくることが目的化されたトートロジカルな現況を繰り返しているのである。

建築家において、切実さは欠落したまま

なのだ。なぜ切実な課題が眼前にあるにもかかわらず、そこから目を逸らし続けるのだろうか? そこには構造的欠陥があるように思う。
 現代社会は〝建築が社会をつくる〞という急進主義的なスタンスを取ることが極めて難しいほどに、あまりに与件が限られてしまっている。国家単位でのパラダイムシフトが起きることを考えるのは夢想にすぎるほど、建築や都市への視点に疎い日本という土壌の中では、それに起因するプロジェクトもイベントも生じえない。たとえば、一九六四年と二〇二〇年の東京オリンピックでは文脈が全く異なるにもかかわらず、そこでは過去の栄光への憧憬ばかりに注力され、転換する機会を完全に逃してしまった。資本主義を後押しできるかどうかのレベルでしか議論されない現状では、国家主導の時点で、与件はすでに近代的でしかないのだ。
 そうした中で活路を見出しうるのは自治体レベルでの取り組みであるが、そこでも旧来のスターアーキテクトシステムの俎上に載ってしまうような、広い意味で事業性の欠如した計画が生まれ続けているのもまた事実である。地域に対してどのような影響をもたらしたいか、そのためにはどの程度の規模のものをどのように計画すべきかを建主側が真剣に考えることもせずに、それらを抜きにして余所から無理矢理引っ張ってきた、空疎な規模と目的の、従前の何番煎じかもわからない計画要項。それに対して実績づくりのためにも立場的にも肯定することしかできない建築家の立ち位置。これらを繰り返しているかぎり、階層関係は継続されるのだ。だが、

本当にそれをつくらなければならないのか

と提言できない建築家に何の価値があろうか? 形骸化した競争契約よりも随意契約ができていた時代の方が、建築家の価値はまだ高かったのかもしれない。もちろん優れた与件を規定した公共施設のプロポーザルを実施している自治体もあるが、その方が少数派であることは間違いないだろう。

建築家が与件に携われないかぎり、その建築が社会をつくれることはない

と言っても過言ではない。
 一方で、〝社会が建築をつくる〞という漸進主義的なスタンスもまた、問題含みである。その土地に入り込み地域活性を目指す草の根的実践は、目の前の課題に立ち向かうポリティカル・コレクトネスとしてのベタな正しさの現れである。その活動自体の価値は認められるべきものであるが、あくまでそれは「ローカリズム・直接行動・ひたむきな水平主義」を標榜する「素朴政治」的な活動でしかなく、ローカルの枠組みを抜け出すことができない❖2。そのとき、より広範な、グローバルな勢力がつくり出す諸問題に対峙することができず、ローカルという自律空間の中に閉じざるをえないのである。それでは根本的な構造を転換させることもまたできず、対症療法的な対応を余儀なくされる。
 だからこそ建築家は、この〝建築が社会をつくる〞立場と〝社会が建築をつくる〞立場のあいだを振動し、立ち向かわなければならないのである。そもそもこの社会という存在自体も、ある特定の領域内における共同主観のひとつでしかないことは第一回の時点ですでに指摘している❖3。そして、現代社会と国家は等号で結ぶことなど到底できないほどに、すでにあまりにも細分化されてしまっている。つまり、

現代社会は複数の社会によって編成された壮大な虚構

なのである。たとえば地域ごとに育まれる社会は、都心部―山間部で異なれば、都心部間でも山間部間でも大きく異なる。また、年齢層や所属する組織、宗教、共同体(それが現実のものであれ仮想上のものであれ)などによってもまったく異なる。つまり、社会もまた虚構であり、複層的なものである。現代社会とはその総体でしかなく、あまりにも巨大な主語なのだ。
 そのとき、〝建築がつくる社会〞も〝社会がつくる建築〞も、それが差し示す社会をあまりに単純化しすぎていた、あるいは単純に語ることができていた時代遅れの表現なのではないだろうか。そこで私は「大衆の社会」を標榜する必要性を説いた。そのあまりに複雑で数多たあるリアリティを寛容し、一つひとつと向き合わないかぎり、建築家にはもはやなすすべがないからである。
 では現代建築家には何が求められるのか? 屈託なく言えば、それは

「夢をともにつくりあげる」

ことだと思う。「夢」とは、建主のつくりたい理想に対して、どれだけ未知の世界を見せることができるのかを意味する。そしてそれを建築家が押しつけるのではなく、「ともにつくりあげる」のである。これまでの建築家たちの怠慢によって、建主が建築に、空間に理解を示してくれることは非常に稀な事態と化してしまっている。夢もなければ共創関係を築くことも難しくなってしまった現代社会において、そこに立ち向かわねばならない。
 この未知の世界とは、この現代社会に不足した別様な空間に寄与するものである。放っておけばポリティカル・コレクトネスやアイデンティティ・ポリティクスとともに野放図に細分化され、分断が加速する現代社会に対して、それらをつなぎ止める空間を差し込んでいくこと。それは決して啓蒙的なものではなく、リアリティの只中で衝突を生むものである。それはまさしく〈境域 parages〉である。現代建築は〈境域〉として機能する。その摩擦が生じないのであれば、それは近代的な、現状肯定的な建築でしかない。その価値意識を後押ししている時点で、加速主義的❖4なものとしてしか機能しないのではないだろうか? そしてその先に出口がある保証はまったくない。であるならば、

現状追認主義的に振る舞うのはもう終わりにしよう。

 建築をつくる切実さの欠如に対して、現代建築家は大衆の社会へと連関し、影響力を持つステートメントを、二項対立的ではない〈思索的なspeculative〉可能性として提示する必要がある。そのために、まずは現代建築と現代社会のあいだに「見たままのリアリティ」を投擲すること。その投げ入れたものこそがこれまでの連載で挙げた八つの問いのキーワードであった。それらは現代建築を指向する現代建築家にとって不可欠となるだろう思考である。ただし、それらは同列に扱うべきではなく、それぞれの主題が立体的に交差しているのが特徴だ。
 まず現代建築家とはどのような存在であるべきかを指し示すのが〈崇高さsublime〉〈不気味さuncanny〉である。〈崇高さ〉と〈不気味さ〉は第三回と第四回で次のように定義している。

〈崇高さ〉とは、「人間」の側から、「有用性や論理性を超えた絶対性に起因する表象不可能な事象」に対して抱く「畏敬・畏怖の念の表出」として位置づけられる。従って、〈崇高さ〉とは、神格化された超越者のみが獲得する形而上的な概念ではなく、あくまで「人間」という存在がこの現実において到達し得る概念である❖6。
〈不気味さ〉は、自己が見知っている「準拠枠」を破壊し得るような、親しくも暴力的な他者に対する、防衛本能にも似た感情なのだろう。〈不気味さ〉を抱いたとき、自己は瓦解の危機に曝されている❖7 。

 このとき、〈崇高さ〉を獲得することとは、自己の領域を〈人類〉より外側の、表象不可能な「善悪の彼岸」へと拡張することである。死と破壊の地平に身を投じることである。その地平において獲得されるパースペクティヴにこそ〈崇高さ〉は宿る。眼前にある目的化された建築には見向きもせず、あらゆる生物種の只中において、この地球、ひいては宇宙の中でどのように振る舞うべきなのか。その仮説を立てることから始まるのだ。その超越的な性質から、〈崇高さ〉を獲得した現代建築家は、大衆からみれば〈不気味さ〉をもった存在として映るだろう。それは大衆が抱く一般的な人間像としての「準拠枠」を破壊するからだ。それは上辺の口の上手さでもなければ、権威主義的態度によるものでもない。それはただパースペクティヴの途方もない複数性と奥行きによるものでなければならない。その深遠さに大衆は畏怖と畏敬の念を覚え、信用を勝ち取り得るだろう。
 次に、現代建築家は誰と向き合うべきなのかを示すのが、〈不安定性 precarity ❖8〉である。〈不安定性〉は第二回で次のように言及している。

〈不安定性〉とはさまざまな差別に曝され、暴力による「可傷性vulnerability」の高いリスクに苦しむ人間の集合条件と位置づけられる。
〈不安定性〉を〈強き者〉が持つ「鈍感さ」とは別様な強さとして位置づける。〈弱き者〉は「巨大機械」の部品ではない人間であり、「平均思考」から逸脱した個人的性質に重きを置く人間である。現在においてその生きることの苦痛をそれでも肯定し、享受する者。その最大の特質を〈不安定性〉とした時、〈弱き者〉は社会的マジョリティが忘却しようとする痛みを自らの性質として容認することができる。〈弱き者〉は〈不安定性〉を享受することで安定するという、〈強き者〉とはまったく別様な可能性をもっている。

 現代社会はこれら〈不安定性〉をもつ人間に対して非常に厳しい態度・視線を向けているのが現状だ。あたかも〈強き者〉が正しく、〈弱き者〉が間違っているかのように振る舞われる。だがしかし、本当に人間的な意思を持っているのはどちらであろうか? 現実に向き合っているのはどちらであろうか?
 〈不安定性〉を享受しうる〈弱き者〉こそ、現代建築家が本当に対峙すべき存在である。なによりも、現在の建築家の社会的立場は、〈不安定性〉の渦中で苛まれているのだから。
 また、現代建築家は彼らとどのように向き合うべきかを示すのが〈可食性〉〈分解〉である。これらは第六回と第七回で次のように位置付けている。

〈可食性〉は自己の内部における微生物との〈共生〉から、他者から食べられる存在であることまでを広範に包摂している。つまり、他者を「食べる/食べられる」存在である人間は、一人では生きられないこと以上に、人間だけでは生きられないのである❖9。
〈分解〉は結合性と無為の連鎖を伴うものであり、本質的に他者性を内包するものでもある。それゆえ、偏った〈分解〉=自己にとってのみ都合の良い〈分解〉は、必ずしも〈分解〉の定義には当てはまらない❖10。

〈可食性〉の思考も〈分解〉の思考も、自己の不完全性を自認するところに重点がある。実際に〈崇高さ〉や〈不気味さ〉を獲得するには、〈可食性〉や〈分解〉の思考がベースにあると言ってよい。不完全性を前提に、他者性を包摂し連鎖していく、遍く生態系の極わずかな一片のちっぽけな存在でしかない事実を受容すること。その上で、出来うるかぎりの誠意をもって他者を食べ、咀嚼し、〈発酵〉させていくこと。自己もまた〈不安定な〉存在であり、〈可塑的〉に生成変化していくことを享受すること。その視点を獲得しようとする態度こそが求められる。
 そのうえで、どのように彼らと関係性を結んでいくべきかを指し示すのが〈可謬性fallibility〉〈互酬性reciprocity〉である。これらは第五回と第八回で次のように記述している。

〈可謬性〉こそが創造性の根源であり、絶え間なく変化することに意味がある。私たちは「正しさ」の呪縛から離れ、〈可謬性〉の只中に身を投じるべきではないだろうか。それを〈消極的能力 negative capability〉と呼ぼう。これは「いたずらに事実や合理を追い求めないで、不確実な状況や謎や疑いのうちにとどまっている能力」である。「正しさ」を安易に欲するのではなく、意識的に不確実な道へと歩みを進めること、不安定な場に留まること。そうすることでしか見出せない景色が存在する❖11。 
ここで〈贈与〉は「有-時間的」なもの、つまり前述の義務における与える・受け取る・お返しする行為それぞれがタイムラグをもって生じる可能性があるものとして位置づけられる。(…)それに対して〈交換〉は「無-時間的」なものとして位置づけられる。〈交換〉とは即時的な行為であり、まさしく商品を貨幣と取り換えることもこれに該当する。ここでは〈交換〉を〈贈与〉の対概念として提示し、両者を併せて〈互酬性〉と捉える❖12。

 〈可謬性〉とは端的に言えば、誤りを許容することである。「正しさ」のみが溢れる現代社会の中で、その「正しさ」の根拠の不確かさ、複数性を理解し、受け止めること。時には相手の「正しさ」が〈可塑的〉に変化するかもしれない。それをただ良しとするだけでなく、〈可塑的〉な変化が生じる環境すら提供すること。〝未知の世界を見せる〞ことにはそれが包含されている。そしてこの態度は〈贈与〉的である。「有-時間的」な可能性の先へ投擲すること、相手を〈歓待〉すること。〈互酬性〉の循環のなかで、〈交換〉優位な立場から〈贈与〉優位な立場へとシフトしていくことが、有機的な関係性を構築する手掛かりとなる。
 最後に、現代建築家が創造すべき他者間の関係性を示すのが、〈境域parages〉である。これは第九回において次のように定義している。

〈境域〉を「個/集団の現出しない不可視の境界上あるいはあいだに広がる、一時停止を余儀なくする万物共通の領域」と定義しよう。「リベラル・デモクラシー」の時代と比べ、現代社会は個人/共同体が極めて細分化されているが、それらは不可視の境界線を有し、常に他の境界線を破壊し、飲み込もうとしていると言えよう。それこそが〈群衆的〉心理であり、〈捕食性アイデンティティ〉である。そうではなく、衝突した時点でいちど停止し、状況を俯瞰するための象徴的空間をつくり出さねばならない❖13 。

 〈境域〉のみが、〈闘技的〉関係を結ぶための空間性を示しており、その他の問いのキーワードと多少性質が異なる。ただ、それは何も実空間的な広がりに限定されるわけではなく、個人間あるいは共同体間で発生可能なものである。その時、〈境域〉は自己の内面的な広がりとして把握されよう。〈可謬性〉も〈互酬性〉も認められない思考には〈境域〉が生じる余白もまた存在しえないと言っても過言ではない。現代社会において、最も求められるのは一度立ち止まってじっくり考える時間と空間なのではないだろうか。

 このように、これまでに挙げた八つのキーワードはそれぞれ現代建築家を基礎づける位置関係が異なる。現代建築家とはこうして立体的に規定されるものであり、決して現代を生きる建築家の総称などではない。その存在が、対峙の仕方が、思考が、振る舞いが近代的であれば、あるいは俗人的であれば、現代建築家たりえない。
 しかしながら、これらの問いのキーワードが十全かというと、そんなことはまったくない。そもそも〈現代建築家宣言〉とは暫定的なものであり、常にアップデートし続けることが根底にあるからだ。まだ不足している箇所もあれば、定義や位置づけを修正する必要もあるかもしれない。問いとして不適切なものがあることも想定される。だが、それもまた〈可謬性〉の範疇だろう(〈可謬性〉自体が誤りだということは避けたいが)。少なくとも、これらの問いのキーワードが、現代建築と現代社会のあいだに広がる「見たままのリアリティ」の只中に投擲するに値する概念であると考え、ここまで紡いできた。それが適切かどうかの判断は読者に委ねるとしよう。重要なのは、実際に「大衆の社会」へと連関する実践にある。

哲学者としての立ち位置に留まっているわけにはいかない

のだ。〈現代建築家宣言〉を更新し続けるとともに、私が先陣を切って「大衆の社会」に飛び込んでいかなければならない。その時、この宣言の真偽が示されるだろう。

#10_挿絵

「バラバラな島をかける逃走線」 絵:若林拓哉

 この連載が始まるより前、修士研究の際に提示した概念の延長線上で思考し続けているのが〈汎―島嶼論〉という概念である。それは、人間も建築も都市も国家も地球も、すべてを「島」として把握し、その関係性の構築方法を思考することである。実は、この概念は〈現代建築家宣言〉にも通底している。さらに言えば、現代的な問いのキーワードは〈汎 ‐島嶼論〉の一部としてさえ位置づけられる。なぜならば、人間を「島」として捉えたとき、「島」としてのアイデンティティや「島」同士の関係性について、いかに接続/切断の間のグラデーションの中で揺れ動くかが問われるからだ。そしてそこでは「物流量、速度、頻度」の3つのパラメータがその運動を規定する。その時、それが「孤島」なのか「諸島」なのか、「島国」なのか「大陸」なのか、「島」同士の関係性や「島」のスケールを導入することで、抽象概念でありながらもリアリティをもって認識できるようになる。この展開はまたどこか別の機会に譲るとして、ここで〈現代建築家宣言〉の一区切りとしたい。

❖1│ 現代建築家宣言:第一回 宣言なき宣言文が現代を切り拓く『建築ジャーナル』2019年3月号を参照 以下、ここで著されている内容をもとに話を進める。
❖2│ 『現代思想2019年6月 特集:加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉』青土社、2019年、p.222-223
❖3│ ※1に同じ
❖4│ 「加速主義」には右派左派が存在するが、大枠としては、資本主義を徹底的に推し進めることのみが、資本主義を脱出する出口に通じるとする立場のことである。
❖5│ 「現状追認主義」は「現実主義」とは全く異なる立場である。「現実主義」は「理想主義」に対置される。「理想主義」は大まかに言えば理想的な結果を完全に実現するためには手段において一つの妥協も許さない立場であり、「現実主義」はある結果の実現可能性を鑑みて、その中で最も効果的な
手段を選択して実行することである。「理想主義」が完璧主義的に最適解を求めるのに対し、「現実主義」は実利的な高適化を企図するとも言える。それらに対して、「現状追認主義」は、現状が不当でも非合理的でもそれを厭わず、諦観し、ただ受け入れるだけの態度を表す。
❖6│ 現代建築家宣言:第三回 人類、崇高さ、死―表象不可能性の先へ投擲せよ―『建築ジャーナル』2019年9月号を参照
❖7│ 現代建築家宣言:第四回 ぶきみなきみをきみはわらう『建築ジャーナル』2019年12月号を参照
❖8│ 現代建築家宣言:第二回 〈弱き者〉の不安定性、あるいは〈可塑性〉の享受『建築ジャーナル』2019年6月号を参照
❖9│ 現代建築家宣言:第六回 私たちは〈可食性〉を咀嚼し、反芻する動物である『建築ジャーナル』2020年6月号を参照
❖10│ 現代建築家宣言:第七回 〈分解〉と〈発酵〉―〈疎外〉された事物の内部化と他者性の連鎖―『建築ジャーナル』2020年10月号を参照
❖11│ 現代建築家宣言:第五回 〈可謬性〉の海を漂うことは〈誤配〉に身を任せることであり、それは〈偶然性〉の暗闇で迷うことであり、それは無数の〈模倣〉の連鎖であり、……『建築ジャーナル』2020年3月号を参照
❖12│ 現代建築家宣言:第八回 〈互酬性〉は〈贈与〉と〈交換〉でできている『建築ジャーナル』2021年4月号を参照
❖13│ 現代建築家宣言:第九回 〈境域〉の只中を航海せよ―暴力、群衆、アイデンティティを超えて―『建築ジャーナル』2021年7月号を参照

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