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現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【8】〈互酬性〉は〈贈与〉と〈交換〉でできている

著者・若林拓哉

―現代建築家は、〈互酬性〉の連帯によって他者を〈歓待〉する。

 〈現代建築家〉は、「魔術化」された事物を〈分解〉によって〈発酵〉させることでその事物を身体化するとともに、無為の連鎖を生み出しうるプラットフォームとしての役割を果たすことが求められる。そして分断が進行する社会との連関を築くための別様な価値基準を導入する必要がある。そこで〈互酬性 reciprocity〉を提示して幕を閉じた。

 私たちは何かをすれば必ず適切な報酬を受け取ることを求め、逆に何かをしてもらえばそれを求められる。それが私たちの生きている近代社会の基礎となっている資本主義経済の理であり、ほとんどの財・サービスが商品として扱われている。それを調停するために用いられるのが貨幣であり、財・サービスは金銭的価値という画一的な判断規準によって推し量られる。労働力もまた同様である一方、建築業界ではその労働力の搾取が横行している状況にあることも看過できるものではない。いまだに蔓延る衣食住が分離された不完全な丁稚奉公的使役、詰まるところの労働基準法違反は国際的にも非難されている。しかしながら、その職人気質な業界体質がすべて悪いかと問えば、ケースバイケースである。そこには何らかの認識のズレが生じているはずだ。それを考える上で重要な視点となるのが〈贈与〉である。
 社会学者・文化人類学者のマルセル・モースは著書『贈与論』の中で、贈与の義務を「与える義務、受け取る義務、お返しをする義務」の三つに分類している❖1。後に人類学者モース・ゴドリエはモースの贈与の義務に不足しているものとして第四の義務、「神に対する贈与の義務」を付け加えた❖2。贈与といえば相続時の課税対象のような印象が強いかもしれないが、原理的には通底している。〈贈与〉をめぐる考察はこれらの四つの義務が根底にあることを留意しておこう。
 〈互酬性〉とは「事物の相互のやり取り」を意味する。そしてそこには時間の概念が内包されている。ここで〈贈与〉は「有-時間的」なもの、つまり前述の義務における与える・受け取る・お返しする行為それぞれがタイムラグをもって生じる可能性があるものとして位置づけられる。この中で最も分かりやすいのがお返しをする義務だろう。〈贈与〉が生じると受贈者は贈与者に対して「借り」が、贈与者は受贈者に対して「貸し」ができる❖3。ただそれはすぐに返済する義務を課せられるものではない。それに対して〈交換〉は「無-時間的」なものとして位置づけられる。〈交換〉とは即時的な行為であり、まさしく商品を貨幣と取り換えることもこれに該当する。ここでは〈交換〉を〈贈与〉の対概念として提示し、両者を併せて〈互酬性〉と捉える。
 両者が決定的に異なるのは、その時間性の違いによる関係性の在り方である。文学研究者・山田広昭は、著書の中で人類学者デヴィッド・グレーバーを引用しながら次のように述べている。

(…)貸し借りに関して現在でも見られるというアフリカ社会の習俗は象徴的である。「多くのアフリカ社会においては、私が何か―たとえば食べ物でもビールでもお金でも―を借りるとすると、私は決してその同額を返すようなことはしません。少し多くか、少なく返すのです。」なぜそうしなければならないのだろうか。「そうしないと、もう君とは関係を続けたくないという意思表示になってしまう」からである❖4。

 このように、等価交換はいつでも断ち切ってしまえる関係性においてのみ起こるのである。つまり、〈贈与〉は時間のズレを導入しつつ「貸し借り」の関係性を築くことで継続を基本としているのに対し、〈交換〉は時間性を排除したその場限りの付き合いを意味する。あるいはこう言い換えることもできる。〈贈与〉は剰余価値を前提にしているのに対して、〈交換〉は等価値を前提にしていると。また、受贈者が贈与者に返礼しようのない贈与は「純粋贈与❖5」と呼ばれている。親から子への無償の愛やサンタクロースの存在もこれに該当すると言えよう。一方で、純粋な贈与行為は「これは贈与だ、私は誰かに与えるのだ」と意識したとたんに贈与ではなくなってしまう。贈与が純粋に返礼なき贈与であるならば、贈与者も受贈者もそれが贈与であると気付いてはならない❖6。しかしながら、たとえ受贈者が受け取った当時は贈与の存在に気付かなくとも、年齢を重ねるとともにそれが「純粋贈与」だったことに気付いてしまうのだ。その瞬間に、受贈者は贈与者へ〈負債〉を抱えることになる。それゆえ、それが「純粋贈与」だと認知したと同時に、すでに「純粋贈与」ではなくなるというパラドックスを抱えている。つまり「純粋贈与」が生涯にわたって継続することは困難を極める。〈贈与〉は〈負債〉と表裏一体の関係にあるのだ。無償の〈贈与〉も、寛大さの意図とは裏腹に、支配と従属の関係を招く可能性を秘めている❖7。
一方で、「純粋贈与」は贈与者にとっては受け渡しが未来時制となり、受贈者にとっては受け取りが過去時制となると捉えることもできる。「純粋贈与」は未来にあると同時に過去にあるのだ❖8。「純粋贈与」は贈与者に〝いずれ届くだろう〞という節度を要求する。しかしながら、贈与者が、この〈贈与〉は必ず届くという信念を抱いてしまうと、いずれ〈負債〉の請求へと反転する。贈与者への見返りを求め、それが反故にされることに疲れ果ててしまうのだ。そうなればもはや〈贈与〉であると言うよりも〈交換〉の方へ接近していく。それに対して受贈者には、「純粋贈与」が実行されていたことを理解する思考が要求される。そもそも鈍感であれば、贈与者の「純粋贈与」に気付くこともなければ、〈負債〉の念を抱くこともないからだ。そしてこの「純粋贈与」を取り巻く関係性は〈贈与〉においても有効に働くと言えよう。したがって、〈贈与〉は

贈与者に倫理を求め、受贈者に知性を求める。


 〈贈与〉は関係性の継続を原則とするのに対して、〈交換〉は関係性の切断を原則とすることは既に述べたが、これをまた換言すれば、〈贈与〉は三者間の関係性を前提とし、〈交換〉は二者間の関係性を前提としていると考えることもできる。基本的に近代社会はこの二者間による〈交換〉の原理によって成立していると言っても過言ではない。あくまでも個人間のやり取りなのだ。それに対して〈贈与〉の体系は、第三者の存在が不可欠であり、集団の中で循環する体系になっている。ある受贈者(B)がある贈与者(A)から受け取った事物を第三者(C)に贈る。するとBは受贈者から贈与者へと転じる。そこからまたCがBへと事物を贈り返し、BがAへと贈り返す。例えばこのような形で、持ちつ持たれつの関係性の輪を広げていくことが社会の形成に繋がる。この時やり取りされるものは同一の事物である必然性は全くなく、また〈負債〉を伴うものである。二者しかいないところに社会は存在し得ず、向かい合った二人だけの関係性を破壊するには第三者が必要なのである❖10。
 過去の〈負債〉を相殺するための返礼は「反対給付の義務❖11」と呼ばれる。これまでの議論を敷衍すれば、受贈者は「純粋贈与」を贈与者に恩返しするのではなく、第三者へ返礼することで、「純粋贈与」における〈交換〉の呪縛から逃れられる。そもそも受贈者の「純粋贈与」に対する贈与者への返済は原理的に完済しえない。それよりも、その〈負債〉の存在を認識し、誰かに返すことが重要である。〈贈与〉は

〈贈与〉の連鎖を生むことで力を宿すのである。

このような〈贈与〉の意識を持たず、それが割に合うかどうかの観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考を「交換の論理❖12」とすれば、まさしく近代社会に生きる私たちの脳裡に呪いのように取り憑くのはこの論理ではないだろうか。たとえばボランティアは良い例である。それが反対給付なのか、それとも人からよく思われたい、褒められたいといった欲求に衝き動かされてのことなのか。後者の場合、それは〈贈与〉ではなく金銭的ではない形の〈交換〉なのである。そしてそれは「偽善」と見なされてしまうのだ。あるいは、いずれ生じる未来の利益の回収を予定した〈贈与〉は〈贈与〉ではなく、打算に基づいた時間差のあるただの〈交換〉でしかない。「有-時間的」であることは〈贈与〉の必要条件であるが、ギブ&テイクの等価交換を要求するのであれば、それは他者を手段としてしか捉えない「交換の論理」の次元を脱しえないのである。私たちは「贈与の論理」の次元を目指さなければならない。

建築ジャーナル#8_挿絵

「〈贈与〉の繫がり」 絵:若林拓哉

 また、先のボランティアの例は「労働贈与」の一種である。その動機は①個人的な満足、②善意、③貢ぎ物としての労働=かくれた租税の三つである。このうち①と②は昨今の震災ボランティアなどで特に分かりやすいが、③は冒頭の労働力搾取に繋がっている。それが「かくれた租税」である由縁としては、歴史的にみれば強制的な兵役における低賃金に対する一般的な賃金水準との格差、奴隷制、囚人の強制労働などが挙げられる。つまり、これは贈与者の自発性に乏しい搾取的労働、意図していないにも関わらず結果的に〈贈与〉させられてしまっているケースであると言える。その不当な〈負債〉が受贈者との間で生じる時、認識にズレが生じるのである。それに対して、贈与者が十分に「剰余価値」を体感し、その見返りを求めない倫理性を抱き、一方で受贈者はそれが〈贈与〉であると認識する知性を持ち、結果的に双方で〈贈与〉の連鎖を生むことに寄与できるのであれば、それは十全たる〈贈与〉として成立する。この微かな、それでいて強固な関係性の糸が少しでもほつれると、「贈与の論理」はすぐに破綻してしまう。

 これまでの議論を要約すれば、〈贈与〉とは「有-時間的」であること、「剰余価値」を持つこと、贈与者の倫理と受贈者の知性、連鎖を生むことを必要条件としている。これらが全て揃って初めて「贈与の論理」を思考できる。裏を返せば、〈交換〉は「無-時間的」であること、「等価値」であること、関係性の切断によって支えられている。「交換の論理」では、他者との関係性はフラットであり、代替可能であり、打算的な手段の一つとなる。つまり、〈贈与〉がなくなった社会=

〈交換〉が支配的な社会には、信頼関係が存在しない❖14。

〈負債〉を受容し、それを取り立てないことで初めて〈贈与〉の関係性は築きあげられるのだ。それゆえ、原理的には〈交換〉の社会では助けを求めることもできなければ、無駄なことも許されない。自己責任論が深刻化し、効率化のみが優先され、分断が加速するのである。近年では「贈与経済 gift economy」の価値が再認識されつつあるが、〈交換〉に支配された商品としての事物のやり取りを意味する「市場経済market economy」だけでなく、〈贈与〉を基調とした事物のやり取りを導入していかなければならない。
 例えば、ボルネオ島の狩猟民族によるプナン社会では、与えられたものを寛大な心ですぐさま他人に分け与えることを最も頻繁に実践する人物が、最も尊敬される❖15。これは食べることと生きることに深く関係している。狩猟の成果の出来不出来に応じて、集落全体で互助的に分け与えることで、自身のセーフティネットを形成しているのだ。これをモースは「全体的給付体系」と呼んでいる❖16。それは「所有」を徹底的に放棄することで出来上がる体系であり、資本主義を解体する「共有主義❖17」の思想でもある。「所有」の観念は農耕文化の発展とともに、財の安定的な確保を目指して生まれたものだと言われている。その一方で、自然との契約精神、神からの贈与といった観念は衰退していった❖18。つまり、近代社会の「交換の論理」は古代に起源をもつ「所有」を大前提としているのだ。また「全体的給付体系」は、土地やインフラ等を社会全体で管理するべきものであるとする〈コモンズ〉の概念と通じる。例えば「入会権」は、村人たちの共用地の権利であり、村人であれば誰でも薪を拾い、炭を焼き、村有林から産出されるすべての生産物を利用できる❖19。また、フィンランドやデンマークなどの北欧圏における「自然享受権」は、私有地において、土地の所有者に損害を与えない範囲内で、自由に土地の出入りや産物の採取、宿泊などの自然の恩恵を共有する権利が認められている❖20。これらは〈コモンズ〉のほんの一例でしかないが、非常に示唆的な価値意識である。
 だがここから、社会はすべて「贈与経済」のみの関係になるべき、という短絡的な思考回路に陥ってはいけない。グレーバーはこの「所有」を撤廃した「原始共産制」の思想を明確に退ける。第一に個人的所有のない社会は存在し得ず、共同所有もまた誰が管理の責任を負うかという問題があるからだ❖21。そこから、山田広昭は哲学者ナタリー・サルトゥー=ラジュを援用して次のように語る。

誰かに何かを借りている状態、そして誰かに何かを貸している状態、そして誰もがその即時的な返済を望んでいない状態、こうした状態によって生み出される関係こそ、人間の基礎的な関係なのだ❖22(…)。

 そしてグレーバーはこの関係性を〈基盤的コミュニズム〉と名付けている。〈基盤的コミュニズム〉は、あくまで基礎的な関係性を〈贈与〉に位置づけているのであって、全てを〈贈与〉的に取り扱うべきだと要請するものではない。それでは「原始共産制」と変わらないためだ。〈贈与〉が価値を持つのは、「交換の論理」が常態化しているゆえである。したがって、〈互酬性〉の相互補完的な関係性こそ重要視すべきである。〈贈与〉の不合理性と〈交換〉の合理性の間を往復し、共存の道を探らなくてはならない。
 社会学者エミール・デュルケームは『社会分業論』の中で、「分業」のもっとも重要な働きを、機械的に繋がり合う「無機的連帯」に対して、相互に連携しながら紐帯していく「有機的連帯」としている❖24。「分業」が極化するとすぐに「巨大機械(メガマシン)」❖25の論理に陥ってしまうが、「分業」とは本来、他者を信頼することなしには成立しない。「有機的連帯」を実現する「分業」は〈贈与〉が根底にあり、それが〈交換〉に転向する時、「分業」もまた「無機的連帯」へと転向する。つまり、

「有機的連帯」は〈贈与〉に基づいた「分業」に基礎づけられる。

それを維持するためには、第三者と連帯する一方で「巨大機械」ほど大きくなり過ぎないことが求められている。

 ここで冒頭のステートメントを呼び起こそう。〝現代建築家は、〈互酬性〉の連帯によって他者を〈歓待〉する〞。〈互酬性〉の循環は〈負債〉を前提とし、連鎖を生むことを必要条件としているが、それが正の連鎖を生むか負の連鎖を生むかは深刻な分かれ目である。無償の〈贈与〉もプレッシャーとなってしまうことがあるが、〝私の方があなたより多く動いた〞というような、相手への「貸し」を相互に要求し合う関係性は、悪循環を招くことになる。これは復讐のサイクルと全く変わらない。それはすでに〈贈与〉ではなく「交換の論理」に陥ってしまっているのだ。その打算的な、偽善的な関係性から脱出するためには、他者との関係の未来に信頼を置くことが不可欠だ。一度、他者への〈贈与〉を未来へと投擲すること。それが、悪循環が好循環へと転換する契機となる。互いに〝あなたの方が私より動いてくれている〞感覚へとシフトするためには、〈贈与〉の連鎖を相互に継続しなければならない。
 そのために重要なのが〈歓待 hospitality〉の概念である。元々〈歓待〉とは、ホスト(客をもてなす主人)が異邦人の身分や名前を問う前に、まず共同の食卓へ招いて、一緒に食事をとった後にようやく、どこから来たのか、何者か、必要なものはないか等を尋ねる一連の流れである❖26。これは異邦人を異邦人のまま、つまり〈人類❖27〉として〈歓待〉することを意味する。なぜそれが重要なのか? これは恐らく、異邦人が根源的に敵対的性格をもつからだろう。〈歓待〉は単なる善意や親切心のみに由来するのではなく、その敵対性を解消するための役割を果たす。異邦人をホストが拒否すれば敵対性が生まれるだろうし、異邦人が〈歓待〉を拒否する時にも敵対性が生まれるだろう❖28。社会的な関係性を結ぶ上で、〈贈与〉のやり取りは〈歓待〉へと接続するのである。
 この〈歓待〉における共同の食卓への招待は〈コンヴィヴィアル convivial〉といい、哲学者イヴァン・イリイチの提唱した「自立共生 conviviality❖29」の語源でもある。まず食卓へ招くこと、まず〈贈与〉することと同一である。話はそれからなのだ。〝おもてなし〞は政治的な交渉術ではない。その本質的な精神性にこそ力が宿るのだ。ここで、仏文学者・湯浅博雄の言葉は示唆的である。

 異邦的な、未知なる他者に特有な、独特なものを迎え入れるせいで、私の「固有性・特性」は自己同一的なままでとどまることはできず、異なるものに変化せざるをえないが、私はそういう「変化」をあえて受け入れるのである。私(の固有性=特異な同一性)は自ら変わろうとする。こういうとき、「他者との関係」は贈与的次元を含むふるまいに基づいている❖30。

つまり、〈コンヴィヴィアリティ〉とは〈贈与〉であり、〈贈与〉とは〈可塑的❖31〉変化をもたらすものなのである。その現実から目を逸らし、思考停止してしまった時、〈交換〉がすべてを支配するようになるのだ。
 
 私たちの生きる社会では、敵対性と常に闘い続けなければならない。いくら世界平和を標榜しようとも、家族・夫婦・カップル・友達同士の喧嘩はなくならないし、仕事上で揉めなくなることもないだろう。身近な争いすら解消できないのに、なぜ世界から争いが消えようか。その上で共存する方法を模索しようとしているのが、フランスで二〇一三年に出版された『共生主義宣言』だ❖32。この共生主義のフランス語はconvivialismeであり、まさしくイリイチのconvivialityを語源としている。そしてこの闘いの歴史に活路を見出すための現代的なキーワードとして〈境域 parages〉を提示して、今回は幕を閉じよう。


❖1│マルセル・モース著、森山工訳『贈与論』岩波書店、2014年、p.230-258
❖2│桜井英治著『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』中央公論新社、2011年、p.4
❖3│同上、p.6-7
❖4│山田広昭著『可能なるアナキズム―マルセル・モースと贈与のモデル』インスクリプト、2020年、p.33-34
❖5│今村仁司著『交易する人間 贈与と交換の人間学』講談社、2016年、p.123
❖6│同上
❖7│マルク・R・アンスパック著、杉山光信訳『悪循環と好循環:互酬性の形/相手も同じことをするという条件で』新評論、2012年、p.200
❖8│近内悠太著『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』NewsPicksパブリッシング、2020年、p.112
❖9│同上、p.113
❖10│❖7に同じ、p.54
❖11│❖8に同じ、p.30
❖12│同上、p.43-50、以下の文章もこれを参照
❖13│❖2に同じ、p.211、以下の文章もこれを参照。
❖14│❖8に同じ、p.51
❖15│奥野克巳著『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』亜紀書房、2018年、p.69
❖16│同上、p.70-71
❖17│同上、p.123
❖18│同上、p.120
❖19│アナ・チン著、赤嶺淳訳『マツタケ 不確定な時代を生きる術』みすず書房、2019年、p.275
❖20│水野祐著『法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する』フィルムアート社、2017年、p.41
❖21│❖4に同じ、p.25
❖22│同上、p.125-126
❖23│同上、p.126
❖24│同上、p.41
❖25│現代建築家宣言:第二回〈弱き者〉の〈不安定性〉、あるいは〈可塑性〉の享受『建築ジャーナル』2019年6月号を参照
❖26│❖5に同じ、p.32
❖27│現代建築家宣言:第三回 人類、崇高さ、死―表象不可能性の先へ投擲せよ―『建築ジャーナル』2019年9月号を参照
❖28│❖5に同じ、p.34
❖29│イヴァン・イリイチ著、渡辺京二・渡辺梨佐訳『コンヴィヴィアリティのための道具』筑摩書房、2015年、p.39-40
❖30│湯浅博雄著『贈与の系譜学』講談社選書メチエ、2020年、p.34原文〈〉を「」に修正
❖31│❖25に同じ
❖32│西川潤、マルク・アンベール編『共生主義宣言 経済成長なき時代をどう生きるか』コモンズ、2017年

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