挿絵_4

現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【4】ぶきみなきみをきみはわらう

建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
*『建築ジャーナル』2019年12月号からの転載です。

第四回 ぶきみなきみをきみはわらう

著者・若林拓哉

――現代建築家は、〈不気味さ〉を懐抱することで「生」を解放する。

〈現代建築家〉は、善悪の価値判断を越え、「生」と「死」の狭間を見つめ、自己の境界を無限遠へ拡張する。可能な限り自己と他者を相対化し、〈人類〉という視点から、あるいはあまねく生物の一種としての〈人類〉から自己を位置づける。そこで第三回の終わりに、〈崇高さsublime〉とは異なる感覚の可能性として、現代的な問いのキーワードの一つに〈不気味さuncannyを提示して幕を閉じた。なぜ〈不気味さ〉が重要なのだろうか?
 そのためにはまず、〈不気味さ〉が一体何なのかを知らなければならない。そこでまず参照すべきなのが、精神医学者ジークムント・フロイトが一九一九年に著した論文『不気味なもの』である。その中で彼は、「不気味なもの」が人々をぞっとさせたり、不安や恐怖を抱かせたりするものであることは疑いないが、それだけでは「不気味なもの」を捉え切れないとしている❖1。ドイツ語で不気味なものを意味するunheimlichは、heimlichに接頭語として否定形のunを付記することで成り立っている。そしてheimlichは、馴染みのもの、居心地の良いものという意味だけでなく、隠されたもの、秘密にされているものという意味を併せ持つ❖2。その原義の両義性の否定の上に成り立っているunheimlichとはつまり、

本来隠されている馴染みあるものが、何かの拍子に表出した時に立ち現れる感情

である。あくまで、不気味なものとは馴染みのあるものであり、一方でそれは本来隠されているべきものなのである。それに触れてしまった瞬間に、人々は〈不気味さ〉の感情を抱くのだ。だが、それはいかにして隠されているのか? フロイトはこう指摘する。

感情の蠢きに伴うすべての情動はその種別にかかわらず抑圧されるとつねに不安に変換されるという精神分析理論の主張が正しいとすれば、不安を掻き立てるものの事例のなかには、不安を掻き立てるものとは抑圧されたものが回帰しているのに他ならないということを示すグループが存在するに違いないということである。この種の不安を掻き立てるものこそがまさに不気味なものであろう❖3。

 隠されているものとは

感情の蠢きを抑圧されたもの

であり、それが何らかの契機によって表出した刹那に不安が生じる。その過程に〈不気味さ〉が宿るのである。私たちの感情は、幼児期より成長する過程で様々な社会的圧力により矯正され、圧迫され、不感症的になっていく。その鈍感さこそが”社会人になる”ということを意味しさえする。まるで子どもの頃のような感情の鮮やかな移り変わりが稚拙であるとでも言うように。ではその契機は一体何が握っているのだろうか?
 「不気味なもの」のライトモチーフとして最も多く用いられるのが「家」である。そしてそれらを組み合わせた「不気味な家」とは「幽霊が出る家」とおよそ同義なものとして認識される。ここで隠されているものは「死」への畏怖・恐怖である。それが「家」という馴染みあるものを媒介として立ち現れ、普段は意識することのない「死」へ接近した時、そこに〈不気味さ〉が生じるのだ。
 あるいは、操り人形やアンドロイドといった人間を模したものもまた、「不気味なもの」の典型的な例である。「不気味の谷」という言葉があるが、それは人間を模したものが人間に近く見えるにつれて感じる否定的感情であり、これを超えるとようやく人間のように見えると言われている❖4。人間ではないものが人間のような振る舞いをする際に感じるその違和感や恐怖感は、〈不気味さ〉を伴うものだろう。
 一方で「不気味なもの」と<滑稽さcomiqueの相同性を指摘したのが哲学者ジャン=リュック・ジリボンである❖5。彼は次のように述べている。

 わたしには、滑稽さと不気味なものは同一圏にあって、ただそれが別様に記述され、別様に見られただけであり、いわば一方が他方のネガ、あるいは同じものが別の場所で観察されているか、あるいはまた手袋のように裏返されただけのもののように思われる。いまや、そうした同一性と反転について考えていく必要がある❖6。(傍点原文のまま)

 この〈滑稽さ〉の概念を科学的に分析したのが、哲学者アンリ・ベルクソンである。彼は〈滑稽さ〉をいくつかの行為・出来事から帰納的に導き出すことを試みた。この「笑い」に寄与する〈滑稽さ〉の構造自体が非常に興味深いのだが、ベルクソンはその中で、〈滑稽さ〉をもたらす要因の一つに

機械的なぎこちなさ

を挙げている❖7。人間は同一の行為を決して反復したりはしない。同じようにすることはできても、全く同じことはできないのである。これは「不気味の谷」に近接する人形たちにも当てはまる。「不気味の谷」に直面している人形たちは、およそ人間とはいえないほどに、機械的に繰り返される動作をまだ内包してしまっている。
 ここで重要なのが、「準拠枠❖8」の概念である。建築史家・批評家アンソニー・ヴィドラーの言葉を借りれば、「不気味な建築といったものがあるということではなく、建築は、たまたまさまざまな目的のために不気味な性質を賦与されただけだということである❖9」。どんな事物であれ、はじめから「不気味なもの」であることはない。〈不気味さ〉とは、既存の事物の上に重ね合わされた靄のようなものである。つまり、〈不気味さ〉も〈滑稽さ〉も事物それ自体が持っている要素ではなく、その事物を相対化し、ある特定の見方で捉えた時に浮かび上がるものでしかない。先ほど人間は機械的な反復はしないと述べたが、例えば自閉スペクトラム症の人々は、自己の精神を安定させるために、不安感を抱くと同じ行動を反復的に行なう傾向にある。まちなかや電車の中でその様子を見かけることも多いだろう。仮に私たちがその事実を知らなければ、機械的に反復される〈不気味な〉存在として映ってしまう可能性があるが、その事実を知ってさえいれば、「人間」の数あるバリエーションの一つであるとしか思わない。〈不気味さ〉を感じるかどうかは、

どのような「準拠枠」を持っているのか

に依存するのである。
 近代社会が「巨大機械(メガマシン)」を呼び起したことはすでに第二回❖10で触れたが、この事実に無関心である〈強き者〉たちは、その〈滑稽さ〉に気づかない。そしてその〈滑稽さ〉に気づいた瞬間、世界は〈不気味〉に映ることだろう。したがって〈現代建築家〉は

世の中の〈不気味さ〉に鋭敏でなければならない。

それに気づかないことは、一方で非常に安定しているのかもしれない。なんとも小気味良い生活だ。しかし、ふとした時に絶望的な不安に苛まれることになる。果たして、どちらがより〈不気味〉なのだろうか。
 あるいは、建築物を構成する要素の中にも〈不気味さ〉を見てとることができる。西欧風の「不気味な家」に付き物な「煙突」に対して、建築史家の中谷礼仁は、それを臓器のメタファーとして捉える。

 家の住み手にとって、動物等の他者を食べること、それは欲求を満たす一方、おぞましいものである。そして不可避的かつ自然なことである。煙突は家からら住み手にひそむそのような生物的な要求を隔離、かつ確保する場所となった。そのような意味で炉端から煙道、そして煙突は、他者を消化し自分のものとする家の内臓なのである❖11。(傍点筆者加筆)

 この経路はトイレにもキッチンにも当てはまる。どれも入口と配管と出口がある。ただし、近代建築はこの〈不気味な〉臓物を、入口を残してできる限り隠蔽してきた。一方で、かつての日本の古民家は厠が母屋から分離され、穢れた場として、死に近い場として存在していた。そこでは入口と経路と出口は容易に把握できた。近代社会は、公衆衛生という背景のもと、そういった〈不気味さ〉を漂白する代わりに、「生」の、その文字通りの

生々しさを忘却してきた

と捉えることができる。「不気味なもの」であると認識することで、逆説的に当たり前の、親しいものと化していた内臓たちは、〈不気味さ〉の埒外に追いやられてしまった。「人間」には美しさもあれば醜さもある。「生」と「死」の狭間で揺れ動いている両義的な存在だ。しかしながら、その一側面だけを誇張することで、本質的に相矛盾する存在としての「人間」を捨象し、

あまりにも潔癖症になってしまった。

〈不気味さ〉を感じるには、普段は隠されている馴染みのあるものに触れなければならない。それは抑圧された感情の蠢きであり、死への恐怖であり、機械的なぎこちなさであり、「生」のおぞましさである。それは本来、私たちが深層心理で触れることを欲望しながら、それでもなお手の届かないものたちである。それらに善悪を求めるのではない。むしろ善悪の狭間を綱渡りする認識に触れた瞬間に出現するものこそ〈不気味さ〉なのである。
 あくまで「不気味な家」も人形たちも〈不気味さ〉を体感するための媒介でしかない。その背後には「親しげな他者」が潜んでいる。この「親しげな他者」は、自己に相似的でありながら自己の外側にある、手繰り寄せることの困難な、最も身近な隣人である。それは自己に内在することもあれば、外在的なものでもあり得る。



 ここで冒頭のステートメントを呼び起そう。”現代建築家は、〈不気味さ〉を懐抱することで「生」を解放する”。良きにつけ悪しきにつけ、〈不気味さ〉は

「生命」と非常に近ししいもの

である。ここで言う「生命」とは、、生きとし生ける事物の、その剥き出しの「生」の鮮やかさ、生々しさを意味する。むしろ不気味でないものは生命から遠ざかっていく。だからこそ、〈不気味さ〉には人々を惹きつける可能性がある❖12。なぜなら、それは私たちが欲望しつつも手の届かない、憧憬の的だからである。
 〈不気味さ〉に触れた時、私たちの「準拠枠」は揺さぶられる。自己にとって異文化なもの、非常識なものは理解を拒む「不気味なもの」であり、それらに出会った時、私たちの経験の自明性は根底から崩れ落ちる。哲学者の野家啓一が言うように、「その不気味なものを理解可能なものとして構成するとき、その過程はどんなにわずかではあれ自己のパースペクティヴの変容をもたらさずにはおかない❖13」。〈不気味さ〉から目を逸らさず把握しようとすれば、すべからく「親しげな他者」の、その他者性への思慮を免れられない。この変容の過程で生じる他者への理解にこそ、〈不気味さ〉の価値があるのではないだろうか。〈不気味さ〉を抱いた時点では、自己の中でそれはまだ言語化できていないものである。という点において、「不気味なもの」とは「『言語以前』のもの、『無名』の何かである。ことばによって『投錨』されていない、つまり言語で規定されていないこのわけのわからないものは、『不気味なもの』としかいいようがない❖14」のである。
 したがって〈不気味さ〉は、自己が見知っている「準拠枠」を破壊し得るような、親しくも暴力的な他者に対する、防衛本能にも似た感情なのだろう。〈不気味さ〉を抱いたとき、自己は瓦解の危機に曝されている。だからこそ。〈現代建築家〉は

〈不気味さ〉を抱擁しなければならない。

抱きしめたその先には、それはすでに不気味なものではなく、当たり前の、気味の良いものになっているはずだ。それはまた、〈可塑性〉を享受することをも意味する❖15。自己の理解を超えた他者を理解しようと試みること。その意味の分からなさを言語化することに挑戦すること。自己の内部において〈不気味さ〉を気味良さに落とし込むことが、「生」の複数性を理解する手助けとなる。
 私たちの周囲にはどれだけの「生」があるのか、どのような「生」があるのか、まだ見過ごされてしまっている「生」はあるのか。〈不気味さ〉を通して「生」を指向することは、他者を理解し、自己の位置づけを把握することにつながる。〈不気味さ〉こそ、

自己を相対化する「鏡」

である。そこに映るのは、自己に似た、しかしながら自己とは異なる不安な存在。それが見えてしまったということは、それをどこかに置いてきてしまったのかもしれない。それをまだ見たことが無かったのかもしれない。それから目を背けてきたのかもしれない。その先に、〈現代建築家〉は立たなければならない。
 そのためには、自己へ他者を内在化する必要がある。文化人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロは、南米における「カニバリズム(食人)」を「他者の視点から自らを捉え、自己を他者としてつくりあげるための営為」として描きだした❖16。「食う-食われる」という、この原始的な他者との関係性においてこそ、人間性は引き出される❖17。その生々しさを享受することによってしか、〈不気味さ〉を飲み込むことはできない。この文化人類学的な視点は、「生/ゾーエー」の中の〈人類〉というパースペクティヴの中に、自己の領域をどこまで拡張しうるか❖18という生命界の議論に留まらず、「人間–機械」の間の視点もまた可能にする。それはアンドロイドのそれを想起すれば容易であろう。どこからが機械でどこからが人間なのか、その線引きは曖昧になりつつある。例えば、人工生命×アンドロイド「オルタ」が人間のオーケストラを指揮するアンドロイド・オペラ「Scary Beauty」は、周到にプログラミングされた機械の動作に人間が合わせることを繰り返す中で、まるで同調したような感覚を得ることを可能にしている。「オルタ」の開発に関わる人工生命研究者の池上高志は言う。

 僕は、これまで生命に見えるものを作ることからではなく、その背後にある原理を作ることで、生命感が立ち上がるのだと考えてやってきました。背後にあるものや、システムの志向性にこそ「生命らしさ」というものが生まれるのであって、だから必ずしも人や生物に似ていなくてもいい。こうした生命システムへのアプローチを「人工生命」(Artificial Life:ALIFE=エーライフ)と言います❖19。


 人間が「生命らしさ」を感じるかどうかに、機械か生物かという境界線は実は存在しておらず、そこに人間が

「生命」の確からしさ

を認識すれば、それは「生命」として認められるのである。人間、動物、機械。それらを等価に捉え、そこに立ち現れる〈不気味さ〉に向き合うことで、自己の「生」を炙り出すことが可能になる。それが可能となった人間もまた、〈不気味さ〉をもった存在なのかもしれない。
 こういったパースペクティヴの揺れ動きを許容することは、「正しさ」を疑うことであり、「誤り」を積極的に享受することにつながる。哲学者C・S・パースを筆頭に「可謬主義fallibilism」として概念化されたそれは、人間の思考に誤りがあることを容認するものであり、誤謬を肯定するものである❖20。その〈可謬性fallibilityを現代的な問いのキーワードとして提示して、今回は幕を閉じよう。

❖1│ H.ベルクソン/ S.フロイト著、原章二訳『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』平凡社、2016年、p.206
❖2│ 同上、p.218-219
❖3│ 同上、p.243
❖4│ 池上高志+石黒浩著『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』講談社、2016年、p.110
❖5│ ※1に同じ、p.275-350
❖6│ 同上、p.312-313
❖7│ 同上、p.10-203
❖8│ 「準拠枠」とは、物事を考えたり判断したりする時に基準となる枠組みである。
❖9│ アンソニー・ヴィドラー著、大島哲蔵・道家洋訳『不気味な建築』鹿島出版会、1998年、p.12
❖10│ 現代建築家宣言:第二回 〈弱き者〉の〈不安定性〉、あるいは〈可塑性〉の享受『建築ジャーナル』2019年6月号を参照
❖11│ 中谷礼仁著『未来のコミューン―家、家族、共存のかたち』インスクリプト、2019年、p.76-78
❖12│ ※4に同じ、p.110
❖13│ 野家啓一著『はざまの哲学』青土社、2018年、p.175
❖14│ 宇波彰著『力としての現代思想 増補新版―崇高から不気味なものへ』論創社、2007年、p.136
❖15│ ※10に同じ
❖16│ 久保明教著『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』講談社選書メチエ、2018年、p.5
❖17│ エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ著、檜垣立哉+山崎五郎訳『食人の形而上学 ポスト構造主義的人類学への道』洛北出版、2015年、p.350
❖18│ 現代建築家宣言:第三回 人類、崇高さ、死―表象不可能性の先へ投擲せよ―『建築ジャーナル』2019年9月号を参照
❖19│ ※4に同じ、p.92-93
❖20│ ※14に同じ、p.12-13

挿絵#4

                   「接触、応答あるいは内省」 絵・若林拓哉

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*次回第5回は『建築ジャーナル』2020年3月号に掲載予定です

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