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09.Paranoid Android

「待っていましたよ、他の社員は逃げ出すか焼け死んでしまったし、休日出勤までしているのだから仕事が山積みで、帰るわけにもいかないですからね。まずは。消化器を用意して頂けますか」

『田辺茂一』は煙で充満する階段を登って総務部のある3階まで辿り着き、爆発の影響で半壊状態のまま燃え続けている部屋の奥のデスクで透明な耐火シールドで囲まれた空間に陣取る総務部データ管理課課長”伊藤博文"の姿を発見し、安堵の溜息を漏らす。

バーコード状に流れる黒い髪の毛を七三分けにして、しわくちゃのハンカチで汗を拭いながら、『田辺茂一』は、伊藤が自分のデスクで、パソコンで何か操作しているのを見つけて、近付こうとするがあたりは爆破によってあちらこちらから火の手があがり、容易に近付けず、手に負えそうにない。

果たして、課長の言う通り、消化器を使ってあたり一面の炎を食わせれば片がつくのか、もはやそういう問題ではない気がするが、しかし、こんなにもたもたとしていたら、また課長にどやされるに違いないと、決意して、新調したばかりの防疫局職員に支給される特殊繊維スーツ"ビジネスマン"を頭からかぶり、なんとか奥のデスクまで歩み寄ろうとする。

「止まりたまえ。もう少しで、改造医療実験体に関する我々が集積したデータはこのUSBに全て移し終わる。消化器を、と言いはしたが、耐火シールドもこれ以上は持たないだろうから、近付く必要はない。なに、心配するな、これも仕事のうちだ」

と伊藤が話し終えるのを待ち構えていたかのように防疫局総務部データ管理課内に蔓延している炎の勢いが増し、ますます室内の温度があがる。

"ビジネスマン"越しにですら、熱波が伝わってきて、田辺の髪の毛はべっとり額に貼りつき、滝のような汗で目がまともに開けていられない。

けれど、この程度の暑さでめげていてはとても定時で帰ることなんて出来るわけがない。

私は一体何のために働いているのか今一度思い返しながら、一歩一歩脚を進める。

「よし。これで全てのデータはこのUSBの中に移し替えることが出来ましたよ。これを執務室の連中に渡せば、あなたの配属はきちんと保証されるはずです。私の仕事は今日はこれで終わり。田辺くん、後のことは任せましたよ」

伊藤は、データの移し終わったUSBを田辺に投げ渡し、彼は青いUSBを右手で咄嗟にキャッチすると、そのとたんに飛び込んできた火の粉で彼の黒い髪の毛の毛先がちりちりと燃えてしまう。

毛先の燃えた匂いと彼の心の切れ端が少しだけ削られてしまったことに一瞬だけ動揺していると、熱で熱せられた左から二番目のガラスが吹き飛び、バックドラフト効果で勢いが増した炎が爆発的に拡がり、同時にそれ以上耐えきれなくなると消滅した耐火シールドの中にいる伊藤博文の席が完全に炎で包み込まれる。

『田辺茂一』は目の前を焔で遮られ、危うく"ビジネスマン"を着用したまま呑み込まれそうな炎の目の前でちりちりと毛先が燃えてしまっている黒い髪の毛を気にしながら思わず大声で叫び出す。

「かちょおー」

何か大きな爆発音が高島屋の向こう側で聴こえてきて、一瞬身が竦むまだ身長150cmほどの小さな男の子は肩の上に乗せたコミミズクの形を模した自律思考型AI、通称"キリコ"と話しながら.新宿南口サザンテラスfranfran近くの階段を歩いている。

「爆発。やはり思い通りにはいかないね。だから、君は難しく考えすぎてしまうぼくを戒めてくれるのかな。いつも甘えてばかりだよね、本当に自分が自分で嫌になる。カヲルはきっとぼくのことをあまりよく思っていないんだろうね。どう思うかな、キリコ」

そんな自己嫌悪を露わにしながらとぼとぼと歩いている。

我儘で自己中心的で、他人など顧みることすらわからない十二歳の男の子にとって、キリコは心を打ち明けることのできる貴重な友人の一人で、ましてや、内向的で閉鎖的な精神構造をもつ彼には、キリコの冷徹で冷静な思考はなくてはならないもののようだ。

くるくると首を回転させ、抽象的な言語を解析しながら、彼に適切で速やかな解答を与える。

「総帥は君に新しい世界をプレゼントしたいと考えていただけで、余剰次元の使者の連中が歯車を乱しているだけに過ぎないよ。顔と形と名前の違う君の父親にほだされてしまう理由があるとしたら、塩基配列に記された遺伝的欠陥はほとんど彼が保有している、その程度の取るに足らない話ではないかな、ユークリッド空間について君の理解が未だにぼくの足元にも及ばない、つまりは、そういう単純な理屈さ」

抽象的概念を理解する梟型思考補助AI、"キリコ"は、余剰次元からの四番目の使者、"高橋信一"の協力のもと、異次元摂理開発機構"ルナハイム社"で開発された。

"キリコ"は、今のところ、彼、東條渚、にだけ与えられた専用演算装置で、故にこそ、ナギサにとっていつも最適な解を与えてくれるようだ。

不安の中に埋没していくことが彼の処世術だとしたら、キリコの数学的思考は日々の生活の中に混入している単純なアルゴリズム解析ですら、共に生きていくための大切なパートナーとして、必要な存在になっているのだろう。

「例えばね、今、街路樹として植えられているメタセコイアの目の前で、左腕を切り落とされた拡張型改造医療実験体試験番号0004"溥"と科学技術特援隊所属"三島沙耶"、通称"愛と平和の絶対正義 ホワイトライオット"が向かい合って一般の人々が取り囲んでいる様子は、おじいちゃんたちが用意したスペクタクルステージでアクセス権を保有したものだけに許されていたある種特権的階級の遊戯であったけれど、いつもと同じどこにでもいるぼくらが日常の中に埋もれてしまわないようにする為の、必要な儀式と"彼ら"に判断されて、つい3日ほど前から、開放された特別チャンネルだ。けれど、スマートフォンをかざして記憶の一部を改竄して奪う連中の憤りは特権階級の自堕落さとどの程度の違いがあるのだろうね」

小学生の身なりにも関わらず、なんだか酷く難解な言葉を使うのはキリコの影響であろうか、彼が孤独であることに何か関連があるかどうかは分からないけれど、難解さと単純さの差異に関係性の問題を含有していることを、彼が未熟さ故に、未だ知り得ていないということに似ているのかもしれない。

痛みを伴わない無機質な外部演算装置との関係が彼にどんな変化をもたらすのか、そんなある種残酷とも言える実験に、東條という名前の重みが染み付いているのはきっと気のせいではないだろう。

左腕を切り落とされて、大量の出血で昏倒しそうな拡張型改造医療実験体004"溥"がカーゴパンツの右ポケットから、紫とピンクのカプセルを取り出して、口の中へと放り込む。

「あほかよ。せっかくの日曜日の人通りが多い場所を選んで、しかもご丁寧に今日は"ヒトキリイゾウ"はお休みの日と来た。危うくこんな場所でお前みたいな野郎に、命を奪われるところだったぜ。なぁ、"ホワイトライオット"、お前みたいな野郎でも、俺、相手だとこんな卑怯な手を使ってでも殺したくなるってことか」

飲んだ薬が体内に急速で行き渡ったのか。

八パーセントまでは届くことなく止血され、さらにもう一錠追加したカプセルを飲み込むことで、拡張機能型改造医療実験体試験番号零零肆、"溥"にみるみるうちに血の気が取り戻されていく。

"ホワイトライオット"と呼ばれた小柄の女、サヤは猛攻しようとする手を緩めて、一歩下がり、右手に持ったビームサーベル状の武器の柄にあるピンクのボタンを押して光を帯びた鞭状の武器へと変化させ、地面を叩き、バチンっと大きな音を立てて、周りを囲んでいるスペクタトゥールの輪を一回り大きく拡げる。

すると、"溥"は、今度はジーンズの右後ろのポケットからピルケースを取り出して、色とりどりのカプセルの中から紫とピンクのカプセルを選んで、また一つ呑み込むと、左腕の切断面がみるみるうちに皮膚で覆われて球体状に変化し、傷口が覆われてしまう。

確かあのカプセルカートリッジは改造医療実験体の中でも特別に選ばれた個体にのみ配給される薬剤のはずで、かなり高度な医療技術が施されていますね、とキリコがネットワークを介した専用データベースを参照にして伝達してくれる。

おじいちゃんは、ぼくに沢山の知識と知恵を授けてくれたけれど、結局のところ何もわからないことに何かを得るたびに思い知らされてしまう。

キリコがそばにいてくれなければ、相変わらずぼくは何も知らないただの小さな存在でしかないだろう。

そんなことをぼんやりと思い浮かべていると、サヤは、一瞬だけ気を緩め、開閉式の彼女の口元のマスクが開き、ピンク色の小さな唇が見えて話し出す。

「私には使命があります。あなたがどれほど"虚偽性症候群患者"の処罰数が改造医療実験体中、最多を誇る実験体だったとしても、私が必ず"アンリミテッドカートリッジ"を持ち帰らなければならない、その為ならば、どんな犠牲も厭わないつもりです」

サヤは、鞭を頭上で回転させると、光輝く曲線から無数の閃光が飛び出していき、スペクタクルステージの最前列でスマートフォンを翳していたスペクタトゥールを次々に包み込んでいく。

途端に彼らは正常な意識と思考を剥離させられ、眼球から光が奪われる。

そうして、もう一度、白い閃光のように鞭を振り回すと、今度は光の嵐が降り注ぎ、意識と思考を奪われたものたちの瞳に新しい怪しげな光が灯り出す。

「おいおい。アセチルコリン濃度の制御まで出来るのか。そいつは俺の専売特許だぞ。しかも、強引にスペクタトゥールから意識と思考を剥奪して統制するなんて、完全なルール違反だ。TV SF側だってこれじゃあ黙っていないだろうに。本当に後先考えていないんだな、"愛と平和の絶対正義 ホワイトライオット"の名を捨てるつもりか」

身体の自由を奪われ、先程まで、日常の中で、埋没した安寧を貪っていただけのスペクタトゥールがサヤの意志によって完全に制御される兵隊へと変化する。

死者と生者の垣根は彼女の鞭によって分断されてしまったようだと、危うく非日常の中へと巻き込まれることを免れても、なお、ステージを見つめている白髪の老人がそう呟く。

「私にとって、正義とは私の願望を獲得するための手段に過ぎません。それ以外の障害など唾棄すべき肉塊。目的を達しないこと以上の悪行がこの世界に存在するのですか?」

最前列が彼女のいとも容易く統制下におかれてしまってもなお、その場で起こることの全てを記録しようとする連中が騒ぐ気力すら奪う"ホワイトライオット"の一言に、"博"の死を願う殺意が充満してサザンテラス周辺から、言葉と笑顔が一瞬にして喪失する。

「あはは。言ってくれるね、そういう意味では進化と欲望に取り憑かれた俺たちとなんら変わりはないな、お前の正義は馬鹿どもの宣う甘い誘惑とは違うってわけだな」

渚は、二人の鬩ぎ合いを真摯に見つめるもう一人の姿に気付く。

バーコード頭で七三分けのサラリーマンが両手でキーボードを打つような動作をし続けている。

まるで、なにかの計算をしているようにして、高速で指が動いている。

よくみると、首の右後ろに、青いUSBが差し込まれていて、これは執務室側の非戦闘バイオノイドに見られる特徴だね、とキリコが耳元でこっそりと囁く。

彼はきっとこの戦いの一部始終を記録して、執務室にデータを届けるつもりじゃないかな。

全身のほとんどが義体化されている可能性があるよと、人の言葉に限りなく近い機械音声が渚とコミュニケーションを取ろうとする。

「あれがどこの管轄であるかはわかるかい? それによっておじいちゃんの企みを辿っていけるかもしれない。ぼくの推測が正しければ、外宇宙探査を断念して、地球へ還ろうとしているんじゃないかな。亜光速飛行を続けていけば、確かにぼくらは約束の地に辿り着くことができるはずだけれど、おじいちゃんはそのことに強い疑念を抱いていた。キノクニヤの面々はもはや進化の限界点に達しつつあるのだしね。試験番号零零伍弐はいったい未来で何をみてきたのだろう」

"溥"はピルケースから三つほど取り出し、呑み込むと上腕背面部から、新たに左右四本ずつ生えてきて、身体は鉛色へと変化し、彼の変化を象徴するように、額から一本の角が飛び出てくる。

サヤは鞭をしならせスペクタトゥールの意識を統制し、"博"に、鞭のしなる音によってスペクタトゥールに難解さを除去した殺意を浴びせようとする。

鞭は手元の操作で再び形を変えて、拳銃のようなものへと変化して、ばちばちと銃口の先で電荷の高い光が唸りだす。

「レールガンを確認。送信。零零肆の"カートリッジ残り残弾数、二。実験体零零肆の勝率を演算。三十三・三%。送信。データを保存。TV SF及び執務室からの応答を待ちます」

バイオノイドと化している中年サラリーマンが義体化された眼球で、目の前のスペクタクルを記録し、解析している様子を確認すると、キリコの頭がぐるりと回転する。

「あれは、防疫局総務部データ管理課"『田辺茂一』"だね、確か"キノクニヤ"の監察官も兼業しているはずだよ。彼の直属の上司は"伊藤博文"、非戦闘バイオノイドとしては最古参に属するいわゆる七衛の一人だね」

キリコは、不可解な出来事と不明瞭な現実と非合理なシステムを高速で演算し処理しながら、ぐるぐると頭を回転させている。

まるで、キリコのその動きとシンクロするようにしながら、渚は思慮深く目の前で起きていることを冷静に対処しようとする。

「そうだとすると、あのUSBはデータ管理課の研究記録が保存されていると考えるべきだろうか。確かにあれほど重要なデータはいくら高度な暗号処理を施された量子通信でも安心して送信はできないか、あんな前時代の遺物がこんなところで役に立つとはね」

"溥"は、拡張された四本の腕で、一つ一つ丁寧にスペクタトゥールを捕まえて、サヤが引き起こした光の嵐によって、強引に唐突に、彼らの脳髄或いは心肺機能に埋め込まれてしまったアセチルコリン受容体を除去しようとする。

一人はゆっくりと頭蓋の中に思念体と化した右腕を差し込まれ、脳髄に付着している気色の悪い幼生体を引き剥がされる。

一人は左胸を透明な鋭い爪で引き裂かれ、心臓周辺で蠢いて心拍機能を操作している幼生体を取り除かれていく。

一人ずつ処理されると彼らの興奮状態にあった脳機能は不活性化されていつのまにか戦意を消失してしまっている。

けれど、"溥"の行動の隙間を掻い潜って、サヤはレールガンで適切に照準を合わせて、"溥'が経口摂取した緑と黒のカプセル"joga"によって拡張された四本の腕を確実に削除していく、彼の背中からは肉と骨ごと抹消された上腕二頭筋だけの腕が三本残っていて、まるで死者の溜息を待つようにして、筋繊維が別の生き物のようにして蠢いている。

「確か、執務室の人々は、一般企業に機能の一部を紛れ込ませることで、運営機能を分散させているのだったよね。データ管理課がこの周辺の企業にあるとはぼくも把握していなかったよ、迂闊だった。ねえ、キリコ、この場合、ぼくはルール違反を犯した"コンビニエンスストア"側と、敵対する必要性があると考えるけど、特例措置第三条"サイノカワラ"の発動は認められるかな」

大きな衝突音が新宿駅南口方面から聞こえ、ルミネあたりから煙があがっている。おそらく、開戦の狼煙が他の場所でもあがり始めたのだろう。

「もちろん、執務室から接収したばかりの改造医療実験体圧縮カートリッジ試験番号零零"サイノカワラ"の発動条件は満たしているよ。それに、明らかに彼は素体"クスサン"のようだ。適合率も問題ない、発動の際の肉体と精神に対する想像を絶する過負荷にも耐えられるだろう」

"溥"が四本目の拡張された腕を削除され、肉体硬化カートリッジ"no value"によって変化した鉛色の身体が元の人間らしい肌色に戻っていくのと同時に、キリコの頭がぐるりと一回転して嘴から真っ赤なカプセルが吐き出されて、渚はそれを右の手の平で受け取る。

「それじゃあ、特例措置第3条"サイノカワラ"を発行しよう。キリコ、人払いの結界をよろしくお願い出来るかな。ぼくは手続きに則って、開眼の儀を始めるよ。ルールブックをこちらへ」

渚が、一言だけ儀礼的な言葉を発すると、左手に、聖書ほどのサイズの本が現れて、同時に渚の額に割れ目が生じ、ゆっくりと少しずつ深い暗闇の底での眠りから覚めるようにして、割れ目が開いていき、中から青い瞳が現れる。

キリコは、大きな声で”トゥウィ(ト)ウー”と鳴き始めると、スペクタトゥールたちは甲高く強烈な音響に耳を塞ぎ動きを止められてしまう。

そうやって、彼らが耳と目を塞ぎ、何も見えないまま、何も聞こえないままの状態に入るとあたりは暗い帳へと反転して、存在する全ての事象が黒く塗りつぶされてすっぽりと包まれる。漆黒にのみ込まれた空間には、渚、溥、沙耶の三人だけが置き去りにされてスペクタトゥールたちは反転した世界から形象と質料を掻き消されてしまった。

「優性人種保護法に乗っ取り、特例措置第三条の発行が確認されました。改造医療実験体開発室”キノクニヤ"所属試験番号零零肆"山内溥"には、圧縮カートリッジ"サイノカワラ"の経口摂取が認められます。貴方が保有している固有の時間と空間を捨て去ることを承諾出来ますか?拒否権の行使は死と等価になります」

渚は機械的で冷徹だけれど的確な発声でルールブックを読み上げると、特例措置の発行に溥と沙耶の二人は少しだけ戸惑い逡巡する。

その僅かな迷いを打ち消すようにして、沙耶はレールガンを発動させて溥を打ち抜こうとするけれど、電磁気は発生する前に渚の三つ目の瞳の不思議な力に呑み込まれて、消えてしまう。

溥はその様子をみて軽く頷き、

「了解した。この心と身体を改造医療の発展と繁栄に捧げる。」

渚は彼の承諾を確認すると、溥に近づいていき、博に真っ赤なカプセルを手渡す。

溥は、迷わずそのカプセルを飲み込んでしまうと、彼の身体中に強烈で逃れようもない激痛が走り回る。

心臓、肺、消化器、脾臓、膵臓、腎臓、頭蓋、脳髄、脊髄、神経繊維、骨組織、その全ての隅々にまで、本当に丁寧に親切に何もかも受け入れ難く何もかも感じることの出来ないほどに、激痛は行き渡り、同時に、脳内には、今まで辿ってきた道のりと今まで巡ってきた逡巡が吐き気すら忘れてしまうほどに、涙の一つすら忘れてしまうほどに、過去と現在と未来の希望と夢と絶望と後悔が走馬灯としてぐるぐると巡ってきて、まるでそれは激痛とは違う過度の快楽にも似た苦痛を装って溥を包み込んで、身動き一つ取れないままに蹲らせ、右手で顔を抑えながら低く鈍く蠢くように、彼は叫び出す。

「うがぁぁぁぁ、がぎぎぎぎぃぃぃ、ぐげげげぇぇぇ、がああぁぁぁぁぁ!!」

言葉にならない呻き声をなんとか絞り出すと痛みの全てを塗り替えるように、身体中の細胞が改造医療実験体のために開発された特殊多能性細胞へと切り替えられていく。

まるで地獄の鬼が具現化したような姿へと彼の姿が急激に変容していくと、意識の全ては冷徹な狂気へと切り替わって溥から人間性が失われていく。

赤黒い血管が浮きでて硬く強張った皮膚で彼の身体が埋め尽くされてしまうと、まるで亀裂が入るように顔の左半分ほどが黒く変色し、同時に、鋭く攻撃的な光が彼の瞳に宿る。

五メートルほど先でレールガンを構えた沙耶を溥の眼光が捉えると、彼女が反応するよりも早く"サイノカワラ"は、一瞬で彼女の巨複眼を模した構造によって視覚領域の大幅の拡張が見られる外骨格の頭部を黒く尖った爪の生えた右手で捕まえると、そのまま白とオレンジで配色された強化外骨格を着装した身体ごと黒い見えない壁へ叩きつけ、暗闇の壁と右手で押しつぶすようにして左側へと引きずっていく。

溥が頭部から手を離すと彼女はその場にずるりと倒れこむ。

溥はまだ身体中の全神経に例えようもない激痛が走り、その場に蹲ってしまう。

まだ身体の制御が効かないようだ。

青い三つ目の瞳で二人を見届けている渚の左後方の暗闇に、黒く区切られた扉のようなものが現れて、ゆっくりその扉が開いていくと、七三分けのサラリーマン姿の"田辺"が現れて、漆黒の空間の内部に、侵入してくる。

「虚数空間とは恐れ入りました。世界そのものを想像数の支配する領域に反転させたのですね。解析するまでに少し時間がかかりましたが、ディラックの海であれば、確かに介入者を廃絶して実験体の試験運用を思う存分試すことが出来ますね」

空間内部の誰に話すでもなく、まるで誰かと交信するようにして、田辺はひっそりと独り言のようにつぶやく。

相変わらず、高速でなにかを演算しながら、両手の指先がとても複雑な交響曲を演奏するようにうねり続けている。

溥は獣のような唸り声をあげながら、ゆっくりと立ちあがり沙耶を片手で拾いあげ、頭上高くあげるも、そのまま地面に叩きつけようとするけれど、沙耶は咄嗟の判断で溥の胸を蹴りつけて、無理矢理右手の呪縛からなんとかぬけだして、身体を反転させて、地面に着地する。

溥の猛攻に意識を失いそうになりながら、沙耶は右腕につけたデジタル時計のような機構の中心部を押すと、画面が赤く変色し、反転して黒く塗りつぶされていた人工太陽に光が灯り、あたりが明るく照らし出される。

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ディラックの海全体が大きく歪み揺れ始めると色と記号に溢れた現実世界と混ざり合いながら少しずつ実数によって制御され支配された世界へと変化していく。帯域を支配的に統合している周波数がマイクロ波によって制御された波長へと変化していく。

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まるで、何事もなかったかのように、新宿南口エスカレーター下に、黒染めのNX-Rが止まり、その豪快なエンジン音に一瞬だけ、一般の人々が振り向く。

黒いライダースーツを地肌にきてフルフェイスのヘルメットを被っているシオリとヘッドホンをつけたミオは周囲を確認するけれど、日曜日のエスカレーター下は人通りが多いだけで特段変わった様子はなく、高島屋方面には、消防車が何台も向かっていて、窮屈そうに煙のあがっているビルの方へ集まりだしている。

「とりあえず予定通り、データ管理課のサーバー自体を強襲した爆破は成功。彼女たちのおかげだな。サーバー自体は破壊出来たはずだから、”キノクニヤ”の1番厄介な意識の非音声化通信によるデータ共有だけは避けられたと思う。問題は、サヤとの合流地点がこの辺りの座標のはずなのに、彼女が見当たらないってことぐらいかな。もちろん、ミオちゃんは天才様だから、そのぐらいの対処はちゃんとしてきてあるけどさ」

黒縁のメガネをククッと、あげる動作をするとミオは白衣のポケットからスマートフォンを立ち上げて、IMというロゴのアプリを立ち上げる。

「無駄口はえーから、さっさとせーへんと、この調子やと、例のレアモンスターの発動が発行されとるはずや。いそがんと、いくらサヤかてそー長くは持ち堪えられへんよ。ルールブックが来とるんは間違いないんやろ?」

軽くエンジン音を吹かして、シオリは焦る気持ちを落ち着かせるようにして、ミオのほうに顔を向ける。

「執務室を乗っ取るためには、まずはルール改変から!は総帥の口癖だからね、そのために派手にデータ管理課に目星をつけて爆破して、改造医療実験体の同時襲撃を実行したわけだし、確実に彼が動いているのは間違いないよ!それにこんな芸当が出来るのも零零伍参を保有してるのも彼以外は考えられないしね。思考補助AIはともかく、今後の為にも、サードアイだけはなんとか眠りにつかせておきたいところだよね」

真っ黒な画面に、七芒星とIMと書かれたロゴを押すと、液晶が赤い色へと反転する。日曜日の新宿駅を照らす人工太陽に少しずつ翳りが入り込んでいく。

すると、エスカレーター下の中央に位置する銀杏のあたりの空間に奇妙な亀裂が入り込む。

「あはは。やっぱりだ。次元の亀裂を座標35.6893 139.7025に発見! シオリたん! 全速であの樹に突っ込んじゃって!位相転位アプリ"imagenary numbers"起動!」

シオリはぐるりと時計回りに九十度バイクを回転させると、思い切りエンジンを空吹かしさせると、エンジン音に怯んだ一般の人々が立ち止まり、バイクの進行方向に真っ直ぐな道が出来る。

ミュージックスタート! とミオが叫ぶと、ヘッドフォンから、"※3あらかじめ決められた恋人たち void”が流れ出し、ドラムビートに合わせるようにして、シオリはアクセルを全開にして、新宿エスカレーター下にある小さな銀杏の街路樹へ向けてNX--Rを発進させると、中心にある銀杏のあたりに高速で演算されている数列と配列が出現し、断裂した空間に吸い込まれるようにして、黒いNX-Rは実数世界から形象と質料ごと消えてしまう。

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再び漆黒で塗り替えられた虚数空間に黒いNX-Rが走り込んでくる。溥の猛攻をギリギリでかわし続けていたのか、沙耶の特殊スーツは既にぼろぼろで傷だらけのまま息を切らせて立っているのがやっとなのか足元すらおぼつかない。

「へー。汚れんのが嫌なお前らしゅーなく、めっちゃぼろぼろやんけ、沙耶。よー頑張ったな、あとはうちに任せとき、ウチがみんなぶっ飛ばしちゃる。理屈と建前ばかり偉そうに捏ねくり回しとる連中ごと吹き飛ばしたるわ!」

そんなシオリの一言に力尽きてしまったのか沙耶はその場で前のめりになって倒れこみそうになり、シオリはさっとバイクから飛び降りて沙耶を支えて、そのまま仰向けに沙耶を寝かせて、深愛に解放を頼むと、フルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てる。

シオリの肩までの綺麗な少し茶色い綺麗な髪がなびくように現れ、端整でとても美しい彼女の顔があらわになると、ライダースーツのジップアップを胸のあたりまで降ろし、彼女の健康的な肌と胸の谷間が少しだけ垣間見える。

「ジャマモノハノコラズハイジョスル。」

完全に意識と思考と身体を"サイノカワラ"に乗っ取られた溥が低く呻くような声で呟く。

「ねえ、キリコ。ぼくの虚数空間に無理矢理侵入してくるやつらなんて初めてみたよ。こんなことがあるなんてぼくはまだまだ勉強不足だ。ルールブックに書かれていない事象の介入はおじいちゃんの仕業かな。事象の地平線を飛び越える技術まであの顔と名前の違う"お父さん"はこの宇宙に持ち込んでいるのだね」

渚の三つ目の瞳がぎょろりとあたりを見回すと、一瞬だけ空間そのものが揺らぎあたりが奇妙な歪みを発生させてゆらゆらとうごめく波に巻き込まれる。

キリコの首はぐるりと一回転をして、

「シャンバラへの道が開き始めたってことだよ。余剰次元の使者たちはこの宇宙ごと彼らのいた宇宙と融合させる気でいるのかもしれない。履き違えた靴を取り替えるみたいにしてさ。君の言う通りルールブックではなく、グリモワールが必要になりそうだね。おそらく三つ目は眠りを享受することになりそうだ、死が到来するのを待つことにしよう」

三つ目の瞳が怪しげな光を出して、周囲の空間を強引に圧縮させるような力場を発生させようとする動きを観測すると、深愛は手に持っていたスマートフォンアプリで立方体の敷き詰められたパズルを解いて、ゆっくりとαとΩを連結させる。

「ごめんね!ルールブックさん! しばらくの間、サードアイには眠っていてもらうよ、ぼくらは必ず新しい世界を作らなくてはいけないんだ。メビウスの輪の向こう側であなたのお父さんは待っているはずだよ!」

携帯の画面に大きいゴシック体でclear!という文字が出現すると、白く携帯の画面が光り出して、その光と呼応するようにして、渚の三つ目の瞳はゆっくりと閉じ始めてやがて彼の額から青い瞳が消えていくと、空間自体がぐらぐらと捻れるように歪み始める。

溥は涎を垂らし死織に飛びかかる隙を伺って呪詛的な言葉を唸り続けている。

そんな溥の様子を意に介すこともなく、西田死織は大股を開き、重心をゆっくりと下げ、両腕で弧を描くようなポーズを取り始める。

「西田真天流最終奥義!四天崩壊七星烈風拳!」

死織は空間の歪みを強引にねじり切ってしまうような声で叫びながら、溥に向かって光の束で包まれた拳を思い切り繰り出すと、七色の光の束が溥ごと包み込んでしまいながら空間全体に広がっていき、漆黒で覆われていた空間がまるでガラスが割れるようにして砕け散って新宿駅南口エスカレーター下の実数世界に、シオリ、ミオ、サヤ、渚、田辺が戻ってくる。

溥は左腕のない丸裸のままエスカレーター下の銀杏の樹の前で気絶していて、辺りを通りすがる一般の人々が不審そうな目つきで彼のことを眺めながら通り過ぎていく。

「事象の反転現象を確認。保存。プロジェクトの修正案を整備士、開発者に送信。確認。引き続き執務室へのデータ移送任務を遂行します」

田辺が義体化された眼球でことの一部始終を記録して、どこかと通信を取りながら高速で演算をして指先を畝らせるように気色の悪い動作をしていると、シオリ、ミオ、サヤの元に空間転移してきたピンクを基調とした魔法少女姿のジュンが現れる。

「よかった、シオリお姉様。ご無事のようで、何よりです。これでまた、私たちの目的に一つ近付くことが出来ましたね。ノアは相変わらず優しさに溺れているようですが、すぐに私たちのところまで来てくれるはずです。心配事は何一つありませんよ」

気絶していたサヤが目を覚ました様子に、ミオはおおはしゃぎして喜びながら、バイクに跨いだシオリの後ろにサヤを乗せると、

「これでぼくのお仕事は今日はこれで完了! 相変わらず見事過ぎて我ながら惚れ惚れしちゃうなー。ミオちゃんの組んだプログラムは、いつだって一分の隙もないぐらいに完璧なのだよー。シオリたん!ぼくはちょぉーと、レコード漁りでもしてくるからあとはよろしくねっ!」

そう言い残すとミオはそのまますたすたと歩いて雑踏の中に消えていってしまった。ジュンはそれではご機嫌よう、お姉様と言い残すと、一瞬でその場から空間転移し、姿を消す。シオリはぐったりとしたサヤを後部座席に乗せて、黒いNX-Rで明治通りを渋谷方面へと走らせてあっという間に見えなくなってしまった。

「なるほど。あれが科学技術特援部隊”コンビニエンスストア”ですか。課長の言っていた通り美しい娘さんに成長したのですね。彼女の左眼がきっと原因の一つとなっているのは間違いありませんね」

『田辺茂一』はべたべたになった黒い髪の毛がべっとりと張り付いた汗をくしゃくしゃになった左手のハンカチで拭いながら、右腕の腕時計を確認すると、いけない!

もうこんな時間だ!

急がないと次の勤務先でもまた窓際だよ!

と誰にいうでもなく独り言をつぶやくと新宿駅南口へと続く上りエスカレーターを駆け上がって改札口のほうへ走り去っていったようだ。

本当に何事もなかったかのように日曜日の新宿駅はたくさんの人々でごった返していて、左腕を切り落とされたまま全裸で気絶している改造医療実験体零零肆”山内溥”が仰向けのまま違和感を取り除かれることのなくあまりに潔く、よく晴れた日曜日に溶け込んでいる。渚の肩に乗った思考補助梟型AI、夜の鳥、キリコら大きな声でトゥウィ(ト)ウーと鳴くと、大きく白い翼を広げて青空へと飛び立っていく。外宇宙探査船団極東艦隊所属”大和"居住区東京都新宿区の青空にはキリコと重なり合った核融合により生成された人工太陽があたりを明るく暖かく照らしている。

キリコの姿を追いかけるようにして人工太陽がゆっくりと少しずつ大きくなっていきキリコの影すらも光で視界の全てが覆い尽くされる。

そうしてすっかり核融合の強烈なスペクトルで塗りつぶされた視覚は中央に小さな黒点を発見すると黒点が徐々に大きくなっていく。

だから、もし黒目を塗りつぶされてしまったスペクトルで刺激されてしまったとしても何一つ感じることが出来ない彼の目にはそんなものは決して捉えることすら出来ないのだろうと右目を閉じてもなお瞼の裏に張り付いている光の残り香を感じながら、少しずつ失われていく希望のようなものの存在をゆっくりとカメラの中に閉じ込めた。

私は彼に会えば何かを許されるのだろうかと明るく照らされる人工太陽の光がまるで彼と私の現前と不在についての問い掛けを突き刺してくるようだった。

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