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「なんと。やられましたね。黒灯真司の仕業です。時空が歪んだせいかギャグボールが既に発動してしまっている。彼はもしやこの事態を既に予見していたということですか。いや、まさか」
 サメ型のリュックを背負う女が見つめた先の憤怒の扉からふらふらと出てきたのは紺色のブレザーと緑色のチェックのミニスカートに紺色のタイツを履いている女子高生のようだけれど、どうやら彼女は入り時間を間違えてしまったのか顔の表情は随分と大人びている。
「あれれ。こんな時は刹那が助けてくれる手筈が整っているはずなのに。あれれぇ。どうしよう。私、『器』に選ばれちゃったみたい」
 自分の心がねじ曲がっているのかそれとも胃の中に放り込んだ食べ物がいけなかったからなのか時空が捻れてしまった影響で現れた女子高生らしき服装の新たなヒロインの扱いに戸惑いながら、サメ型のリュックを背負う女は顎先に左手を当てて悩んだふりをしている。
「やはり彼女はこの宇宙の人間ではない? それとも時間軸がクロスカウンターを引き起こしている影響でしょうか。答えなんて簡単に出せないけれど、彼女は真剣な気持ちでここにいる。もしかしたら、『マイナスファクター』を持っているんでしょうか」
 けれど、そんな彼女の期待を裏切るように扉の奥から現れたのは天宮蓮花で、すらりと手足の長い彼女はすっかり血で汚れてしまっているのか。偽装処理が行われているにも関わらず堂々と『真紅の器』の贄であることを女子高生のようないで立ちをした子猫ちゃんに忠告する。
「ねぇ、確かあなたは3-βの譲葉世界さんでしょ? どうしてこんなところに突然現れたりするのかな? 私はいつまでも自分のことしか考えない朋也のことなんてキッパリ忘れて貴史と生きるって決めたんだよ。あのさ、譲葉さんは何か勘違いしているんじゃないかな」
 そう。
 どうやら彼女たちは何か思い違いをしてしまったようだ。
 密ノ木貴史は彼女たちの思いをどう受け止めていいのか分からず大天廊下の最も奥に存在している大礼拝堂の入り口あたりから二人の女性の奇妙なやり取りと覗き見ている。
 なんとかして『真紅の器』を奪い取り、革命を起こすのだと心を燃やしている密ノ木貴史にとって確かに伴侶は重要な問題である。
 決して勇気がないのではないし、然るべき当然の判断で結論を下し、有言実行するだけの行動力を持ち合わせているのも密ノ木貴史の特徴ではあるけれど、それでも『真紅の器』の位相転換そのものは彼自身だけのアイデアではない。
 時代の波と呼ばれる不可視の強制力が存在するのであれば、彼自身はもはやその渦中に呑み込まれた歯車の一つであることに疑いはない。
 だが、しかし、彼はエーテルすら持ち合わせておらず、異能力にも恵まれず、流されるままに『S.A.I.』に行き着いた凡百の人であるはずで、だからこそ実効力が彼には与えられている。
 おそらく『白明の審判』の手によるものだろう。
 翻弄されるものたちこそ、足掻き続けるものたちだからこそ、刹那は永遠によって打破される。
 運命を選択し切り開いていくべきか否かを密ノ木貴史は迷いに穿ちけれど途方に暮れ故に固唾を呑んで『器』のもたらす絶対不純性同一化現象と呼ぶしかないものの一端に触れている。
「あれ、そんな貴方は3-αの天宮蓮花さん。美人で有名でいずれはタレントか何かになるものだと思っていたのにあなたこそこんなところで何をしているんですか。多分、『器』になることを求められているのは私。だって今、明らかに時空を跨いでいます。刹那が時計の顔をしたヴィランと闘っている時に偶然」
「はぁ。その様子じゃ密ノ木に近づくものが『真紅の器』になぜ選定されていたのか、わかっていないみたいね。甘い果実をもぎ取って『パンの宿命』を背負うもの。創造主を超える罪をあなたは赦すつもりでいるのではないでしょうね。」
「やはりあのクラスには刹那だけじゃなく『器』が集められていたってこと? それならチャンスがあるのは私の可能性だってあったということか。辻褄を合わせる為に整合性の取れる未来を選び取る愚鈍さは確かにこいつが持っていたものだと思う」
 ポケットの中にしまい込んでいた『マイナスファクター』『醜』の結晶を目の前にひけらかして、譲葉世界は鈍い赤茶色の球体の重みを右手の平でずしりと感じ取る。
「学園全体がそうに決まっているじゃない。七星倫太郎は『パンの宿命』を裏切れるだけのものを探しているの。もし、ブラッドミュージックが真理(しんり)であるのならば、『ガイア』をコントロールしているのは経済的潮流だけではないことになりかねない。権力者たちが恐れを抱いている何か。『真紅の器』は当然ながらその一つよ」
 どうやら蓮花ともう一人の女は言い争いをしているようだ。
 何を話しているのかは大体見当がつく、概ね俺のことを話しているし、あいつらはやはり自分勝手にコントロールできるパートナーを選ぼうとしているに違いない。
 奴らの考えていることは往々にして全くの逆方向に進むばかりで、ナビゲーションとしてはほとんどの場合信用ならない。
 スイーツのことか遊園地程度の話ならまだ納得もいくが、映画館や美術館の話をしながら平気な顔をして音楽を奏でようとする。
 どこでどう間違えたら行き違いと思い上がりを混同したまま俺に指図しようと考えてしまうのかわからないが、それでも俺はやはり男なんだろう。
 どちらか、いや、違うな、おそらくもう心の中で決まっていて頭の中で出した答えの方を大切に守ろうと既に拳を握り締めている。
 だから、俺にとって『真紅の器』とはそういうものだ。
 街の平和を守るだとか社会の為に身を捧げようと言っている訳じゃなく、目の前にある小さなものを壊さないように必死になっているだけだとしたらやはり奴らのいう通り俺は愚かなだけなのかもしれない。
 どこまでも甘く油断と隙が繰り返し鬩ぎ合いながら角砂糖に蟻がたかってくるようにして俺の心が蝕まれていく。
「あんた、馬鹿なんだな。男なんかを信じているってそういう顔をしている。あのさ、私は自由意志っていうのを信じている。ヴィランの連中にやりたくないことをさせられている時だって私は自分でそれを選んでいるってちゃんと分かっているし、迷いなんてのは、大抵バッグの中にしまい込んでた化粧品程度で片がつく。だから正義の味方なんていらないのに」
 あぁ、また世迷言が聞こえてきている。
 悪は存在しているし、絶対無敵のヒーローは必要なんだってことを俺は嫌というほど思い知ってきた。
 子供の時、諦めた夢にいつまでも追いかけられて逃げられないまま時間だけが経つ。
 俺にとって『S.A.I.』はそういう場所だ。
 『オピオニズム』が決意と信念を弛緩させると、あっという間に諦めの言葉だけで脳味噌がいっぱいになる。
 ちょっと待って。
 だとしたら、奴らは希望なのか。
 このどうにもならないほど眩く真っ白な光で埋め尽くされた大聖堂から逃げ出す為に、どこかの誰かが用意したシナリオの一部で俺の目の前にだけ現れた運命の歯車って奴なのか。
 教えてくれと喉の奥から吐き気がこみ上げてきて俺は頭に巻いた滴る血を受け止める聖杯が額に刺繍された真っ黒なバンダナをキツく締め上げて『真紅の器』を率いようと脚を一歩前に踏み出そうとする。
「そうじゃないよ。私だって選んでる。もし、破壊が目的なら此処にいた方がずっといい。私のことだって全部肯定出来るし、否定的なものは握り潰してしまえばそれでいいんだと思う。だけど、貴史を選ぶってことはそうじゃないんだ。私はエーテルがある自分とそんなものを使わなくていい毎日をどこかで選択しなくちゃいけないんだ。だから、私にとっての貴史も彼にとっての私もきっと道具なんかじゃないんだと思うよ。おかしいかな」
 じゃあ私はなんなんだろう、何がしたいんだろうと思わず自分の言った台詞が目の前に現れた勘違い系女子の痛い振る舞い越しに跳ね返ってきてとても嫌な気分になる。
 強気で断言したはずなのにいつまでも胸のつっかえが取れなくて迷っているのかもしれないっていう自分に嘘をついている気がしてスクランブル交差点に行くといつも流れているような明るい気持ちの曲ばかり作る連中と同じ気持ちになっているようで嫌になる。
 だって本当のところを言えば、私はどちらでも良いはずだ。
 幸せなんてものが欲しいわけじゃないのはわかっているけれど、多分曖昧なものに酷く腹を立てているだけなんだって気づきかけてはいるけれど、そういうものには迷わず蓋をして私は背筋をピンと伸ばしている。
 そうだ、紛れもなく私は『真紅の器』なんだ。
 自分の力で奪い取ったものを誰にも受け渡す気なんてさらさらない。
 苦しいのは自分だけって思いあがりが襲ってきて目の前の腑抜けた面をしている自称選ばれし勇者が突いてくる隙のことなんて気にする必要がないんだ。
「沙樹さん。気がつきましたか。これが世にいうラブコメとかいうやつです。モテるかどうか分からない冴えない男子がいつの間にか美女に囲まれて争奪戦の渦中に放り込まれる。いつの世もこういったセオリー通りの定石を若者たちは求めているのですよ」
 サメ型のリュックを背負う女は少しだけ捻くれたことを言ってまだ十歳を迎えたばかりの神原沙樹を困らせる。
 左眼に黒い眼帯をしている神原沙樹は何だか大人びた言い争いをしている天宮蓮花と譲葉世界の向こう側に密ノ木貴史が隠れているのを見つけて笑顔になり、とても素敵な気持ちで胸を膨らませて思わず手を振ってしまう。
「貴史さん! こんなところで何をしているんですか。修行の旅に出掛けると仰っていたので随分と遠くに行ってしまったものだと。しばらく会えないことを覚悟していたので、とてもびっくりしています」
 神原沙樹はサメ型のリュックを背負う女の手を離して思わず走り出しそうになったところで、憎悪によって表情を塗り潰された譲葉世界に睨みつけられたところで立ち止まる。
 いや、正確には身体が硬直して動くことが出来なくなってしまう。
「おい。ガキ。此処はお前の来るところじゃねぇ。『メデューサのエーテル』は私の意志だけで相手の行動を制御出来るが、次こっち側に来ようとするなら息の根を止めてやる。石になって意識を保ったまま永遠に後悔し続ける人生に突き落とされたくなかったらその場から動くなよ。此処には境界線があるんだ」
 譲葉世界の青く深い瞳が光り、黒髪が蛇のように舞い上がって、神原沙樹を威嚇する。
 何か間違った答えを選択した途端に進むべき道が閉ざされて後戻りのすることの出来ない一方通行に引き摺り込まれて何もかもが失われてしまう。
 そういう気配を感じて、神原沙樹は微動だにせずに息を呑む。
 サメ型のリュックを背負う女はとても嬉しそうに笑みを溢して、子供の頃に遊んだ童謡の歌詞を自然と口ずさみ始めると、背負っていたサメ型のリュックを胸の中に抱き締めながら呪いを吐くようにして悲しさに溺れようとする。
「通りゃんせ。通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ。ちょっと通して下しゃんせ。御用のないもの通しゃせぬ。この子の七つのお祝いに。お札を納めにまいります。行きはよいよい。帰りは怖い。怖いながらも。通りゃんせ。通りゃんせ」
 もし誰も見ていない場所で鬼に殺される子供がいたとしても、サメ型のリュックを抱える女はまたいつものことが起きただけだと言って涙を流すだけに違いない。
 震える指先を精一杯延ばしても届かない死の淵で笑いすら奪われる現実が押し寄せてくるばかりの日常を白い羽根大聖堂は信仰に変えて閉じ込めてしまったけれど、密ノ木貴史はまだ足踏みをして希望を掴み取れないことが『真紅の器』に聖なる血液を注ぎ込む儀式なのだと肝に銘じる。
「いや、そうじゃないな。『真紅の器』はやはりたった一人しか選ばれない。だとしたら、俺には俺の役目があるんだろう。『S.A.I.』はもはやブレーキの効かない専制機械でしかなくなってしまう。指導者代理は、菅原理英樹は『マコト』を歪めているのか。陰気で抑鬱的なオートマティズムは俺たちのものではないと証明してやるしかないんだ」
 私が持ち逃げした『マイナスファクター』は『醜』の結晶体で、何故そんなものが私の手中に収められたかは神のみぞ知るってそういう逃げ口上を用意して私は知らないふりをしたい。
 だけど、こいつは人間の脳髄から不適切な思想領域を奪い取り正常性バイアスによって成し遂げられるはずのスペクタクルの平坦化を実行する『パーフェクトメテオドライブ』の一種だ。
 起動原理はいまだに理解不能だし、制御機能も破損しているのか暴走すると歯止めが効かない。
 とはいえ、私が十七歳の時に手に入れた結晶体は私にとってもはや必要不可欠な引力をもたらす負の象徴的機能を兼ね備えた波動エネルギー発生装置として『メデューサ』のエーテルの有効射程と稼働効率を段階的にコントロールすることが出来るいわばレギュレーターだ。
 悪であることを人は拒むことが出来ない。
 正義の味方を受け入れるなんて到底普通の人間には耐えることが出来ない。
 現実逃避っていう王道的結末が必要なんだってことを私は剣崎刹那を通じて嫌っていうほど見せつけられた。
 殺したり盗んだり犯したり壊したり何もかもを台無しにしたりどうにもならないほど腐らせたりしたいっていう衝動が沸き上がってくることをどんなに足掻いても踠いても捨て去ることなんて出来ないんだって病んだ舞姫が爪先立ちのまま訴えかけている。
 私の脳味噌は確かにもう手遅れなのかもしれないとすら思う。
 時間の問題なんだってことを信じられないほど過大で過剰な現実そのものが続け様に叩き込んでくる。
 だから私はここで歌を創るんだ。
 信じた願いがどうにかして届いてくれるようにと筋違いの本能をありったけぶち込んで私は声にならない声を利用して馬鹿どもをめいっぱい洗脳してやることにする。
「あはは。神原沙樹さん気づいてくれましたか。私はね、大人なのです。あなたが逃げ出してきた場所にいた大人たちと全く同じ顔と形をしているんですよ。だからもう無駄なんです。あなたは大人にならなくちゃいけない。私はサメ型のリュックを背負っているでしょう。こいつはハリソン。結局夢を諦められなくて私の背中にしがみつくことしか出来なくなった空を飛べる頬白鮫なんですよ」
 ハリソンは産まれて初めて涙を流す。
 哺乳類でもなく爬虫類でもなく両生類ですらない軟骨魚鋼板䚡亞鋼に属する魚類の分際で生物としての優劣も弁えずに感情なんていう高等な機能を創出して左眼から涙を流して己の運命を呪い始める。
 頬白鮫の叫び声は海中でもなければ誰にも届かない。
 聞かれることさえなく空へと散布されずに誰にも見つけられないまま溶けていく。
 けれど、ハリソンは決してそのことを悔やんでいるわけではない。
 もしハリソンが陸上で生きることが出来ていたのなら、虎やライオンなどに引けを取らないはずだったのに涙を流してまるで高等生物である人間のようにして泣き喚く。
 だからきっとそんな頬白鮫の願いが天に届いたのだろう。
 大天廊下に雨が降り注ぐ。
 びしょ濡れになりぐちょぐちょになりやがて誰もがその場所こそが地上だと気付いた頃に一匹のカバが現れる。
 黄色い長靴を履き紫色の身体のカバが神原沙樹の前に現れて透明なビニール傘を差し出してくる。
「あなたは一体誰? どうして私に傘が必要だなんて意地悪を言うの?」
「ぼくは『カバ』だ。『真理(しんり)』をオメエに教えにきた」
「私はそれを知っています。どうにかして誰かに見せないように隠しているけれど最初から知っています」
「おめえは『バカ』か。先なんて急いでも何も見つけられんダロ」
「此処が未来だと思います。だってあなたは本当は存在しないんでしょ。沙樹の『ひだりめ』はもう救われているはずだからあなたなんて必要ない」
「まぁ、これを飲め。硝子瓶に入った俺のしょうべんだ」
 紫色のカバはビニール傘を拡げて頭の上に挿すと、左手に持った黄色い液体の入った小瓶を神原沙樹に手渡そうとする。
 誰も喜ばないことを知っているけれど、神原沙樹は目の前に差し出された『真理(しんり)のエキス』を飲み干さなければ人生が終わってしまうのだとほんの一瞬で悟ることが出来た。
 切なくて悲しくて何の面白みもないけれど、世界を根本から変えてしまうだけの理屈を紫色のカバは宗教法人『S.A.I.』の最高指導者代理の一人娘に与えようと言うのだ。
 神原沙樹は自分の意志では断り切ることができずに、宇宙が示す道標に沿ってガラス製の小瓶に入った二足歩行のカバの小便を真理(しんり)であると嘯きながら飲み干そうと掴み取ろうとする。
「へ。渡すかよ。これは私が呑みたくてこの機会を伺っていたんだ。先生はこれで良いと仰っていた。『マイナスファクター』はきちんと集めて『真紅の器』に差し出すつもりだよ。革命は夜に訪れる。根源を犯しても抑止力が訪れることのない世界を皆が求め始めるんだ」
 サメ型のリュックを抱えていた女の喉に中年の名もなき女性の声が宿り彼女の言葉を再生する。
「何故ですか。どうして私の物語の中にあなたがいるのですか。もし、本を閉じてしまったら出口が消えてしまうはずなのにどうしてそんな風に簡単に現実を捨て去ることが出来るのですか」
 神原沙樹は自分自身が主人公になるはずだった夢が縫合されていき『スポットライト』が剥奪されていくのをひしひしと感じながら震えが止まらなくなってしまう。
「ふふ。世界線を超えて人格が転移してきたんだ。だからな、お前が気にするようなことじゃない。私は確かにこの世界の住人の意識を乗っ取っているけれど、私が読まなければお前たちも存在しない。アーキタイプはきっと私の話した言葉や行動や想像力のことを言うんだ。だから、安心していいよ。すぐに出ていくから」
 『スイーツパラダイス』は縫針孔雀によって作り出された児童用義賊活動防衛装飾防具の一種ではあるけれど、神原沙樹は何も根拠もなくその気になり多種多様な正義の在り方について思索を巡らせてきたわけではない。
 むしろ彼女にとって正しくあろうとする意志と挙動は既に体内遺伝子に組み込まれた生理現象である。
 だが、果たして行動補正に関する意志決定は遺伝的アルゴリズムに基づいた本能的であるかどうかは疑わしくむしろ純粋理性によって直感が大きく歪められた可能性のある逸脱した自我の一種であると捉えられる。
 そうであるならば、尚更、サメ型のリュックを胸に抱える女に突如として現れた一般平衡接続を実現したいわば虚無の源はもはや真理(しんり)すらも呑み込もうとしている。
 紫色のカバは黄色い長靴を履いて大きく鼻息を荒げて憤る。
「まだ本当のことを探そうとするやつがいる。見つけられないのなら黙ってやり過ごすしかない。そんなことぐらいならお前はわかっていたはずなのになぁ。いつ裏切られたんだ」
 もし大人になることに通過儀礼のようなものが存在するのだとしたら、紫色のカバと出会い、透明なビニール傘を受け取ることなのかもしれない。
「これで私の仕事は終わりです。沙樹さん。あなたはこれから大礼拝堂という場所でお父上と再会してください。あなたは自分で選んで私たちに会いにきました。子供であることはもう許されない。大人になる手段を知っているのなら夢を諦めて階段を昇るのです。きっとそこがあなたの入り口になるはずですから」
 サメ型のリュックを背中にもう一度背負った女はまるで何かを悟り切ったように道案内するのを辞めてようやく一仕事を終えられたことに安堵して左手で汗を拭い取りながら久しぶりに使った猫神おかゆ拳の反動で身体中の筋肉や骨が痛むのを感じている。
 さて、ここでとても重要な問題が発生する。
 神原沙樹とサメ型のリュックを背負う女の一連の行動は世界線を分岐させ並行宇宙を産み出してついには彼らの行動と言動を『スポットライト』が照らす舞台すら作り出してしまった。
 譲葉世界と天宮蓮花はギャグボールを生成するために必要なヒロインであり、『ファティマ』によって定義されていた阻害因子の除去を実行するための重要な部品であった。
 けれど、紫色の身体と黄色い長靴を履いたカバは真理(しんり)を告げる為に現れる。
「あぁ。クソガキのせいで私の十年間が無駄になる。刹那は私の期待に何もかも応えてくれた。『醜』の『マイナスファクター』がヴィランに常態を逸脱した害悪を産み出して社会に混乱を与えてくれていたことは私が運命だって信じさせてくれるには十分過ぎたんだ。だけれど、これはなんなんだ。どうして私の信じているものだけが死んでいる人形みたいに暴れ回る。教えてくれ。天宮蓮花。『器』には誰が相応しいんだ」
 譲葉世界は呪われたまま正論の中に突き落とされてしまったことに憤るけれど、やはりそれは誰かが責任を取るような問題ではなかった。
 サメ型のリュックを背負う女は神原沙樹から奪い取った聖なる液体を排泄物の一種だと知らなかったわけではなく、糞や尿や血液と一緒に体内に取り込むはずだった精液が宇宙論的構造物の外側からの圧力では置換することが出来ないのだと記憶していたからこそ『真理(しんり)の水』を体内に全て飲み干したようだ。
「あぁ。そうか。譲葉世界。君はそういう人なんだね。本当に自分が特別だって信じているし、その為にだったらなんだってするつもりだ。だけど、私は女だから。選んでくれる男がいなくちゃ何も始まらないんだ。いいよ、簡単でいい。貴史は多分『真紅の器』を利用して目的を掴み取るために体のいい手段を使おうとする。どうかな。私が間違っているのかもしれないね」
「あぁ。イライラする。またそうやって私のやってきたこと、考えてきたこと、言葉にしていることの全部を無駄にしようとしている。天宮蓮花。どうしてお前は息をするように嘘をついて必要のない選択肢を見つけたんだなんていうんだ。余分なものを身につけないって話がまかり通るならもう『マイナスファクター』は私の一部じゃなくなってしまう」
 どうしてなんだろう。
 大人たちはいつもこうやって調和を乱して真実ってやつを有耶無耶にする。
 私はもちろん産まれた時に何もかも知っている。
 赤ん坊の頃の記憶は確かに定かではないけれど、当然ながら私はパパとママの子供で二つで一つになったもので、とても月並みな言葉で言わせてもらうのならば、愛の結晶ってやつだ。
 だから全知全能なんていう存在がいるのだとすれば、それはママのお腹の中から産まれて現れた瞬間の私のことだろうし、地上なんていう穢れた場所でいつの間にか忘れてしまったたくさんの物事を引き換えにしたとしても、私はきっとまだ多くの物事を知っているはずだ。
 だからこそ、この二人の女性のやり取りはどうにも辻褄が合わない。
 大人がよく使っている言い方で言い直すのならば、ひじょうにごうりせいにかける、としか言いようがない。
 私は大人の矛盾が耐えられない。
 口先で理想を掲げながら決して本当のことを言おうとしない大人たちはどうやってこのモヤモヤしたわだかまりを解消しているのだろうか。
 『スイーツパラダイス』には限界がない。
 私なりの正義ってやつを他人に流されることがないまま星屑を散りばめながら世界征服だって大魔王にだってなれる気がしてしまう。
 けれど、私はやっぱり子供なのだろうか。
 拳を握り締めて一歩踏み出して甘っちょろい大人たちの陰謀を打ち砕いてやろうというのに勇気が湧いてこない。
 貴史さんはもしかしたら、『S.A.I.』なんてもう辞めてしまう気でいるのかもしれない。
 目を見れば分かるけれど、彼は理英樹お父様のことがあまり好きではなくてただの人間が神様でいようとすることを恨んでいるような気がする。
 だから私は『スイーツパラダイス』を着ることにする。
 ちょっとだけ私には『ヒダリメ』で未来が見えるから、最初の人『マコト』と同じように無数に分岐していくはずの世界線から私と私が重なる場所のことを感じ取って光の速さに近づくまで貴史さんの行く手を阻んでやろうかなって意地悪を星屑を散りばめた右手を握り締めて決意する。
「都合よく俺の目の前に困難が訪れている。どちらを選択したって『真紅の器』はもう動き始めている。思い出なんて何処にもなくなってしまうのだから震える指先のことなんて考えなくていい。死んでいる人形がもし『S.A.I.』を破壊することになったとしてもあの奇怪な『ヒダリメ』だけは俺の手で片付けてやる」
 密ノ木貴史は業を煮やしていつの間にかステージから消失してしまった二人のヒロインの可能性の奪い合いに口を出そうとする。
 誰にも理解出来ないはずの選択肢を何処に捨てればいいのかわからなくなったことで密ノ木貴史はとうとう思い出に縋り付くのだけは辞めてもう先の見えなくなってしまった予定調和を破壊する為だけに口論を続けている罪深き子羊に答えを与えようとする。
「やっぱり『器』を探していただけか。お前には目的が見えない。ヴィラン供とも刹那とも違う。なぜ『真紅の器』が機能しなくなったのか私はようやく理解した」
「終焉を選び取れるほどに貴方は強いのかもしれないけれどそれでもピリオドの向こう側には変形した嘘ばかりが散りばめられている。動乱でも夢想でもなくてここは平坦な暗闇なんだ。逃げ出そうとしても掴み取られたまま終わりだけが何処にも行けずに沈んでいる。だから私は」
 譲葉世界と天宮蓮花は理解する。
 既に終点を過ぎてしまったから答えだけがループしている深淵のことを。
 『マイナスファクター』が赤黒く滲み始めると病んだ心を癒すようにして譲葉世界の妄想を破壊し尽くそうとやってくる。
 『真紅の器』に憧れていただけなのに何処にも出口がないからってはしたない欲情にしがみついた天宮蓮花の暴走を咎めるように密ノ木貴史が話し始める。
「あまりにも真っ暗な闇の底にあるのに寂しそうだから『スポットライト』を当てた。輪廻だけが終わらないようにってトレパネーションで知覚と認識を破壊したまま人間であることを辞めさせた。『真紅の器』はそうやって産まれた。悲劇と喜劇をごちゃ混ぜにした姿は醜く過ぎて誰にも奪えなかったんだ。だから俺がお前たちの目の前に現れた。さぁ、父性と母性を入れ替えよう。始まりと終わりがいっぺんにやってきたんだ」
 密ノ木貴史は選択することを諦めて譲葉世界と天宮蓮花の右手と左手を両手で掴み取る。
 彼女たちはもう観念しているようだけれど、諦めたり嘆いたり叫んだりしたい訳じゃなくて真っ直ぐに前に進もうっていう気持ちだけを後押しするようにして暗闇を握りしめ返す。
『私たちは多分特別になれなかった。だからあの子が羨ましい。それはただ『ヒダリメ』があるというだけでなんの目的もない癖にどうしたって破滅にしか結びつかない癖に嘘と本当を区別しない奴のやり方だからだ』
 だからこの「マイナスファクター」はお前に返すよと『未来のイブ』が話し始めると『醜』という文字の浮かび上がった球体を差し出してくる。
「ふ。そういうことなら私が呑むことしか出来ないってわかっていたんだ。だったらこれは『餅巾着』の中に入れて持ち帰ってやる。先生たちはまだこれを必要としている。私は特別な通行人として『トリックスター』としての契約を破棄しなくちゃいけないんだ」
 サメ型のリュックを抱えたままの女がどうにもならなくなって涙を流しながら喚きそれでも強く生きるしかないんだと再び損をしてばかりのハリソンを背中に背負って星柄のモンペのポケットにしまっていた餅巾着を取り出すと、流星が地上に落ちるよりもずっと早いスピードで『未来のイブ』から『マイナスファクター』の結晶体の一つ『醜』を奪い去ってしまうと、一目散でその場から逃げ出して『大礼拝堂』の方へと向かっていくと長い長い修行の旅を終える為の答えを提示する。
「やっぱりですか。大人はずるいです。子供を騙すなんて日常で夢なんて忘れているはずなのにお金の話ばかりしようとする。沙樹は理英樹お父様にはもう会えないかもしれない。これはそういう意味なんですよね、貴史さん」
 神原沙樹は少女であることをもはや恥じることはないけれど、呆然としたままメインステージから追放されてしまったことを憎むことしか出来なかった密ノ木貴史に愛の告白を成し遂げてとうとう二つに分かれてしまった天宮蓮花と譲葉世界に同情の言葉を差し向ける。
「それは違う。『真紅の器』が足りていなかっただけだ。忘れよう、神原沙樹。俺はお前の父親を殺して母親を救い出す。両方は手に入れられなかったし、やっぱりそれが大人のすべきことなんだよ。『チルドレ☆ン』も『スペルマ』も俺がお前の記憶から消し去ってやる。愛しているよ、神原沙樹。俺はきっとロリコンでしかなかった。全ての罪を贖うことに決めたぞ、俺は」
 星屑のような涙目で神原沙樹は初恋が実った瞬間に遭遇して感動に打ち震えてもしこのままこの想いを持続することが叶うのならば、決して離したりしないと誓う。
敗北を宣言された上に処女膜を既に失ったはずのかつて『未来のイブ』と呼ばれていた女性器からド根性を吸い尽くした『スイーツパラダイス』を神原沙樹と密ノ木貴史は脱ぎ捨てて青少年育成条例に逆らってでもまだ十歳になったばかりの裸を曝け出したまま『アンチオイディプス』を打破する為に手を握り締め合う。

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