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10. Timeless

貴重文献保管庫の扉を開けると、中は空っぽで何もない空間に辿り着いたことに気付く。鍵の場所を間違えたのだろうか。

真っ暗で視界も感じられず前方には光さえなぜか届いておらず中に進んでいくと自分たちの形さえわからなくなってしまう。

現在の座標を正確に把握しようとアプリ『少女地獄』をたちあげる。

──マウスマントラ充電中。『少女地獄』はクラムシェルモードにはいってます! ──

肝心なときに助けてくれていた彼女もどうやら機能しない。

暗闇の中で光るスマートフォンの灯りがスッと消えてしまうと再び漆黒の空間にぼくらは置き去りにされてしまう。

けれど、確実に扉と暗闇の境界線は存在するようでまるで明確に光を遮断するように入ってきた扉の向こうの光はやってこない。

とにかくそのまま一つ一つ脚を踏みしめて先へと進んでいく。

巡音が珍しく怖がっているのかぼくの後ろで制服の裾を掴みぼやいている。

「なんなの、ここ。中央図書館の奥にこんな場所があるの?」

「わからん、とりあえずとても遠くのほうに小さな光がみえる。あそこを目指そう。目印になるような魔術は何か使えるかな」

巡音はポケットから小さなグミを取り出して左手の上に乗せてエーテルと結合させる。

「簡易的な『太陽の吐息』。そんなに長くは持たないけれど灯ぐらいにはなるよね」

七色に光るけれどとても不安定な『太陽の吐息』を宙に浮かべる巡音。重力が弱いのだろうか。

ぼくの身体も心なしか軽い気がしている。

まるで空の上を歩いているみたいに。

「暗いから足元に気をつけて。とは言っても何も見えないけどさ」

こくりと頷く巡音から不安が伝わってくる。

暗闇の中を手探りで歩いていくと扉が遠くなり近くでちらちらと輝く七色の光も形が曖昧になるぐらいに小さくなり、けれどそれとは反対に遠くに見えていた光が少しずつまるで向こうからぼくの方へ近づいてくるみたいに大きくなっていくと、周りを三つの小さな光連なって寄り添っていたり弱々しく淡い光が大きな光を中心にして見え始める。

どこからか小さな本当に小さな声が聞こえてきた気がしてどこかに誰かがこっそりと忍び込んでいるような気がする。

ちょっとだけ怖くなったので気のせいだということにして後ろを歩いている巡音の手を握る。

「ありがとう、私もその方がいい。とても暗くて不安だね。けど、君のお陰で不思議と怖くはないよ」

そう巡音が囁くとすぅーと一筋の光が天井のほうから降ってきて一番明るい光にぶつかったと思うと、とても小さな光に細かく砕かれて消えてしまった。

もしかしたらぼくらは宇宙空間を歩いているのかもしれない。

「あれは彗星だろうか。ぼくらが今どこにいるのか少しだけ解ったかもしれない。すごく不思議な体験だけれど、たぶんそうだろう」

ここが宇宙空間で銀河の果てのどこかであるとぼくらは自覚すると、遠くのほうで小さな光が産まれて徐々に大きくなり後を追うようにしてとても大きな爆発音が鼓膜に届く。

眩しくて目を開けている事すら叶わない円形の強烈な閃光があたり一面を包み込み全天球が真っ白な光が覆い尽くされて強烈な音波で空間が埋め尽くされる。

すると、ゆっくりと白い光が薄まっていき音も静寂を取り戻すと、小さな赤い光や青い光がぽつぽつと頭上も足元も後ろも前も右も左にも現れ始めてここが本当に宇宙空間だということを理解する。

青い銀河の渦や赤く強烈な光を放つ恒星やガス状の気体がまばらに拡がる惑星が見え始めてぼくたちは漆黒の空間を歩いているという実感に高揚感を覚えてしまう。

「プラネタリウム。と言うには大袈裟すぎる。イケメン彼氏ときたかった」

嫌味なセリフだけど不思議と刺のない巡音の言葉がぼくに安心感を与える。

最初にあった大きな光はどうやら円柱状の大きな宇宙ステーションのような構造物で軌道エレベータが下の方に向かって垂直にとても巨大な宇宙船に向かって伸びている。

よくみると軌道エレベータが突き抜けた先には大和列島の大陸部が観測できる。

おそらくそれは惑星型船団ガイアの一部である極東艦隊所属フォールド級艦『大和』のようで、遠くのほうをみると他の宇宙船のような光が微かに瞬いている。

宇宙船や星の光とは違う輝きを放つ三つに綺麗に並ぶ光が目の前の宇宙ステーションに少しずつ近づいてくると、それはまるでバスのような乗り物だと分かる。

宇宙ステーションの入り口のような場所に流線型の乗り物が近付いてくると、バスから高さ二メートルの円柱型の透明なパイプが伸びて宇宙船ステーションの扉のようなものがついた入口付近とドッキングする。

すると、宇宙ステーションの入り口から神人棟でみた同じ形と顔の人型が三十人ほど停止したバスの入り口へと繋がるガラスのような壁面できたパイプの中へと乗り込んでいく。「神人。ぼくらと同じ形をしたぼくらとは違う生き物だよ。チルドレ☆ンたちが月へと帰還するんだ」

巡音はただ黙って顔を見上げて周辺の銀河やガス状星雲や黒くなにもかも飲み込んでしまう巨大なクェーサーを眺めている。

すると、彼女が見つめている銀河の一つから白い光体が近づいて来て、ぼくらのほうまで1000/1秒の速度でやってくると、光に包まれた人型だと理解できる。

白い光体の人型はぼくらの脳に直接話しかけてくる。

「長く苦しい旅の果て、あなたたちは進化の可能性に辿り着きました。けれど、あなたたちがここに辿り着いたのは決して初めてではありません。覚えていてくれていますね?」

そういえば、それは子供の頃にみたM-78星雲からやってきた光の巨人にとてもよく似た形をしているなと頭の中にこっそり思い浮かべて、バスは地上で聞いたことがある懐かしい発車音とともに神人たちを乗せると円柱をまた車内にしまい込んで宇宙ステーション前から発車して遥か遠くの宇宙空間へと帰っていき、遠くで光続けている白く光る大きな星のほうへと戻っていく。

いつのまにかさっきの人型はぼくらの目の前から消えていて、また静寂がやってくると、巨大な天球の上部に黒い断裂が幾重にも入っていき空が裂け始める。

まるで巨大な重力場の影響で空間が歪んでしまい、変曲点が出来るようにして暗闇がガラスのように割れてしまうと、目の前の宇宙ステーションと軌道エレベータが崩壊していき、漆黒の空間がまた灰色の空間へと変化していく。

裂けた空が作りだした歪みが大きくなっていくと、天井から赤と青と緑のレオタード姿の女の子が三人、ぼくと巡音の前方に落ちてきて灰色の地面に叩きつけられる。

いつのまにか全天を埋め尽くしていた星々は消えていて、空っぽの本棚だけが十㎡四方の空間に並べられている。

天井にはぽっかりと穴が空いていて、まだ夢の世界だと告げるように灰色の空が広がっている。

「これであなたたちの負けです。三年になって、CRASSへの編入は大変でしょうがぼくらは歓迎しますよ」

粉々に砕けたコンクリートの穴からゆっくりと宙に浮いたまま長髪長身の男、百舌/OZが降りてくる。

「ううう」

「ぐぐぐ」

「げげげ」

「──やばい、もう無理かも──」

ぼろぼろに破けたレオタード、傷だらけの彼女たちの素肌。直視出来ない三人の姿に思わず拳に力が入る。

なぜか抑えられない感情のようなものが爆発してしまい、百舌が貴重文献保管庫の床に着いた途端に精一杯のチカラを込めた殴りかかるけれど、彼の前に出来た見えない壁に阻まれて突き放った拳ごと跳ね返されてしまう。

「威勢がよい。大変喜ばしいことだ。ただ無力な善など無に等しい。思い知るべきだよ、佐々木和人」

ぼくは振り上げた拳の行き先を見失って立ち尽くしまう。

百舌は重力のようなものを制御しているのだろうか、彼に近付くと身体が極端に重くなり身体に力が入らない。

とても悔しそうに呻き声をあげている損傷を受けたレオタード姿の三人が痛みに耐えながら立ち上がろうとしている。

「予定は確定。作業は未定」

「このまま正体不明の魔術師殺しの」

「好きなようにさせるわけにはいかないよ!」

「──だから『白の魔女の善意と我侭なレシピ』、絶対手に入れる! ──」

ふふふと少しだけ機嫌が良さそうに百舌が笑ったような気がした。

巡音はぼくの後ろで──ヤジロベエ──を使い、外界との通信を再開しようとしている。

「ようやく繋がった! スマートフォンから発生する周波数帯域を変えてみたの。衛星回線ならぎりぎり繋がるみたいだね」

どうやら巡音は元いた世界と連絡が取れるようになったらしい。

ぼくらがここから抜け出す糸口を見つけられるかもしれない。

「了解した。思ったより苦戦しているな。こちらも遅れてすまない。こちらから『鬼丸国綱』を送る。受け取れ。空が見える場所に移動しろ」

「おっけー! ねえ、そこの君! 佐々木君、だっけか。屋上に移動しよう、今のままその人の相手をしたとして勝ち目ないと思うよ!」

はっ! と呆然と立ち尽くしているぼくは巡音の一言で正気をなんとか取り戻し、巡音の後を追うようにして貴重文献保管庫の入ってきた扉のほうから抜け出して屋上へと通じる階段へと駆け上がる。

「ねえ、巡音。もう既に一時間以上はこの世界にいる。十七時を過ぎているけれどまさか浦島太郎のように抜け出したら三年経っていたなんてことはないよね?」

「それは大丈夫。それにしても私のこといつ調べたの? 自己紹介してなかったでしょ。私は巡音花音、魔術科2-δ」

「あー。それには深い訳があってな、事前に君の名前は知っていたんだ。それに君は回路持ちとしては有名な家系、お兄さんは筆頭魔術師の巡音悠宇魔では。ぼくは佐々木和人、普通科2-Cだよ。」

「手を繋いで、宇宙を散歩して、お互いもう戦友って感じなのに変な気分だね。お兄ちゃんのこと知ってる人は多くても私の事まで知ってるとはね。ご名答。私は巡音家の次女だよ。なんで知っているかって気持ち悪いから深い理由は聞かないでおく。それに君の友達とはもう契約まで。不可抗力とはいえ、ぞわぞわ」

「もし死ぬことがなかったら彼は獣人化するのか。地方の底辺校なんかにいるような違法契約者や肉体労働従事者で獣人は確かによくみるけれど、この街で実際にみるのは初めて、しかも自分の親友とは」

「まあ、この学園はエリート校だからさ。なんだか責任を感じる……」

「たぶん、そのあたりは大丈夫だと。白河君のお母様は聞いている限り半獣、猫の尻尾と耳がある純然たるケモナーらしいからさ」

「それは複雑! と、とにかくまずはここから抜け出そう!」

今ごろ白河君の肉体がけむくじゃらの体に変化していることを考えると不謹慎だがにやけてしまう。

インスタントビーストなどを使って手軽な感覚で一晩だけの簡易的な獣人化が都市部で流行っていると聞いたことがある。

とはいえ八十パーセント以上の獣人は非常に珍しい。

むむ。

と余計なことを考えていると、階段からみて一番奥に大きな穴の空いている屋上に辿り着く。

「大河! 座標を送るよ! 3i.6927=13i.6569。ここに目掛けて『鬼丸国綱』送って! 勝てれば出られる、たぶんそういうことだと思う」

──ざわざわと魔術科棟中庭のメタセコイアが風で揺れて向こう側から巡音の声が届いたことを九条院大河は触媒として使用したスマートフォンの半導体を通じて確認する。

「銀が少量すぎてやはり通信が不安定だな。とにかく『鬼丸国綱』を向こう側に送ろう。通子、剛志、『恋い焦がれる光の矢』、久しぶりにやるぞ」

「うわー小学生のころ怒られて以来。バリアに触れたら即警報。だから大河は面白い」

「『イド』の中じゃ1cは必要だ。全力でいこう」

庵慈はジャンクショップで購入しジャンクパーツで組み立てたマイコンと自分の自作PCを自作ケーブルで接続し、キーボードをタイプする。

「銀のエーテル量も半導体内の銀の含有量も問題ない。座標入力完了。ぎりぎりいけるはずだ。」

庵磁の自作PCから伸びたケーブルから光のようなものを注入されたマイコンがまるで生き物のように蠢きだす。

大河はケーブルから接続を切り離したジャンクショップで見つけてきた半導体を組み込んだ昆虫のようなマイコンを『鬼丸国綱』の鞘下部にセットすると手足のように金属部分が蠢いて鞘と融合し始める。

「さて、ロケットの発射準備OKだ。頼む、通子、剛志、巡音を助けてやってくれ」

大河は『鬼丸国綱』を剛志に渡すと、剛志の右腕が極端に筋肉によって肥大化して彼の腕は十倍ほどの大きさに変化する。

槍投げ選手のように刀を上部に放つ態勢を作ると剛志は通子のほうにちらりと目をやる。

「通子。こちらの準備はオーケーだ。空間転送準備始めてくれ」

通子はスマートフォンから054にダイヤルすると、『鬼丸国綱』と融合した昆虫の形を模したマイコンのLEDが赤と青に点滅する。

「おーけー。転送処理問題なし。位相転換の為の術式発行。アリアロスバルレトリーネ!」

『鬼丸国綱』の鞘に電撃が走り、そのまま剛志の右手全体を覆い尽くし──ぐぐぐぅ──という呻き声と共に地面すれすれまで剛志は傾く。

「いけ。『恋い焦がれる光の矢』発動だ」

大河の合図と共に、剛志は全力で空に向かって右腕を振り抜き、『鬼丸国綱』を空へと放つ。

超高速で刀身は空を駆け抜けてあっという間に雲を切り裂いて居住空間の大気圏に張り巡られた電磁バリアを突破する。

突き破られたバリアは自動修復し、『鬼丸国綱』は宇宙空間上で亜光速に達すると姿を消してしまった。

「バカ大河! だいぶずれているよ!」

巡音は『鬼丸国綱』の落下予測地点をスマートフォンの画面で確認しながら屋上を移動する。

「うわ。よく前をみて! 目の前に穴が空いているんだよ!」

そんなぼくの忠告が届いたのか届いていないのか巡音は大穴の淵ぎりぎりで立ち止まり、スマートフォンで座標を確認して、右手を伸ばす。

灰色の空に一瞬だけ光が広がり地面に向けて一筋の光が放たれると、巡音の右手の平に『鬼丸国綱』が現れる。

「あ。慣性計算ミスってる」

刀身の落下エネルギーを大気圏で狙い通りに消費しきれなかったからか巡音は握りしめた『鬼丸国綱』に引き摺られるように身体が傾いて大穴へ落下していく。

「あ! だから行ったのに!」

ぼくが脚を踏み出して大穴へ向かおうとすると背後からものすごいスピードで動く影が現れて右側の柵を伝わって移動し屋上の一番奥に到達すると柵を蹴って大穴へ落ちてしまいそうになる巡音のほうへ跳んでいく。

「お待たせしてすまないでござる。白河稔只今推参。でござる」

全身をけむくじゃらの黄金色の毛で覆われた人型の狐が突然現れて大穴へと"鬼丸国綱"と一緒に落ちてしまいそうになる巡音を間一髪抱き抱えて大穴の反対側の淵へと飛び跳ねる。

「ござるって。もしかして、白河君なの? なんなの? 完全に狐だよ!」

大穴の向こう側で刀を抱き抱えた巡音をお姫様のように抱えているのは獣人化している白河君のようだ。

「ええ? もしかして、さっきのメガネ君? よかった、契約成功したんだね! あれだけ気持ちがあったら大丈夫だとは思ったけどよかった!」

「小生は生涯を通してあなたの刀になると決めたでござる、初めてあった時から。このぐらいお安い御用でござるよ!」

大穴の向こうの狐姿の白河君は巡音を抱き抱えたまま飛び跳ねると、一足飛びに穴を越えて巡音を降ろして自分の力で歩かせると、一緒にぼくの方へ向かって歩いてくる。

ぼくも喜びを全開にして彼ら二人の方を走り寄ろうとすると、巡音は胸元で『鬼丸国綱』をまっすぐ鞘から抜いて全力でぼくの方へ向かって切りかかってくる。

──うわ! ──とぼくが叫んで仰け反るとぼくの右肩越しに振りおろされた一閃が後ろから迫ってきていた泥人形を一刀両断してビシャッと崩れ落ちる。

「君たちは泥にまみれてしばらく動けなくなっていて欲しいの。このままじゃ私、今日の課題F判定だよ」

水恩寺が屋上階段の扉の方から大量の泥人形たちと一緒に現れてぼくらに襲いかかろうと怒った顔をしている。

巡音は鞘をぼくに投げ渡すと、そのまま泥人形たちを鮮やかに切り捨てていく。

くるくると舞い踊るように振る舞いながら日本刀を振り回し次々に泥人形を捌いていく様子には、凡そ女子高生とは思えぬ太刀さばきがあり感心してしまうがそんな巡音の気持ちをへし折るかのように水恩寺は次々に泥人形を繰り出してくる。

『イド』の中では彼女の泥人形はほぼ無限といっていいほど作り出せるらしい。

確か人間の髪の毛の本数は平均して十万本。

いくら一撃で倒せるほどだとはいえ、極端な話、十万の兵と巡音一人ではいつか力負けしてしまう。

そんな最悪な状況をさらに悪化させるようにしてさっきぼくらを追い詰めた女の声がどこからか聞こえて来る。

「せっかく助けてやったのに、のこのことこんなところまで現れるとは懲りない連中め。次はきちんと私の蟲達の栄養分になってもらおう」

ばさばさと大量の蟲達が屋上左端の柵の前に集まりだしたかと思うと、廓井芒理がぼさぼさの頭で不快な印象と感覚をぼくらに突き刺すようにして現れる。

「さっきは散々な目にあったでござる。お陰で狐人間として人生再スタート。悪くはないでござるがけじめはきっちりとらせてもらうデござるよ!」

そういうと、白河君は廓井から放たれる大量の蟲達をけむくじゃらの手で掴み取り握り潰していく。

彼を包む黄金の毛が廓井の飼う蟲たちの毒素を受け付けないのだろうか握りつぶした後に蒸発する蟲たちのウィルスやら細菌が空気に触れて死滅していくようだ。

「魔術耐性が強化されている獣人とは。流石は巡音家の血というべきか。ならば、『エーレンシュタイン』の出番かな」

廓井は左の掌から注射器を抱き抱えているような吸血蟲を出現させると白河君を襲いかからせる。

他の蟲より格段に動きの早い『エーレンシュタイン』に白河君は翻弄されているようだが、致命的な一撃を受ける事なく、襲いかかる他の多種多様な魔法蟲を撃退しながら機を伺っている。

巡音も白河君も鮮やかに敵を撃退していくけれど、いつの間にかまとわりつく空気のようなものに阻まれてしまったせいか、心なしかさっきより苦しそうな表情へと変わり動きが重くなっていく。

──気付いたか。相当の術者だろう、重力波によって捻じ曲げられているせいか巡音と白河の周囲一体の空間と時間が歪んで彼らの動きに遅延が出来ているんだ──

そういえば、蟲の動きを正確に目で追えている上に巡音の剣技と泥人形が砕けて飛沫をあげる様子をぼくは視覚で捉えることが出来ていることに気付く。

「これは下にいる百舌ってやつの仕業かな。空間を捻じ曲げたり宙に浮いたり、そうか、彼のエーテルは重力を制御しているのか」

そう呟いた途端、下からレオタード姿の三人がまるで身体にかかる大気の負荷が消え去ってしまったように三メートルほどぐるぐると円を描きながら上空へ持ちあげられていくと、図書館屋上へとふんわりと羽根の生えた生き物のように放り出される。

「手も足も出ないってこのこと?」

「深愛様の作戦は全部台無しになっちゃう」

「やっぱりリミッター解除は私たちと違う」

「──しかも優しく屋上に投げ捨てるなんて! ──」

目眩を起こしてうまく立ちあがれない三人を見下すような顔をしたまま屋上に開けられた大穴から翼を得た悪魔みたいに上昇する黒い長髪の百舌が低く蠢く声で警告を発する。

「君たち普通科の人間は自分達にも回路が存在しうるという可能性を理解していないのだな。劣性遺伝は眠り続けているだけだ」

「うう。やっぱりあの人、深愛たんと同じ考えだよ」

タオは胸がはだけて見えそうな青いレオタードの左胸を左手で隠しながら項垂れる。

「イドの中とはいえ私たちに通常環境で重力制御なんてできるわけ! ないだろ!」

他の二人と違ってまとったレオタードの脇腹の赤い布地が破れただけで肌を露わにせずに済んでいるイオは完膚なきまでに負けたという事実を実感した表情で唇を噛み締める。

「あーあ。私も回路持って生まれたかったよー!」

足をバタバタとさせながらレオタードは比較的無事だけれど、擦り傷だらけのリオがとても悔しそうに涙目になりながら空を仰ぐ。

「うぐぐぐ。ほんとうにしぶとい! しかも魔術使い同士なんだから魔術で闘ってよ! 魔武具なんてどうやって持ち込んじゃったの! いいもん、私はまだ出せるもん」

心なし右の頭頂部の一部が少しだけ薄くなっているのを気にする水恩寺が涙声になりながら今度は左の頭頂部から髪の毛を十本ほど抜くと息を吹きかけ泥人形に変える。

「はぁはぁはぁ。まだそのへんてこりんな人形を出して来るの? あんた? いい加減禿げるよ? それに身体がすごく重い、『鬼丸国綱』の加護を受けているはずなのに」

「百舌さんの力! それにいいの! わたしなんかどうなったって! お前なんか泥だらけになっちゃえ!」

巡音と水恩寺のキャットファイトを夢中で眺めて油断したぼくは奥の方からやってきた羽虫の存在に気付くことが出来ず、目前で毒牙を剥き出しにして飛び掛かってこようとする毒蛾蟲につい仰け反ってしまう。

「うわぁぁぁ!」

と目を閉じて身を縮こませて、その場に硬直。

にもかかわらず何も起きないので恐る恐る目を開けてみると、目の前で、がるるる、と唸る白河君の口から羽虫がはみ出ている。

逞しくなり過ぎた我が親友の所業に思わず見とれつつも口からはみ出ている緑色の液体が気になる。

ペペッと勢いよく吐き出した白河君の目が真っ赤に充血している。

まさかの凶戦士モード発動で蟲達だけではなく泥人形まで片付けていく。

敵味方の区別だけはぎりぎり出来ているのは獣人化による新陳代謝機能の強化と巡音との契約の強さがそうさせているのだろうか。

「そうですか、では彼には5Gの世界を味わってもらうことにしましょう」

大穴上空で宙に浮く百舌は左手を翳して白河君に急激な負荷をかける。

極端に身体が重くなり動きの鈍くなった狐の半獣半人をみた小柄な魔術師はブチっとやけになって抜いた髪の毛を一気に魔術錬成すると、彼女と同じ形の泥人形たちが一斉に白河稔(狐)へ襲いかかる。

「いっけー! このまま彼を固めるテンプル!」

水恩寺の形をした泥人形が次々に白河君に覆い被さると灰色の泥は一つの大きなゼリー状の山になり白河君を覆い潰していく。

「まずい。巡音もそろそろ体力の限界だよ、このままじゃあの気色の悪い蟲たちの餌食になってしまう!」

白河君が押さえ込まれて巡音が捌き切れなかった蟲達から逃げ惑うだけのぼく。

どうにか態勢を立て直したいけれど、振り向くと毒牙や毒針を携えた蟲たちが今にも襲いかかってきそうでどうにもならずに図書館の屋上を走り回るしか出来ない。

──まあ、仕方ないな。ここはオレの力を使うんだ。しばらく俺の念仏を我慢していろ──

そうやって『類』がいつものように囁くと得体の知れない真言がぐるぐると頭の中で鳴り響いてトリップしそうになってしまう。

──ご主人様ぁ! マウスマントラ急速充電中レス! 寂しがり屋の魔法使いからアクセス過多! やばいです! ──

何がやばいのかさっぱりわからない『少女地獄』まで騒ぎ始めてますます八方塞がり状態、果たしてぼくは彼らを置き去りにして屋上から地上へとダイブして避難するべきではとよからぬ考えが頭をよぎった矢先に三分間を過ぎた時のタイマー音がスマートフォンから鳴り始める。

──マウスマントラ九十五パーセント超えちゃいました! ご主人様の特殊多能性細胞『phoenix』へローカルネットワークより接続開始! 『スサノオ』プログラム起動! いけます! ver.7『類』具現化します! ──

聞き慣れない音韻と供に少女地獄が奇妙な文節を唱え出し彼女から吐き出された真言がまるでホログラフィックのようにスマートフォンから溢れ出すと螺旋状にぼくを覆い囲み、蟲達はぼくの周りに近付けなくなる。

同時に目の前の空間が歪み始めて電磁気が走り回ると神人棟地下室に封じ込められていた『類』が具現化する。

「実に五十年ぶりの外の世界。とはいえ、ここは夢の中か。インターネットとは便利だな、すぐに思念を送信できる」

『類』が、はっ! と気合一閃覇気を漲らせるとあたりの魔法蟲たちは一気に蒸発して一瞬で掻き消される。

けれど、同時に『類』の姿がぼんやりと淡く滲んで実体の捉えられない身体になり消えかけてしまう。

「ふん。やはり今のままでは十秒ほどが限界だな。具現化したとしても存在が実存に耐えられないほどに軽過ぎる」

ブゥゥンとまるで低域の電磁波が空気中に伝わるような音がして、さらに『類』の姿は薄くなりぼくの前から姿が徐々に消えて薄くなっていく。

「なんだか今日初めてあったばかりなのに力を借りてばかりだ、でも助かったよ、ありがとう」

「かまわん。どうせあそこにいても見ること以外はほとんど何も出来んからな。真言と右腕を貸そう、此処から抜け出す役ぐらいに立てるだろう」

『類』がそう言い放つと、ぼくの周りを取り囲んでいた密教僧たちの思念が言葉になって渦を巻いて二つに分かれて飛んでいくと、一つは泥人形に埋められてしまった狐姿の白河君のほうへと飛んでいってゼリー上の泥の中へ侵入し、それからもう一つは巡音の持つ『鬼丸国綱』の方へと向かっていきバリアでも与えるように螺旋状に覆う。

真言に囲まれていたぼくの右腕はいつの間にか素肌に直接無数のサンスクリット語が浮き出てきていて黒く淡い光に包まれている。

──その右腕は人の良いいにしえの魔女を惨殺した時に手に入れたものだ。使え、心臓ぐらいは奪い取れる。まぁ、術式を生身の身体に埋め込んだ弊害までは知ったことではないがナ。名付けて『アウラ』だ。真っ直ぐに使え──

すっかり実体が消えてしまった『類』がまた脳内に直接話し掛けてきてぼくの呪術めいた右腕に名を与える。

白河君は力が戻ったのか覆い尽くしていたゼリー状の泥を弾き飛ばして中から窒息寸前間一髪姿を現して戻ってくる。

巡音の刀に宿ったマントラのお陰で蟲達も牽制しているようで迂闊に近づいてこない、はぁはぁと大きく息を切らしてだいぶ参っている様子の巡音がいつの間にか傍にいてぼくにこっそりと囁く。

「これ、すごいね。過重力の影響が無効化されている、身体が軽くなったよ、それにさっき現れた魔術師どこかでみた気が。そう、多分古代の魔術を記した文献。すごい人と知りあいなんだね。とにかく、体力ももう限界に近いし、一気に勝負を決めよう!」

大穴の前で背を向けあいながら円を組み作戦を練り前方の廓井さんと水恩寺を警戒する白河君。

ぼくらの二メートル上空で浮かび上がったまま高見の見物を決め込んでいる百舌をどうにかしなければこの世界から抜け出せそうにない。

頭を捻って作り上げた打開策を白河君に伝える。

「白河君、いいアイデアがある。前の二人を君一人に任せたい。合図を出したらぼくら二人を上空へ放り投げてくれ、まさかあのひょろひょろ白河君にこんなお願いをする日が来るとは思っていなかったよ」

「了解でござる、小生も迂闊におかしな蟲を口にいれたせいで正気を失いかけていたがもう大丈夫でござる、一時的にアドレナリンが過剰分泌されるような毒素だったようでござる」

「二人ともおしゃべりはそこまで。準備いい? 私がまずは切りかかる。狐君は色々忙しいけど頑張れ。ご褒美をあげる」

そういうと、狐顔の白河君の口元に軽く口づけをする。

俄然やる気のみなぎる白河君はギリギリ正気を失う事なく前方の二人を威嚇するように低い唸り声をあげると一瞬だけ三人で目を合わせて声を揃えて合図を発する。

「──バルス! ──』

白河君はクルッと身を翻して巡音をまず放り投げ、続いてぼくを上空の百舌めがけて放り投げる。

巡音は態勢を崩さないように『鬼丸国綱』を頭上へとかざしてそのまま百舌にきりかかる。

百舌は重力制御されていない巡音に一瞬だけ油断をしたけれど、左手で渦のような風を作り出してそのまま巡音を弾き飛ばし、弾き飛ばされた巡音は中央図書館の屋上からはみ出して地上へ落下しそうになるけれど白河君は水恩寺と廓井さんを無視して巡音の後を追い、柵の上からジャンプをすると巡音をまたしても間一髪キャッチする。

巡音が切りかかった軌道のちょうど真後ろから百舌に飛び掛かるぼくは、サンスクリット語が浮き出た右腕を思い切り伸ばし、巡音が吹き飛ばされたおかげで、ほんの少しだけ隙の出来た百舌の左胸の心臓部目掛けて突進する。

「いい加減に課外活動は終了だ。あんたのいう通り普通科にもちゃんと回路は眠っていたよ!」

ぼくの右腕はそのまま百舌の左胸をすり抜けて彼の心臓だけをがっしりと掴み取る。

ぐっと少しだけ力を込めると、灰色の空が一気に赤い夕焼けに染められた空へと変わり、ぼくと百舌はそのまま図書館の屋上へと落下する。

現実世界の図書館は何事もなかったように、夕陽に染められている。

灰色のコンクリートの上には、傷だけは残っているものの破損することのないままのレオタード姿のタオ、イオ、リオ、それから不適で君の悪い含み笑いをしている廓井芒理、悔しそうに地団駄を踏んでいる水恩寺がいる。

「おーい、佐々木殿、手を貸してくれー!」

屋上の柵の向こう側から白河君の声がするので駆け寄ると片手に巡音を抱えた白河君が校舎の壁にぶらさがっている。

仰天したぼくはタオ、イオ、リオの三人を呼び、なんとか力を借りて巡音を屋上へと引き上げると、白河君はひょいっと軽々自力で屋上にもどる。

二時間前とはなにもかもが違う白河君だけれど、なんとなく夕陽に照らされた彼はずっと昔からこの姿だったような気がしてしまった。

目を覚ました巡音とぼくは三人で抱き合いながら帰還の喜びを噛み締め合う。

「くくく。これは悠宇魔殿が喜びそうな話。油断していたとはいえ、まさか百舌が遅れをとるとは。水恩寺、百舌を起こしてこい。我々も戻るぞ」

水恩寺が近づくとふわっと直立不動のまま百舌は起き上がり東の空にうっすら残る一筋の飛行機雲を確認する。

百舌はエーテルを使い過ぎて疲れきったのかふらっと足元を崩し、左胸を抑えながら水恩寺の肩を借りている。

「やったー!」

「ばんざぁい!」

「やり遂げたー!」

「──ということで頂いていくね! ──」

そういうと、タオがぼくのズボン後ろポケットにいつの間にか収まっていた『Gilles Deleuze=襞』を、イオが巡音のブレザーのポケットに入っていた『純粋理性批判 カント-マンガで読破』を抜き取ってそのまま屋上の階段のほうへ走っていく。

光に包まれて消えてしまったはずの二冊の本だけはイドの中から持ち帰ることが出来たらしい。

すると、横尾先輩がいつものように第二ボタンを胸元まで肌消させ、屋上の階段から現れてスタスタと何も言わず、まるでこの時が来るのを計算済みであったように、まっすぐと百舌とぼくの落下地点付近まで歩いていくと、同じように夢の中から持ち帰って来たけれど、上空から落下した際にぼくのポケットから零れ落ちた銀色の鍵を拾う。

「三つのエーテル、百舌が不覚を取るとは少し彼らを甘やかし過ぎではないか。とにかく約束どおりこれは頂いておく。嫌な空気が混ざりこんでいるのだ、これ以上は好きにさせるわけにいかない」

「私の欲望はすべて満たされている。だからあそこから私自身が何を持ち出しても無駄なのだよ。件の一件、勘付いているのであれば君たちに敬意を払おう」

「私には君が『暗がり』に遠慮しているように見えるよ」

「なぁに。少なくとも私にはまだあと一年余分な時間があるさ」

百舌がそういうと、彼女は百舌から離れ横尾先輩はぼくのほうへと近付いてくる。

「ぼろぼろだな、佐々木和人二等兵、いや、もはや大尉とでも呼ぶべきだろうか。見違えたぞ、──男子三日会ワざれバ刮目してみよ──だな」

白河君と巡音となんとか灰色の空間から脱けだすことが出来た喜びではしゃいでるぼくはこちらに近付いて話しかけて来た横尾先輩のほうを向き直る。

彼女は最初に会った時よりずっと真剣な顔でぼくに話し掛けてくる。

「横尾先輩、まさかあなたが仕組んだこと、ではありませんよね? 『スリーアクターズ』の三人がもっていった本。何を企んでいるんですか?」

「勘が鋭いのはいいことだ、けれど深入りは身を滅ぼすぞ。とはいえ、彼ら二人を見る限りもはや無関係とはいえないか」

狐姿の白河君と、剥き出しの『鬼丸国綱』を持つ巡音をみる横尾先輩。

「そうかもしれません。けれど、切り開く必要があれば自ら選び取るだけです。難しく考える必要はないと思います」

あははと横尾先輩が無邪気に笑い──まったくその通りだ──と小さく呟く。

「時計の針が六時ちょうどを指している。七限が終了する時間だ。これ以上長居すると星が降ってくる。君にインストールされた回路は果たして我々に近づくことが出来るかな」

そんな意味深な言葉を残して横尾先輩は階段の入り口で待っているイオ、タオ、リオの元に歩いていく。

とても嬉しそうに三人が深愛先輩に近付いてはしゃぎ回って、そのまま四人は深愛先輩を先頭にして屋上から出ていってしまった。

隣では白河君が跪き、巡音に忠誠の証を示していて、侍魂と見た目のバランスがばっちりとれた白河君を微笑ましく思ってしまう。

と、そんな和やかな空気の隙間に忍び込むようにして、ポケットにいれたスマートフォンから着信音が聞こえたので取り出すとメールが届いていてそういえば昼間、芹沢さんとアドレス交換をしていたことを思い出す。期待と不安を入り混じらせてメールを開ける。

【芹沢@今日は本当にありがとう。とても助かりました! 今日のことは二人だけの秘密にしよう!我侭なあなたの過去より】

ちょうどぼくらが魔術科棟に入る前の時間、十六時三十七分に届いていたメールはぼくに大切な何かを忘れていたことを思い出させ、夢の中で出会った死者や成し遂げた試練、たくさんの思い出の中に浸るようにして、ぼくは周りの喧騒を切り離してゆっくりと目を閉じる。

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