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05. You Hedonic

麦藁帽子を被り、麻製の長袖シャツを白いタンクトップの上から羽織り、茶色いハーフパンツに革のサンダルというこの季節にしては少し薄着の巨漢が身体と同じぐらい巨大なリュックを背負い、リュックの上部からはみ出した『マンドラゴラ』を左手で掴み取るとぱくりとそのまま頭からかぶりつき、『マンドラゴラ』のあげる悲鳴ごと飲み込んでしまう姿をセンター街入り口の監視カメラが動いてジジジという音がした途端に映像が捉える。横尾深愛は無数のモニターで囲まれた自室でぶつぶつと独り言をいいながらばくばくと錠剤を飲み込みガリガリと噛み砕いている。

「『ゼツ』ゲットォ!!Y&sでは最高級の少女ばかりを厳選してお届けしますっ(ハート)」

生放送中継をストリーミングしている横尾深愛はすぐさま指令を出してミッションを遂行出来るメンバーを募っている。

あっという間に集まり始めたメンションによって横尾深愛の指令──『ゼツ』から赤い『マンドラゴラ』を奪うこと──に続々と参加表明が集まり始めている。

「やっほー! 聞こえてるぅー?」

「今はスペイン坂スタジオをハッキングしてるよー」

「今日は偶然絶後の勘違い野郎をとっ捕まえろ!」

「──ということでスリーアクターズがお送りします! Re―EGGスタート! ──」

突如始まった土曜日十四時の渋谷駅周辺の電波ジャックにより、スクランブル交差点前の3つのモニターに賞金百万円の文字と赤い『マンドラゴラ』の写真が映し出されている。

ジャックされたスクランブル交差点前の電光掲示板が再び通常の広告表示に戻ると同時に音響的に生成された甲高い『マンドラゴラ』の悲鳴が渋谷の街中にこだまする。偶然映像を目撃した人々が耳鳴りの収まるのと同時に騒ぎ始める。

あっという間に渋谷駅周辺にいた若者たちの間に『ゼツ』の姿と形が拡散されるとスマートフォンの画面に送られてきた写真を表示する人々が彼を求めて走り回り始める。

西武Loftの歯車のオブジェ前を悠々自適に通り過ぎる『ゼツ』は騒ぎ回っている人々を尻目に坂を登り、『鼠』と家鴨と番犬が踊り狂うビルへと入ろうと、ゲプッと『マンドラゴラ』特有の鼻につく刺激臭を渋谷の街に撒き散らす。

彼とすれ違い臭いを嗅いだ青いキャップを被ったエルサイズのパーカーの二十代前半の若者が手に持ったスマートフォンの写真を見て走り出そうとしたけれど、我に帰りパルコ方面へと方面へと気分の悪そうな顔をして歩いていった。

「おーけ。タオ、『ゼツ』はツテヤ前で発見。イメージを切り替えて鼠か家鴨と勘違いさせて取り憑かせるつもりだろう。奴の恒例の悪癖だ。見逃してかまわんが追跡は続けるぞ」」

「りょーかい! 深愛姉様の言いつけ通り我々は記憶の残骸の山から奴の匂い辿ります。マオ、準備はおーけー?」

「ふぉーい、もんたいなしれーす」

ガスマスクを被ったお団子頭のマオが金属バットを構えてと渋谷スクランブル交差点の駅とは反対側で待機する。

「リオ、ツテヤ二階の監視カメラに『ゼツ』が映り込んでいる。およそ四二五秒後に公園通り側沿いに現れるものと思われる。念の為、入り口付近のスプリンクラーをハックしておく」

「はーい、ミオたんの為ならどんな苦労もなんのその。このドローン一応耐荷重四十八キロですっ! 減量とノーパン効果で結果―二百グラムでクリア! 勝ったら焼肉たらふくくうぞぉー! おぉ!」

各デパートやショッピングモール映画館の店員に紛れ込んだY&sのメンバーが一斉にアクロバッティックなスタント映像のストリーミング動画にメンションを送り込む。

あっという間にストリーミング映像が野次馬たちのコメントで埋め尽くされる。

「よし、中継問題なしだ。会員ナンバー二十七番、店内の商品に不自然な動きはないか?」

「こちら二十七番。店内の商品はいつも通り家鴨が鼠と戯れているだけで全くつまりません」

ぬいぐるみやメルヘングッズで埋め尽くされた店内を『ゼツ』は誰にも発見されることなくゆるりと見渡しながら歩き回る。

店内奥で、着ぐるみを着て子供に意地悪な質問をする鼠の様子を確認すると、今朝方作製されたばかりの『インスタントビースト』を二倍濃縮させたものを常識の皮を被ることに慣れてきた溝鼠のそばに置かれたアイスコーヒーの中に流し込む。

「今回は二匹混ぜておく。ペアで持ち帰れることが出来れば永遠に夢の中だ。自分から目覚めて出て行こうとする気持ちすら湧くことはないだろう。どうか二人に幸せが届きますように」

会員番号二十七はいつのまにか入れ替えられた彼女の視覚情報に気付くことがないまま2匹の醜悪な姿をした『マンドラゴラ』を手に取り、店内で一番目立つデコレーションをされたエリアに鼠と鼠の彼女を中心に置く。『ゼツ』はその様子を見て満足したのかゆっくり階段を降り1階販売エリアへと向かう。。

「今階段付近で術式への接触感知しました! タオニャン流忍術『隠れ木の葉破り』発動まで、後二十秒!」

一斉にストリーミングとRe―EGGの三人の実況中継でカウントダウンが始まり出して、またしてもハッキングされた監視カメラがスクランブル交差点の電光掲示板に公園通りのメルヘンゲート前を映し出す。

マオは準備運動でもするかのようにガスマスクを被ったまま金属バットで路上の野次馬と迫り来る未来を威嚇している。

15!

14!

13!

「おっけー!準備完了! 一発逆転ホームラン、マオ選手が狙っちゃいます!」

10!

9!

8!

7!

6!

5!

「ようやくスクランブル交差点上空に到着!カメラおーけーですっ!」

3!

2!

1!

「──かっとばせー! きよはら!──」

ガスマスクを被ったマオの思いきり振りかぶった金属バットが豪快に宙を切る。

マオはそのまま勢いでぐるぐると回転してその場に転ぶ。

金属バットの風切り音を左耳のすぐそばで確認した『ゼツ』はその場で立ち止り、局部を露出するとそのままマオに向かって放尿する。

「うぺぺっっ! ゴボゴボっ!ウウウ!」

ガスマスクに混入して光沢のある液体で窒息しそうになったマオが転げ回るようにガスマスクを外して這い蹲り吐き気を催している。

「たいへんですー。末っ子がお嫁に行けなくなりましたー。現場にこのままズームインー!」

上空五十メートルの地点で改造ドローンを背負ったリオのヘッドカメラが公園通りであられもない姿を晒しているマオの様子が配信されると一気にアクセスカウンターが跳ね上がり、無数のコメントで画面が埋め尽くされる。

「ノーヒットノーランとは行かないな。タオ、マオを漫画喫茶にでも連れてってやれ。※1スラムダンク全巻読み終わるまで出てくるなと言ってやれ」

「りょうかいー。タオニャンはこのままバイクで現場に直行しますー。渋谷駅前がすんごい人だかりですー」

ハックされた映像は、Y&sが提供する人気ストリーミングコンテンツ『スリーアクターズ=Re―EGG』の三人が際どいスタントをこなす広告動画が映し出されて、マオ、タオ、リオの三人が揃う映像が流れた後に通常の広告映像に切り替わる。

──get up,stand up kids 5/15 on sale! ──

電光掲示板には、人気歌手ウニカの最新音源が発売される広告が映し出されておよそ一分半の映像にスクランブル交差点を訪れた沢山の人びとが釘付けになる。まるでさっき流れたアクシンデント映像なんて誰も何も覚えていなかったように。

「※2たちあがれーたちあがれーがんだむー」

とおかしな歌を歌いながら茫然自失のまま涙を垂れ流すマオがタオに背負われてゲームセンターの横の漫画喫茶に運び込まれる。

リオは上空からふらふらと改造ドローンで術式探知GPSで『ゼツ』を探し続けている。

横尾深愛は隠し持っていたカードの一枚を切るように監視カメラで瞬間的に捉えた『ゼツ』の映像を、ストリーミングを見ている視聴者とY&sのメールが送られた渋谷支部のメンバーに賞金百万と赤い『マンドラゴラ』のフライヤーと供に送り届ける。

──赤いマンドラゴラ』はコイツのリュックの中! 絶対つかまえろ! ──

バリボリバリボリと錠剤を噛み砕きながら、なりふり構わず横尾深愛は一週間風呂に入っていないためかぼさぼさになった頭をかきながら『ゼツ』を捉える渋谷周辺の監視カメラの画像を送り届ける。

『記号と配列の魔術師』横尾深愛は、『ゼツ』と呼ばれる渋谷を始めとした人口密集地帯に現れる『透明な絶望』を運ぶ行商人が裏社会で破格の値段で取り引きされている『赤いマンドラゴラ』を所持しているという情報を確認し、彼からそれを奪い取る為に、何故か一般の人間には視認することが出来ない彼の姿を捉える為に開発した陰陽魔道感知監視システム『パノプティコン』を利用して、無数の監視カメラと町中に配置された『ゼツ』の好物である『マンドラゴラ』特有の悪臭感知を利用したGPSで、彼の座標情報を瞬時に立体画像化することでミオのPC内にデータが送信され続ける。

彼女はその情報を彼女のことを崇拝する会員へ3Dモデリングされた『透明な絶望』の姿をメール送信することで、彼の現在位置を特定しようと試みる。

「パルコ前!」

「スペイン坂だって!」

「幸楽前通ったよー!」

「今109!」

「うそ! さっき東急前だよ?」

様々な情報が錯綜し、スマートフォンを手にした土曜日の渋谷周辺に集まった人々が送られてくる画像データを頼りに『ゼツ』の姿を確認しようとする。

都市伝説のような噂話に翻弄される人々が熱狂して、まるで渋谷中で行われるスタンプラリーのように歩き回り走り回り探し回り続けて渋谷の街が一つのうねりの中に呑まれていく。

「あー空から見ると、道玄坂小道に不自然な影発見。ぜったいあそこっすー」

「タオも合流開始。道玄坂小道の道玄坂方面出口をメンバー使って封鎖開始しますー」

目に見えない熱狂が歩き回り、スマートフォンをかざす人々がまるでツチノコでも見つけるようにして伝説上の存在が確認される瞬間をひと目みようと集まり続ける。

いつも通りの渋谷の街が『透明な絶望』を追いかけ回しているけれど、本当のところは誰も何を探しているのかまるで理解していない。笑顔と怒号が町中で聞こえてくるけれど、『ゼツ』はそんな彼らをすり抜けるようにして地下にあるwild oneと書かれたアダルトショップに入る階段を下り、店員は誰も気づくことのない彼の姿はそのまま裏口へと抜けると彼がいつも利用している下水道への入り口へと降りていき、『ゼツ』は渋谷の街の地下を縦横無尽に走り回る下水道ルートをとって、目的地へと直行しようとする。いつまで経っても何も姿を現さないことに業を煮やしたたくさんの人々が不審さを察知したアダルトショップへと侵入し、wild oneは『ゼツ』の画像と百万の賞金に踊らされた人々で溢れかえり、呆気に取られた男性と女性の店員はレジ横にある催淫剤を飲み干してキスをする。

「エンタメはこうやって作るんだ。彼らは何も求めてなんかいない。この『透明な絶望』だけが欲しいんだよ、シオリ」

ミオは薬を食むのを辞めて、七日ぶりの風呂に入ろうと服を脱ぎ、Dカップの乳房が露わになる。

たぶん、今日は夜通しなまった身体を思う存分働かせることになるだろうとタオとマオとリオにメールを送る。

「──りょうかい。いい仕事はいい食事からってことっすね──」

『ゼツ』はリュックのポケットから夜光虫を取り出して真っ暗で何も見えない渋谷地下の下水道を仄かに照らして歩いている。

サンダルを履いた素足にたかる得体の知れない虫たちなどまるで意に介さず、てくてくてくてくと真っ直ぐに目的地へ歩き続けている。

二十メートルほど歩いて大きな通りより細くなった通りを左に曲がると、汚水が流れる路の真ん中で肩ほどまで伸ばした髪の老人と薄汚れたぬいぐるみを抱いた女の子が立っている。

「おはようございます。お元気ですか。いつもあなたにはお世話になりっぱなしですね」

「──ぼくはね、価値もないし才能もない。だから君みたいなものはみたくない──」

老人と女の子はまったくずれのない言葉を同時に話し、『ゼツ』の訪れを歓迎する。

「今日はこの先に用があるのです。通して頂くことは出来ますか」

「──食うものなど何もないんだ。飲める水も糞と要らない歌が混ざった足元の水だけだ。何が欲しいんだ。言ってみろ──」

「わたしのせいにしてもらっては困ります。あなたの肌が不必要なヒエラルン酸を注入されて若さを保ったままなのが何よりの証拠。それが『鼠』と『蜚蠊』の運命ではないですか」

生まれつきの問題を指摘された老人が少しだけ憤り、ぬいぐるみをもった女の子がハッと何かに気付いて抱いているぬいぐるみを片手でぶら下げる。

薄汚れたぼろぼろのぬいぐるみは汚水に浸かってまるで泣いているような顔をしている。

「歯車とお前まで呼ぶか。わたしは足元がずっと濡れている」

ぬいぐるみももった女の子はえんえんと泣きべそをかきだして、老人はきぇぇぇと奇妙で聞くに耐えない声を吐き出して辺りに集まっていた 下水道の生き物たちを呼び集めている。

けれど、『ゼツ』のことは誰も何も見つけられず、下水道に住む生き物たちですら餌の在り処が分からず『透明な絶望』に呑み込まれている。

『鼠』と『蜚蠊』はなにもかも諦めると来た路を引き返してびしょびしょと汚水で塗れた通りを戻っていく。

右側の小さな非常扉を『ゼツ』は見つけると鉄製の扉をあけ、小さく細い階段を太った身体とぎゅうぎゅう詰のリュックでなんとかすり抜けるようにして階段をあがっていく。

「あら。もうこんな時間ですか。いつものように準備は出来ています。ゼロ。イチ。ゼロ。イチ」

真っ白な顔をしたT2003系が入り口の扉の前に一人分の小さなカウンターの中で淡い光の元で座っていて、果てまでやって来た『ゼツ』に書面上の手続きを始める。

T2003系の周りをちらちら飛んでいるのは『クロアゲハモドキ』と呼ばれる妖精の仲間で彼女の笑い続けることしか出来ない病気をうつしそうな鱗粉を撒き散らしながら、T2003系の頭の上を滑り台がわりにして遊び回っている。

「ありがとうございます。野菜は十分に用意しました。皆様でご自由にお楽しみください。もちろんジュースもたくさんありますよ」

「うふふ。みんな喜ぶと思います。これ。お前。これを先にB2へ持って行ってあげなさい。ゼロ。イチ。ゼロ。イチ」

205系はオートマチックハンドと呼ばれる機械の指で書き込んだ書類をクロアゲハモドキに手渡すと、彼女はふわりと鱗粉を撒き散らして半開きの扉の隙間からさらに向こうの階段を飛び上がっていく。余計な感情を読み取って誤動作を引き起こさないように二進法で思考する205系はパチクリと浄瑠璃人形みたいに瞬きをしてベッーと出した舌からチケットを吐き出して『ゼツ』はチケットをもぎりとって階段を登っていく。

扉を開けるとしわくちゃの顔をした子供の姿をした背の小さな大人が二人ほど迎えに来ていて『ゼツ』の手を引っ張って上の階に連れていこうとする。キャーギャーキャーギャーと騒ぐ声が上の階から聞こえて来るので、『ゼツ』はリュックの中から『マンドラゴラ』を取り出して半分にへし折ると大昔から伝えられている通り聞いてしまってはいけない『マンドラゴラ』が絶命する瞬間の金切り声が暗くて細い薄汚れたコンクリートで囲まれた階段をかけあがっていってB二階から聞こえてくる騒ぎ声が鳴り止ませてしまう。

「うるさいうるさいうるさいうるさい」

「いやだいやだいやだいやだいやだ」

どうしても大人の声を聞きたくないと主張するように両手で両耳を塞いでうずくまってしまったキヨコとサダヲは動かなくなってしまったので、『ゼツ』は彼らと同じように彼らの話には特に耳を傾けずに上へとあがる。

「支払うべき対価を先延ばしにすると音速を超えようとしてしまうんだ。君たちはアイルトンではない。刹那を生きることは出来ないんだ」

天井だけが妙に高いB二階のリビングルームには同じように耳を塞いで動けなくなってしまった老人の顔をして子供の身体の大人たちがたくさん蹲っていて──夢は終わりました──とか──ぼくたちは生きようとしたくありません──とか──呼吸をするのが面倒です──とか──ざまぁみろ、お前は子供のまま死ぬよ──とか──もう諦めてくださいね──とか赤や青や黄色や緑のクレヨンで真っ白な壁に書かれた悪戯書きで埋め尽くされていて彼らが伝えたいと願った主張が無数に記されている。

「逃げ場所を失ったことを曖昧なまま歌い続けるか」

「ぼくは脳が変形しているんだ」

「聞こえない時間のことは考えられない」

「大人であることから逃げるのならば有用な問題も存在しているだろう」

「汚れた空気にはもう慣れたのに」

「ようやく憎しみをみつけたのに」

「たとえ痛みが継続しても出口は見つけられないはずだよ」

「話し声に反応する耳を捨てたい」

「勝手な誘惑に取り憑かれたい」

「逃げた先で欲情に溺れたまま過ごしたい」

『ゼツ』はそうやって禅問答のような時間を色とりどりの主張で埋め尽くされた空間で蹲って耳を塞いだままの未完成たちと答えも出ないまま続けていると、犬や猫の置物たちが騒ぎ始めて傷跡についての哲学的な瞬間を重ねようとしている。

積みあげられた無為と無作為が天井まで届いてしまう頃になると、言葉の在り処が分からなくなってしまった未完成たちがアルゴリズムで制御された正確な自由運動を定義し始める。

「お前たちの歪さを正確な模写を習得したものたちと同化させることは出来ない。自由運動に法則性が存在していることすら理解出来ないのはお前たちが未完成だからだ」

天井に取り付けられたスピーカーから声が聞こえ始める。

「では、正確に模写された自由運動はどうなるのですか」

「私が『田中太郎』という名前を保有していた場合、成長に存在しているのは模写という過程であるのかという問いは理解出来るか」

右のスピーカーの次は左のスピーカーから声がする。

「硬直したまま生きればいいのですか」

「それこそが本質だ。三十年の歳月をお前は束縛に捧げることが出来るのか」

ステレオスピーカーが正常に機能して天井から声が聞こえる。

「では本能に身を焦がして生きることにします」

「そうして何もかも捨てて何も選ばず不可能性を追求し続けるのか」

禅問答が終了すると、シュレッダーでばらばらに分解された書面を確認して、『ゼツ』は普遍性を手に入れて地下一階へと階段を登る。

『クロアゲハモドキ』はいつのまにか駆除されてしまったのかもしれない。

地下一階にいるのは、おそらくスピーカーから聞こえてくる声の主で心の病を放置していた為に管理職を任された子供たちが担当しているのだろう。

階段を登るのを躊躇しているのは幽霊たちで発展的停滞の為に用意された儀礼上の階段だということを『ゼツ』は知っている。

「恨めしい。憎らしい」

「なぜ捨てるのだ。なぜ奪うのだ」

「どこまでいく。連れていかないか」

「忘れてしまった。壊れてしまった」

「お前など興味がない」

壁に埋め込まれた想念が呪いの言葉を『ゼツ』に投げかけてきて、彼の足取りも重くするのだけれど、肉体と精神の違いについて正確な理解をしている彼にとって想念たちがしがみついている精神的s負荷など無いに等しいということを判断して払拭する。

巨大なリュックの中で目を覚まし始めてしまった『マンドラゴラ』たちを新鮮さが維持したまま提供出来るように階段を登るのにきつかったとしても決してリュックを下さずにずしりとコンクリートの階段を彼の身体の重みでめり込ませながら一歩一歩、発展的停滞によってひび割れたコンクリートの階段を登っていく。

地下一階の部屋に入る扉を開けると、奥に大きなデスクがあり、周りは無数のぬいぐるみたちで埋め尽くされている。

熊、兎、狐、鼠、虎、ライオン、狸に、恐竜まで部屋の中に散乱していて、中央のデスクには黒髪の外国の顔をした鼻の高い女性が蒼い目をしてパソコンの前で作業をしている。

外国の顔をした下水道に残された思念が統合された実存情報体は爪を噛みながらマウスをクリックして夢の国に訪れた今年の入場者数をカウントしている。

「あぁ。くちおしいぃくちおしいぃくちおしいぃくちおちしぃ、ほんとうにくちおしい。どうやってこの想いを晴らしてやるべきかどのようになんとこの言葉にするべきかこの溜まりきり腐りきった膿のような腐敗物を。あぁ。ほんとうにくちおしいぃ」

彼女がぬいぐるみの兎に向かって病み切った声を放つとケラケラと嫌味な笑い声で一斉に部屋中のぬいぐるみたちが騒ぎだす。国家にすら見捨てられたNPO法人によって運営されている『残留思念開発室』室長、蠱ノ下狗瑠美は依然として発動条件とコストに見合わない怨念の纏わりついた魔法の樹ばかりを魔法生物管理区域『ion』から輸入している。

『ゼツ』は彼女に届けるべき、野菜とジュースと『マンドラゴラ』の入ったリュックを肩から降ろして、蓋をあける。

ぴたっぴたっとまだ新鮮なままの『マンドラゴラ』は手足のような根っこをばたばたさせて床を叩いている。

一つだけ混じった『赤いマンドラゴラ』はすっとそのまま立ち上がり、蠱ノ下狗瑠美のデスクまで歩いていき彼女のところまでよじ登ると丁寧に挨拶をする。

「この度はぼくらを引き取って頂きとても嬉しいです。これからぼくらのことをよろしくお願いします!」

とても可愛くお辞儀をして挨拶が出来たので蠱ノ下狗瑠美は爪を噛むのを辞めて『赤いマンドラゴラ』を彼女の胸元に引き寄せて抱き締める。

苦しそうな『赤いマンドラゴラ』は文句ひとつ言わずに彼女の愛を受け取っている。

「よかった、ここでもきちんとお友達を増やせそうだな」

『ゼツ』はその他にも真空パックされた大量の野菜や適切な配合を施されたジュースを蠱ノ下狗瑠美のデスクにどさっと置いて、周りにいる実は本当は命なんて持ったことがないぬいぐるみたちがざわざわと騒ぐ様子をみて気味の悪い笑顔をこぼす。蠱ノ下は手元の電卓を叩いて算出された数字の〇の多さににやけ笑いが止まらずに彼女の後ろに置かれている大きな金庫の暗証番号をカチリカチリという音と共に合わせる。

中にはたくさんの紙切れが入っていて、新聞紙を長方形に切って束ねたものが山のように積まれている。

彼女はそれを一つ手にして一枚一枚数えながらとても真剣な眼差しをしている。

『ゼツ』は今回も長い旅をして『透明な絶望』を届けることが出来たことを少しだけ誇りに思いながらも一息をついて話し出す。

「ところでシナモノはうまく出回っているか」

「特に問題がないぐらい私自身はとても気持ちの良い時間ばかり過ごしているわ。それがどうしたのかしら」

「そうか、それはよかった。だが、一つだけ忠告がある。『マンドラゴラ』の配合比率に関する問題だが、二十九パーセントを上回る配合は血液中の循環率が極端に低下し、顧客の要望に対して満足な成果を上げることが出来ない。中毒率も酷く低下する恐れがある。たとえ他の薬剤で成分と効能を調整したとしても、それでは販売効率は定数を維持出来ずに顧客を効果的に確保することが阻害される恐れがある。配合比率による純利益の追及は敬意を払いたいが『マンドラゴラ』は純粋無垢な生き物だ、手間暇を惜しまず接して頂きたい。とにかく、くれぐれもこちらで用意した配合比率を極端に逸脱する行為は控えてくれると助かる」

部屋の左手の棚に置かれた水色の『インスタントビースト』は最近都市部でよく見られるより中毒性の高い強烈な作用をもたらすタイプで『薬局』を中心に爆発的な広がりを見せている。

けれど、獣人化の影響が薬理効果の消えてしまった後も残り続けるなどの副作用がぽつぽつと確認されて深刻な社会問題を引き起こしている。

「ふん。どうやらそのようじゃの。あぁ、口惜しいわい。あれを求めてくる男の代わり映えする姿が見ていて本当に楽しいとうちで雇っているバイト供が笑っておったわい。せっかく福利厚生費を削れると思ったのにのう。なぁ、おい、なぜ人は薬を求めるか知っておるか」

『ゼツ』は蠱ノ下狗瑠美の暇つぶしに付き合おうとしない。

「……」

「本当はどれもこれも一緒だと心の奥底では知っておるからじゃよ。特別なのはせいぜいお前ぐらいのものじゃ、なあ、『透明な絶望』」

そうやって蠱ノ下狗瑠美が話すことも笑うことも泣いたりすることもないたくさんのぬいぐるみに囲まれてデスクの上で数えている希望がちょうど百に達したという事実に安心しきった顔で前を見ると、もう既にそこには誰もいなくて、『赤いマンドラゴラ』だけがしわくちゃの顔をして萎びた身体を兎のぬいぐるみにもたれかけさせている。

配合比率さえ間違えなければこの『赤いマンドラゴラ』で作ったジュースはきっと飛ぶように売れることになるだろう。

彼女は古いトランジスタラジオにチューニングを合わせて流行歌を聴きながら口ずさむ。

「さっきのお客さんは本当は目が見えていたんじゃないか」

1階の『薬局』の店内スピーカーから──get up stand up,kids──が流れていて、色とりどりの『インスタントビースト』が薬理効果の説明付きで販売されている。

白衣を着た老人がカウンターに立ちながら接客をしている店内は若者やサラリーマンやカップルで賑わっている。

蝙蝠の刺繍の黒い眼帯をした芹沢美沙はその中でも赤い血の色をした『インスタントビースト』を手にとる。

『Loveless』と書かれたガラスの小瓶には、ドラキュラのように牙の生えた男のイラストが書かれていて、澱みのない真紅の液体が入れられている。

芹沢美沙は彼女の記憶に関する問題を真紅の液体で刺激されたような気がして、ガラスの小瓶を手に取ってレジに運ぶ。

小さな茶色い紙袋に『Loveless』を詰められ手渡され彼女はそのまま店を出る。宮益坂の中途にあるピンク色に染められたお店の反対側には、大きなクレーンが見えて夕方十七時になろうとしている空の色が少しだけ赤く染まり、足場が組まれた神山一丁目の建築現場では『都民の城』改築工事が行われている。

芹沢美沙は一眼レフカメラを構えて夕陽に染まる空を背景に新しく都市に組み込まれる死者たちの形をフレームにおさめた。

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