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「崇人。お前に付き合わせられて、頭のおかしい女と待ち合わせする羽目になるなんて思わなかったぞ。こいつはどう考えても俺たちとは違う世界に生きているやつで、俺はこいつのことをテレビ画面の向こう側でみたことがある。何を考えてやがるんだ?」

六蟲憂鬱は待ち合わせした暗めの照明のバーでスコッチウィスキーを飲みながら、遅れてやってきた手塚崇人に珍しく愚痴を溢している。ガシャドクロの刺繍がされた緑色のスカジャンをきてオールバックの手塚崇人の隣にはバケットハットを深めにかぶり人目を避けるようにしてとても居心地の悪そうな顔でポプリが六蟲憂鬱に挟まれたまま座っている。銀色のハミルトンのDigital Quartzで時刻が22:47であることを確認して手塚崇人はポプリの顔を覗き込む。

「時間は間違っていないどころかぴったりだ。こいつがここに来るように俺は細工をしていたし、お前の梟の刺青が疼き始める時間に合わせておれはこの女を連れてきたんだ」

手塚崇人はボール状の氷が入ったロックグラスの茶色い液体で喉を潤すと、木製の広めのカウンターの上に置かれていた赤いサイコロを宙になげて掌に握ると、ポプリに数字を当てさせる。

「なんでズルしたりするんですか。サイコロのはずなのに数が一つ多いです。私は十草総悟って男の人のことを聞きたくてきたのに」

六蟲憂鬱と手塚崇人は顔を見合わせて表情を硬直させると、お互いにポプリを挟んで指を差して苦笑いをしてその場の雰囲気を誤魔化すように手塚崇人が掌を返して、円印の七つ入ったサイコロの面を上にしてポプリに見せる。六蟲憂鬱は木製の器に入ったミックスナッツを口の中に放り込むと、銀色のUSBをカウンターの上に置いて観念したように話し始める。

「そうか。お前は目がいいらしいな。よくよくみると、確かにあいつと同じ眼をしてやがる。けど、それでもだめだ。お前は総悟に会うことは出来ない。居場所を教えてやってもいいが、たぶんうまくいかない」

「あぁ。そういうことですか。なんとなくわかります。それ。けど、それでもいいから会いたいって思ってリビングルームのテーブルにしまい忘れていたCD-Rケースに挟まっていた電話番号に連絡したんです。そしたらこの人と繋がりました」

ポプリは左側に座っている手塚崇人を指差して、カウンターの上にもう一つだけ転がっていた青いサイコロを宙に放り投げて右手の甲で捕まえて左手の平で蓋をする。手塚崇人が指を三本立てて、ニヤけるとポプリは残念と一言呟いて左手の平を離すと、赤と青の両方のサイコロがのっていることを六蟲憂鬱と手塚崇人の両方に見せる。手塚崇人は両眼が飛び出てしまいそうなほど驚いて二十代前半の女の子に手玉にとられていることを自覚する。

「いつのまに俺の手から盗んだんだ。青いサイコロのほうは回転速度と落下距離を測れば出る数字ぐらいは簡単に読める。だが、赤いサイコロのほうが掌にあるのはともかくなぜ四が出る。七と交換してあるはずだぞ」

ポプリは紫色のニットスカートのポケットに手を突っ込んで色とりどりのサイコロをカウンターの上にぶちまける。音を立ててサイコロが転がって、七の面がでた黒いサイコロを手に取ってポプリは手塚崇人に手渡す。ひどく悔しそうな顔をしながらも六蟲憂鬱はカウンターの上に置かれていた折り紙で鶴を降り、ポプリの前にさりげなく置く。

「そういうことだ。崇人。俺たちの負けだ。残念ながらこいつは知りたい情報が得られるまで俺たちのことをこき使う気だろうな。お姫様はご機嫌斜めってやつだ」

「その痣は奇子か。あいつにとっちゃ時間なんてないのも当然だ。だが、どうやって抜け出す気だ。奇子の呪いはあいつが笑顔になるまで解けることはない。大抵は呪われた奴が死ぬまで続くぞ」

「そうやって冷たくするからですよ。あの子はけっこう笑います。私はこれで三度目だし、慣れていますからお気遣いなく。見えない人に会う必要がやっぱりあるんですね」

セーターの裾からみえていたポプリの右腕の黒い痣を見ると、手塚崇人が笑うのを辞めてジャケットのポケットからトランプを取り出してカウンターの上に裏返しで広げる。ポプリはカシスオレンジの入ったカクテルグラスを軽く揺らしながら一口だけ飲むと、広げられたトランプから一枚だけカードを引いて手塚崇人の目の前に絵柄の方を表にして見せる。

「スペードのクイーン。悪運も強運も幸運も何もかもお前の味方って訳か。だとしたら俺に勝ち目はないな。奏に会う必要はお前にはないだろう。そうなると、兎か一つ目か。俺たちがしてやれるのはそれぐらいだな」

ポプリのセーターの胸ポケットを指差して手塚崇人は立ち上がり、カウンター席の後ろの席に座っているサメ型のリュックを背負った女の子が以前にどこかで見たことがあるようなちらりと一瞥した後にトイレに向かう。ポプリが黒いニットセーターの右胸のポケットを覗くと、ハートのキングのトランプカードが入っていてとても感心したように彼女はトランプの裏と表をよく観察する。六蟲が何かに勘付いてポプリからハードのキングのカードを奪い取って手塚崇人の座っていた席のほうへと滑らせる。

「こんばんは。子供だと油断していた六蟲は早々に降参したってところかしら。手の内を簡単に見せないところがあなたらしいわね。ところで、可愛いお嬢さん。お姉さんたちのいる場所は一度でたら入れない場所かもしれないわよ。長居していてもいいのかしら?」

いつのまにか手塚崇人の座っていた席のすぐ隣にはコートを脱いで鮮やかな赤いワンピースを着た目の覚めるような美人が座っている。ポプリはすぐに彼女の嫌な気配に気付いて、吸い込まれるような彼女の黒い瞳のほうとは決して目を合わせないように気をつけながら俯いて六蟲の追ってくれた鶴を手に取って眺める。

「黒生さんも人が悪い。ぼくたちみたいなやつらをからかってどうするつもりなのかな。黒藤さんのところに連れていったところで、彼女じゃ大した金にはならないでしょう」

「あら。失礼ね。お金はもう十分に私はもっているわ。黒藤も黒園も彼女には興味がないんじゃないかしら」

「そうですか。それなら出来たら放っておいてもらえたら助かります」

「うーん。それでもいいのだけど、この子。すごく面白そうじゃない。そうね、憂鬱君。よかったら、一つ賭けをしてみないかしら。いつも女の子の騎士になろうとする君なら乗ってくれると思うわ」

手塚崇人がトイレから戻ってきて彼の隣の席に座っている赤いワンピースの黒生夜果里に明るく話しかけてご機嫌を取った後、千円札を前にカウンターの上に出してバーテンダーにいつものやつをと頼んで自分の席に座る。手塚はそのまま調子のよさを維持したままバーテンダーに話しかける。

「夜果里さんはね、このポプリって子に嫉妬してるんですよ。仮にもテレビの向こうで普段は恋だと愛だのを歌う生粋のミュージシャン。自分とは違う華やかな場所を生きる女の子ってやつだ。だから珍しく夜果里さんはないものねだりをしている」

「そうね。もし選ぶことの出来る道がいくつもあったのなら、私はレッドカーペットの上を歩いてたくさんの光と称賛を浴びて私ではない自分を演じようと思ったかもしれないわね。ところでポプリさん。いえ、七星亜衣さん。黒猫って知っているかしら」

六蟲が身をのけぞらせて天を仰いで、崇人がバーテンダーだからジンリッキーを受け取って黒生夜果里に手渡そうとしたところでまるでよく冷えたロックグラスの中に浮かぶ氷のように固まってしまう。ポプリがカウンターの向こうのボトル棚からマッカランの12年ものを見つけると、バーテンダーにソーダで割り、レモンを一つ入れてくださいと頼んでグラスの中に残ったカシスオレンジを一気に飲み干す。

「黒猫?私は猫よりも犬派なんですよ。懐いたとおもったら次の行き先を探して飼い主のご恩なんて忘れちゃう礼儀知らずの生き物なんかよりずっと扱いやすい」

七星亜衣の黒いバケットハットには猫のシルエットが白くプリントされていてポプリはバーテンダーから手渡されたマッカランのソーダ割に口をほんの少しだけつけてカウンターの上に置く。六蟲憂鬱が身を乗り出して手塚崇人は頬杖をつくと、ポプリは黒生の方へ向き直り、彼女の黒くて吸い込まれてしまいそうな瞳と視線を重ねようとする。

「そう。黒猫。彼と会うことが出来ればお目当ての男性にぐっと近づくことが出来るけれど、そうね。簡単にいえば通行料が必要になるの。対価は人それぞれ。例えば、崇人くんは光をごっそりと奪われたわ。彼は人には見えないものがたくさん見える代わりに、ごく当たり前の日常は二度と訪れない」

「そうだ。こうやっていつも面倒ごとにいつのまにか巻き込まれている。そこの馬鹿と違って俺は好きでこんな場所に来たりしないからな。サイコロをいくら転がしたって神様も悪魔も嫌がらせをする」

「引き寄せの法則って知ってます?不幸を呼び寄せちゃう男のことなら私も知ってますよ。馬鹿みたいに才能が豊かなくせしていつまでも暗い場所にいようとする」

「その通りだよ、ポプリ。十草総悟は明るい場所じゃなくて暗い場所を選んだんだ。だから、引き返すなら今のうちだぜ。お前の歌はたくさんの人を救う。失うには惜しいと多くの人がそう考えている」

ポプリはカウンターの上にばらまいた黒と赤のサイコロを二つ手に取って空中へ放り投げると、右手で落下してくるサイコロを両方とも綺麗にキャッチして手塚崇人越しに黒生夜果里の前にポプリは右手を差し出す。

「じゃあこのサイコロが出た目の数の日にちだけこの二人を私に貸してください。たぶん私一人の力じゃその黒猫って人は目の前に姿を現してくれない。だから例えいくつが出たとしても私もこれ以上はあなたたちに関わらないって約束するんでお願いします。私は総悟とどうしても会いたいんです」

七星亜衣は右手をひっくり返してサイコロの目を確認すると、1と2の目が並び合っていて自分できった啖呵に少しだけ後悔して泣きそうになる。黒生夜果里が笑ったのを見たのは六蟲憂鬱も手塚崇人もいつ以来だろうとちょっとだけ表情を緩める。七星亜衣は大人しく手を引っ込めてカウンターの上にサイコロを置いてバケットハットを深めに被り直すと、マッカランのソーダ割を少し多めにぐいっと飲み、口の中に残るウィスキーの苦さに顔をしかめる。黒生夜果里はテーブルの上にバラバラに散らばったトランプの中から一枚だけ選んでひっくり返して七星亜衣の前に差し出すと、目の前のジンリッキーに一口だけ口をつけて席を立ちあがり、コートハンガーにかけられたミンクのコートを来て店を出ようとする。

「その二人は自由に使ってもらって構わないわ。けれど、私と約束をして。あなたは総悟って子と会う為だけにその二人の力を借りる。深入りは禁物。だから、黒猫と出会ってお話をしたらきちんと自分の世界に帰りなさい。出会えてよかったわ、ポプリ」

気まずそうな顔をしながら七星亜衣はハイボールを口にして、黒生夜果里がバー”Mother”から出ていくのを確認する。バーテンダーが彼女に封筒に入った手紙を渡してくるのでちょっとだけ戸惑いながら受け取ってから少しだけ胸を撫で下ろす。六蟲が赤い折り紙でもう一つ鶴を作って翼を折り曲げている。

「ふう。肝が冷える。ブラックエンド相手じゃ迂闊なことは出来ない。礼儀とマナーを重んじる連中なんだ。お前はとにかく運がいいな」

「けど、すごく綺麗な人。あんな素敵な人は私の周りでもみたことがないよ。真っ赤なワンピースがすごく似合っていたし、手足が長くてスタイルも良くてそれにすごく危険な感じがした」

手紙の内容は一枚の黒い猫の写真付きのもので、とても綺麗で女性的な筆跡で”黄色い三日月の看板があるお店を探しなさい。黒猫は人に戻りたがっているわ”と書かれていて、ポプリは意味深な手紙の意味をはかりかねて手塚崇人にそのまま手渡す。

「黄色い月の看板。初めて聞くな。ただこいつの顔は知っている。前に新宿でこいつにいかがわしいバーに連れて行かれたんだ。俺は久しぶりに金をかけて大損こいている」

「出したのはお前じゃない。九条院の裏金だろう。たかが二億ずつの端金。お前が出したのは押入れで愛でていた蛾を五匹提供したやつらに人の心を捨てさせた。蝶にはなれない蛹ばかりを悪趣味な連中が持っていただけだ」

「なんですか、それ。すごく面白そう。私は子供の頃、男勝りな子で誘蛾灯に集まる蛾の羽をもぎとって飛べなくしたりしてて。変わってるってよく近所の子に泣きながら揶揄われてました」

「残念。俺にはそんな少女趣味はないさ。繭から蛹になり自由になって羽ばたく蝶なんて夢を見る奴らの頭の中身を置き換えて鱗粉の毒に侵された挙句、そのうち飛べなくなるように細工をしてやっただけだ。むかつく連中ばかりだったからな」

「えー。私よりも性格が悪い。だってもともとその人たちは蝶だったってことでしょ?」

六蟲憂鬱がロックグラスのウィスキーを飲み干して、同じものをバーテンダーに頼む。もしかしたら彼の後ろに座っていたサメ型のリュックの女の子がうっすらと涙を流したような気がしたけれど、誰も気づくことはなかったし気のせいだろうと”Mother”にいる誰もがテーブルの上に滴り落ちる涙の音なんて知らないフリをして話を続けようとする。

「いや、そいつらは人なんだ。なのに、浮かれたまま捻くれて蝶にもなろうとせず、醜い羽をはためかせて鱗粉をばら撒いて空を飛ぼうとだけしたんだ」

「で、その蛾になりたかった人たちはどうしたの?まさか蜘蛛の巣に掴まって逃げられなくなったままだとか」

「お前のすぐ傍にいるさ。そいつらは人であることから逃げようって決めたんだ」

ポプリは身をのけぞらせて、六蟲憂鬱と手塚崇人のことを指差してどうみても蛾のように不自由そうには見えない夜をまとった二人のことを訝しむ。古いロックンロールがかかる店内でしばらく沈黙だけが好まれて、グラスに当たる氷の音と喉を潤す黄金色の液体と滴り落ちる水滴だけが三人の会話を続けさせようとしている。バーテンダーが水滴のついたグラスをナプキンで拭き取る時にガラスの擦れる音を響かせて彼の前に座っている三人に言葉を返そうとする。

「それで、黄色い月の看板っていうのはどこにあるの?あなたが前に出会ったっていう新宿に行けば会えるのかな」

カランと音が鳴り、もう半分も入っていないカクテルグラスのハイボールを出来るだけ時間を引き延ばすようにして七星亜衣が口にして、手塚崇人のほうに目を向ける。

「いや、崇人が出会ったのはもう三年も前の話だ。俺たちがちょうどつるみ始めた頃。黒猫は神出鬼没だし、今はもうあのあたりにはいないだろうな」

「ねえ、この人なんか知ってそう。どうして意地悪するの?教えてよ」

「お前さ、後ろにいるやつが見えるか?」

手塚崇人に質問をされて七星亜衣が後ろを振り向くと、画面のついていないモニターだけがあり、お客は誰もいないようだ。なぜか丸いテーブルの上には水滴だけが残されていて、店内を流れるジャニスジョプリンの歌声が悲しく切なく響き渡っているのを七星亜衣はあまり気にしないようにして前を向く。

「誰かいたの?見えない人がいたずらをしに来たのかな」

「いや、聞いてみただけだ。もしここで血の匂いがするのなら黒猫はお前と会ったりしないだろうからな」

「え?やだ。変なこと言わないでよ。とにかく黒猫さんは月を探して宿から離れてしまったと」

「そういうやつが潜むのにぴったりの場所がある。教えておく、後ろを振り返るなよ」

「歌の歌詞。みたいなこというね。忘れないようにしておこう」

「憂鬱。今日は何日だ」

「2024年1月22日22:37。」

「満月になるにはまだ早い。すぐに出よう。街が明るくなってしまったらやつにはもう会えない」

「お兄さんたちは話が早いね。お代は私に任せて。これでも巷で人気のロックスター。これぐらいはお安い御用」

七星亜衣は1万円札を赤いセカンドバッグの中の財布から取り出してカウンターの上に置いてバーテンダーにカシスオレンジとマッカランのお礼を言う。七星亜衣が三人分の酒代を払ってお釣りを受け取って席を立とうとすると、ちょうど入れ替わりに若い女性の二人組が入ってきて家の本棚が壊れてしまって人手が欲しいんだという類の話をしながら席についてバーテンダーに元気よく注文をしている。七星亜衣と六蟲憂鬱と手塚崇人は彼女たちとは少しだけ波長がずれた世界にいるのかまるでお互いにとても遠い世界にいる人間同士みたいにしてすれ違い、”Mother”を出て、靖国通り沿いからタクシーに乗り四谷方面へ向かってくれるように手塚崇人は運転手に頼み込む。

「お客さん。前にどこかで会いましたっけね。歳を取ると物忘れが酷くなってしまうんですけど、乗ってくれたお客さんの顔だけは出来るだけ覚えるようにしているんですよ。それだけが私の人生で一番大切にしていることなんです」

後部座席の一番奥のちょうど運転席の真後ろに座った七星亜衣が助手席のネームプレートを見て神座夢七という名前を確認して十草総悟との四ヶ月前に偶然乗り合わせたタクシーの運転手と同じ名前であることを思い出して話しかけようとする。

「俺は覚えているよ。確か、明治通りを池袋方面に向かって乗った時だ。ほら、S.A.Iの連中の一部が、国会議事堂爆破予告なんてした時だからちょうど三ヶ月前か。例の敵討ち法案ってやつがニュースを駆け巡るようになる一ヶ月ぐらい前だったから、パトカーがわんさか出ていた夜だな」

六蟲憂鬱が後部座席の左側の窓際の席で、移りゆく景色を眺めながら運転手がふってくる他愛のない会話をとりとめもなく受け流して七星亜衣がうっかり余計なことを喋ってしまわないように口を塞ぐ。二人の間に挟まれて手塚崇人がスマートフォンで何かのアプリを操作していてカチカチとまるで歯車が噛み合わせられるみたいに自分の頭の中を組み合わせていくと合成された電子音がリスニング用に最適化されたスマートフォンのスピーカーから流れ出して車内にいる四人の口を塞いでいく。聴覚が心地よく刺激され始めたことにようやくかつて七星亜衣は落ち着きを取り戻し始めて運転手の問いかけに応えるのを辞めようとする。九段下から四ツ谷までがタクシーが10分弱で到着してしまうまで運転手もスピードを無理にあげることはなく場所を移動することで訪れる思考の変化に身を委ねてけれど出来るだけ自分が変わってしまわないようにしっかりと沈黙を守って不快感を全く感じないアクセルブレーキによって減速されるタクシーが四谷三丁目北交差点で停車するまで誰も口を開こうとはせず料金メーターのボタンを運転手が押した時に初めて六蟲憂鬱の言葉に神座夢七が反応する。

「どこかで間違っちまったやつは二度と戻れないってことを知っているからいつまでもその場所に留まろうとするんですよ。あの宗教にいるやつはだから変わっていくことを許せない。馬鹿げた話ですね。お客さん、1780円です。お気をつけて」

手塚崇人がブラックスリムパンツの左後ろのポケットの財布から銀色のシルバーウォレットチェーンで繋がれた鋲付の黒い革ザイフから二千円を取り出して運転手に渡す。真っ直ぐと迷いようのない道だったけれど、三人が抱えていた不安を置き去りにしてくれたような気がして、そのまま後部座席を降りて七星亜衣は黄色い月の看板を探そうとする。六蟲憂鬱は少しだけ雲がかかった月を仰ぐようにして背伸びをして気をちょっとだけ緩めて後のことは手塚崇人の判断に任せようと、ガシャドクロのスカジャンを着た背中を押してポプリの方へ歩いていくと荒木町の方を指差して黒猫の気配を辿ろうとする。

「ねえ、本気?すごく嫌な感じがするよ。兎ってやつも一つ目ってやつもいないでしょ。なのに誰か歩いている気配がする」

「当たり前のことを言うんだな。まだ時間も早い。ここらの店に飲みに来ている連中は大勢いるさ。さぁ、迷ってないで黒猫の足跡を探せ。お前ならすぐに見つけられるさ」

そういうことじゃなくてさ、と言おうとする七星亜衣の背中を六蟲憂鬱は無理矢理に押して歩かせてたくさんの赤提灯や飲食店がひしめき合う四ツ谷荒木町へと踏み入れる。猫の鳴く声がして七星亜衣が足元を見ると電信柱の影から白と茶色と黒のブチ猫が彼女の方を覗いていて、引きつった笑いを浮かべながら七星亜衣はブチ猫に手を振って夜の挨拶を交わす。手塚崇人はとても慎重そうにあたりの店の看板を一軒ずつ確認しながら黄色い三日月の看板を見落としていないか確かめるように七星亜衣と六蟲憂鬱の後ろからついていく。ポプリは彼女のいく道に集まってきている野良猫たちと打ち解けたくて心を許そうとするけれど、ビルとビルの隙間や暗い路地裏に潜んでいる奇妙な気配とは出来るだけ視線を合わせないようにしながら六蟲憂鬱と並んで気の赴くままに角を曲がったりおしゃべりをしながら夜道を歩いて荒木町の飲み屋街に漂う異世界に迷い込んでしまったような雰囲気の中に吸い込まれていく。ふと、手塚崇人が立ち止まって前を歩く二人を呼び止める。

「こっちだ。ついてこい。運がいい。プライドの高い黒猫の機嫌を損ねていないようだ」

「ちょっと待って。あっちの人が呼んでるよ!」

「あれはダメだ。お前とそっくりな顔をしているだろ。取り替えられちまう」

七星亜衣は飲み屋街が途切れる路の向こうを指差すけれど、六蟲憂鬱にそれ以上進むのを静止されて、二人は通り過ぎてしまった路地の曲がり角まで戻り手塚崇人が立ち止まっているので、今度は手塚崇人が先頭に立って夜行性の哺乳類が満月になる前の月の明かりを浴びている場所へと案内しようとする。スマートフォンで何かを計測しながら手塚崇人が路地裏を進んでいくと急に立ち止まりちょうど月が真上に見える灯りがついていない家屋の屋根を見上げて手塚崇人はしばらくぶりに会う知人に声をかけるようにして話しかける。

「よぉ。元気していたか。お前に用事があるって子を連れてきた。総悟に会いたいらしいんだ」

ニャアと猫の泣き声がしてトタン屋根の一番上から縁までおりてきて黒猫が三人を見下ろしてとても流暢な人の言葉で話し始める。

「やぁ、ポプリ。君が来ることは予め知っていたよ。けれど、残念ながら君の相棒にはもう少し時間が必要なんだ。わかってくれるかい?」

七星亜衣は屋根の上にいる黒猫をバケットハット越しに見上げて頭を抑えながら素直で率直に黒猫のいうことに答えてここまできた意味を伝えようとする。急いではいないけれど、それでも彼女にとって大切な友人が傍にいないことが堪らなく心苦しいんだということを黒猫はわかってくれるかもしれない。

「すぐに会いたいんだ。だってそうじゃなくちゃおかしい。私たちはずっと一緒にいたような気がするから。もしかして君が意地悪をしているの?」

黒猫は屋根の上から飛び降りて七星亜衣の周りをぐるりと回った後に両手を重ね合わせてパンと音を立てる。七星亜衣が気付くと酔っぱらったスーツ姿のサラリーマンたちが集まってきて虚な目をして路地裏の両脇から三人の姿を眺めている。彼らに敵意はないのか近づいてくる様子はないけれど、六蟲憂鬱と手塚崇人は警戒心を強めて七星亜衣の傍で彼女を守るようにしてあたりを見回す。

「ほら。見てごらん。この場所はまだ彼らの縄張りなんだ。もし君が脚を踏み入れれば酷い目に合うどころか彼らは君のことを傷つけようとしまうかもしれない。君だってそれは本望じゃないだろう」

「そうかな。私は逆に彼らの心に消えない疵ぐらいは植えつけてあげられると思っているけど」

「たとえそうだとしても君の目的で彼らの存在が否定されることが許されるとは到底思えないな」

「絶対に嫌!どうして私が我慢しなくちゃいけないの。決まり事なんてどうでもいいもの。私はただ総悟と会いたいだけ」

黒猫が今度はさっきと反対に七星亜衣の周りをぐるりとまわる。するといつのまにかサラリーマンたちは路地裏から消えていて再び真上に輝く月の光の音だけがあたりに充満して七星亜衣を守っていた男二人は警戒心を弱めて感心したように呆れ返ったように七星亜衣の顔を眺めている。

「黒生さんに言われたことを忘れちまったか。お前はこれ以上先にいってはダメなんだ。総悟のことは俺たちがちゃんと面倒を見る。世の中にはどうしてもしてはいけないことがあるってことを理解するんだ」

「なんで?私はルールになんて絶対に縛られたくない。出来ないことがあるのなら必ず出来るようにしてみせる。つまらない大人の都合で振り回されることなんて受け入れることなんてしたくない。あなたたちは少しおかしいよ!どうしてこんな場所で生きているのに他人の都合なんて気にするのよ」

こんな場所ね、と手塚崇人がスマートフォンで時刻を気にしながらあたりの様子が騒がしくなってきたことに気付いて黒猫の様子を伺う。けれど、夜空に浮かぶ月に覆いかぶさるように流線型の身体と翼を持った鳥が横切って不吉な予感がさらに強まったせいか七星亜衣は自分の言っていることに気付いて嘆くような表情に変わる。胸が痛んで途端に息苦しくなって何か嫌な予感がして黒いニットの中にしまっていた星の欠片のペンダントを取り出してみる。気のせいか最初にもらったときよりもずっと怪しい光を放っているような気がして七星亜衣はとても気分が悪くなる。黒猫が片足をあげて口元を抑えて含み笑いをするようにして六蟲憂鬱に声をかけてこっそりと彼にしか聞こえない声で耳打ちをする。

「あはは。また和人に先を越されるのかな。ねえ、君はモノアイを見たことがあるかい?」

聞き覚えのある名前と見覚えのある光景が頭の中に浮かんで、七星亜衣は思わず何か危険な香りを察知したのか知らないフリをして黒猫の質問には答えないようにする。

「わからない。どうして?そんなことを聞くの?」

「君は時を超えたことがあるんだね?それもずっと昔に」

少しだけ迷ってから七星亜衣は頷いて、それから怪しい光を放つ星の欠片のペンダントをぎゅっと握りしめて黒猫の質問に慎重に答える。

「高校生の時に一度だけ。階段を飛び越えてしまおうとして偶然に。突然、私は身体ごと消えてしまって気付いたらお父さんが子供の頃だった時代に私は時間を遡っていたの」

「もし君が自分の力で未来を変えようとするのならばまた君は時間を巻き戻す必要がある。辛くはないのかい?」

「あの時も無我夢中で。今も私はどうしても超えなくちゃいけないってそう思ってる」

「待ち合わせの時は暗がりのことを無視するんだ。それならどうにかなるかもしれない」

「どういう意味?教えて。私はどこに行けばいい?またあの時にみたいに階段を?総悟は今どこにいるの?」

「光も灯も影も闇も君にとっては問題じゃないってことさ。知っているだろ」

「どうしてそうやって私に意地悪をするのよ。答えが分からなくちゃ彷徨うしかなくなっちゃう」

黒猫はそれ以上七星亜衣の質問に答えずヒョイと屋根の上まで飛び上がる。手塚崇人が彼女の肩を支えてどこかに連れて行かれないように守ろうとする。路地裏の月の光が届かない暗闇の向こう側の空間が捻れて歪んでしまっているのを六蟲憂鬱が勘付いて反対側から脱け出そうとするけれど、野良猫が何匹も集まってきていて道を塞ぎ始める。

「その答えを君はもう持っている。けれど、ぼくはそんなことを許したりはしない。その男に法則が存在しない世界のことを教えてもらうんだ。気が利く連中はそこを魔界だなんて呼んだりするけれど」

黒猫はそのまま月の光に紛れてまた屋根の一番上に登って、どこかへ消え去ってしまう。七星亜衣は頭痛がひどくなるのを感じて目眩が急に襲いかかり足元がふらついてその場に倒れ込むと視界の先に黄色い三日月の看板が見えるけれど、それ以上目を開けていることが出来なくて暗闇に包み込まれ七星亜衣はポプリになる前の自分によって呼び戻される。

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