17.Trifles make perfection, but perfection is no trifle.
予定された映像はほぼ完成していたので自分たちの研究もつつがなく終了している『塚元敬』先輩に編集作業をお願いする。
「記憶を分解する過程について恐らく精密な構造を正確にトレースする必要があります。人格を肯定する作業だけですが問題はなさそうですか?」
部室には昨日訪れた時と変わらぬ配置で変わらぬ顔触れが揃っているけれど、唯一部室奥の『盾横継』がパソコンのモニターで──※6レザボアドッグス──を観賞している。
「ミスターホワイトみたいになるにはどうしたらいいんでしょうね。拳銃の使い方が世界一上手くないといけないんだろうか」
盾横の独り言に反応する様に『神座琴子』が掛けよって盾横の股間を握り締めている。
──節操がないんだ、お前は──『塚元敬』先輩が神座を叱りつけている。
「借りていたカメラと機材を返しに来ました。ありがとうございます」
『大谷熊子』が女性らしい逞しい身体にぴったりと吸い付く黄色いTシャツを着てぼくらにウインクをして機材を受け取ってくれる。
「成功したみたいだね。君の顔つきを見ればよくわかる。悪霊っていうのは本当にいるんだ。何処かで出会ってきたのかな?」
「はい。地下深く誰も知らない場所で爆発する頭部を発見しました」
「それはすごい。君だけしか見ることのできない景色だ。逃げ出さなくてよかったね」
返却したCanon 5Dを受け取ると大谷は隅々まで丁寧にカメラの性能を確かめるように触り、レンズやシャターボタンの挙動を確かめている。
とても愛おしそうで彼女がそのカメラをとても大切にしているのが伝わってくる。
「カメラが喜んでいる。私の仕事に間違いはなかったみたいだな。君はちゃんとまっすぐ前だけをみていたようだ」
『塚元敬』先輩が満足そうに顎をさすっている。
神座のお尻を叩き機材表にチェックを入れるように催促している。
「今日はもう一つお願いがあって来たでござる。和人氏が地下でおさめてきた映像も含めたマスタリングをお願いしたいでござるよ。暗示めいた映像でござるが十分ほどの映像でござる」
ぼくはもってきたUSBを『塚元敬』先輩に渡して構築した情報を解体せずに分解し再構成する為の正確な手順を実行できる相手であるという信頼を『塚元敬』先輩に伝える。
「ぼくが考えているのは実存と非実存が同時に同じ座標軸で反転することなく共存できる環境の実現です」
「なるほど。けれど、それではまるで嘲笑を超常性に解釈しうる状況すら肯定してしまうのではないのかな」
返答した答えを『藤葉子』が遠慮なく否定して笑いへと変える実験をする。
現実に存在する障壁に関する問題を簡単に無視できる脳味噌が羨ましいと彼女は紫色の長袖のワンピースで伝えてくる。
胸元が開いていて黒いストッキングと黒い編み上げのロングブーツには存在感があり脚を組み変えただけでぼくは萎縮しそうになってしまう。
「がんじがらめの現実を表現したい訳じゃありません。例えば今あなたの床下に地獄が実際に存在するのだという可能性を無視しないでくださいと告げています」
『盾横継』が後ろを振り向いて──レザボアドッグス──のエンドロールと小君良いソウルミュージックが今日で五回目の観賞であるということが分かる様にぼくらに向かって伝えようとする。
「まぁ。ぼくはいいですよ。お前がミスターブラウンじゃなければいいんですよ。ただそれだけ」
『藤葉子』がミニスカートの裾を直してぼくらの視線を白い絶対領域に向けようとするのをなんとか回避してUSBを『盾横継』に手渡す。
『塚元敬』先輩が『盾横継』の脇に立ち、『神座琴子』がなにかの数値をExcelへと入力している。
「ねぇ、君さ。このカメラに何かお祈りをしたのかな。恋が成就しますようにとかそういうとてもベタなお願い」
『神座琴子』がカメラの貸出時間と返却時間の数字の中に複素数平面に関する簡単な誤りを見つけ出したのかぼくに唐突に奇妙な質問を投げ掛けてくる。
「例えば青い竜胆がどこかに狂気を内在していて曼珠沙華の隣に植えられているケースを疑っているということですか」
「違うよ。君が憧れと恋を勘違いしていることはどうでもいいんだ。猥褻な行為に罪悪感を抱かなかったこともどうでもいい。もっと単純な話だよ」
それはぼくのことではないと口に出しそうになって変形した思想がぼくの体内で培養されている確率を再生しながらわだかまりを感じているのかどうかについて『神座琴子』は疑念を持っているようだ。
「ねぇ、レンズの補正率をなぜ0・5ミリも下げているの? 暗闇が怖かった?」
『大谷熊子』は始まったゲームに参加でもするようにしてカメラのファインダーを覗き込んでいる。
「下水道にはぼくの見たくない一面が当然のように溢れかえっていたのは事実です。洗い流されてしまうことなくとどまっていました」
「だからといって子供達の言い分を蔑ろにしてしまうのは気にくわないな。だって盾横君は映像によって感情を掻き乱されている」
藤葉子は行き場のない欲情が部室内部で増幅されていると言いたそうだけれど出来るだけ無視をするように心がけている。
きっと彼女の将来の為だろうと推測して塚本先輩は無視をしている。
「君達が再構成した詩篇に文句があるわけでない。抽象性に疑問があるということでもない。けれど単純な言葉が暴力に近いとわかっていながら放置している連中をどうして気に止めようとしないんだ」
「複雑さばかりが答えではないのならば、悪霊にだって良心はあるのかもしれない。普遍性を低帯域で持続させる方法を思案しています」
「そうか。それで君はちょっとだけピントをずらしたんだね。どのシーンだろう」
『盾横継』の背後に立って八分五十三秒付近の映像を映像研のメンバーに確認させる。
「最後がこのシーンならば私も納得する。乱交パーティにでもいって偏在する神について語りたいのかと思った」
『神座琴子』が性愛に関する刺激に異様なほどの聖性を与えていることに不満げながらも納得して背後で流れている都市の音に残響音を付け足すことで解決させようとする。
「いい加減にするデござる。まとわりついているのはすべて浄化される前の思念でござらぬか。意地悪をしても小生たちは戸惑ったりしないでござるよ」
「教会主義が資本構造に与える聖霊の厳密な態度に抗議でもするつもりなのかと思っていたよ。百豪の外部因子に変曲点を加えるアイデアが陳腐だと吐き捨てるのかと思っていたよ」
「百舌先輩はそもそも肉体的状態において普遍性を出来るだけ拒否していますからね。劣化も含めて事実を誤認させることをぼくはあまり好まないだけですから」
「そうだな。真実は時折普遍性の劣化という簡単な事態すら許さない。残酷であることは日常だが何も期日の迫った制作物に持ち込む必要性は確かに見当たらない」
ぼくにとって身近な問題を色と記号へ変換して鮮やかさによって立体への希求を増加させるよりは平面上に代替え可能な有機物がいくつ存在しているかを発信することの方が重要だった。
恐らく無作為に削除しているのではなく雁字柄の法則を自らに課すことで殺人という行為そのものを楽しんでいるのだとすれば、ほんの少しだけズレた次元で存在そのものが揺れ動くことに快楽を感じているとしか思えず、ぼくらが議論を重ね、知識を詰め込み、転写した彼の姿は映像研の部室にも不穏な空気感を与えていつのまにかぼくや白河君、『盾横継』、塚本先輩だけではなく『神座琴子』も『大谷熊子』も『藤葉子』もモニターに映し出されている映像信号にのめり込んでしまい、沈黙によってその場に存在している相対性が掻き消えてしまうこと恐れて呼吸と鼓膜をありのままに反復させている。
自然であることというよりも規則性が介入することで無機と有機の致命的な違いを明確にする作業にぼくらは没頭している。
「リップシンクは出来る限り正確にお願いします。ジャストから必ず〇・一秒ずつ前進と後退を反復させて周期的なズレを与えて欲しいんです。位相がずれなければこの映像で伝えたいことは多重性ではなく複雑性に変わってしまいますから」
「多義的と捉えるものもいるはずだ。主客同一を他我が認識不可能であれば自我の多重性は無意味に等しい」
「いずれにしろどちらも仮説に過ぎない些細な問題です。今は少なくとも人格に高次元的パラダイムがあり得るという前提で作業を行ってください」
「精密性は問題ないですよ。ようはクールかどうかってことをぼくが許容出来るかが重要なんです」
『盾横継』はぼくらの提案に悪意や殺意がエンターテイメントとして昇華されてしまった場合に起きる善性の弊害について議論しようとしている。
もし、切除や切断や分解や瓦解や腐食や臨界点の喪失を彼が求めているのだとしたらぼくの提案している周期的な写像の変化を認めたくないのだといい、映像の解像度をあげ、母性と父性の分配に関する繊細な問題を視認しようとしている。
「けれど、保身から肉体を捧げることではなく猟奇性を失っても尚、欺瞞を選び取り逃避が介入する余地を与えてしまうほどの精神性を保有しているとすればどうでしょうか」
「複製品が実態と同一的な価値を持つことを認めろと脅す訳ですか。完成された自我をもっていればいるほど屈辱に耐えられないかもしれませんね。完全性なる深遠ははるか異次元の向こう側にしか存在出来ないと宣言しているようなものですからね、この位相変換は」
うふふと『大谷熊子』がぼくらの背後で笑っている。視覚を代替えする手段がなかったことに少しだけ優越感を感じているような笑い声だった。
「ねえ、それじゃこの唇のアップには仮想カメラを設置することで非存在を補完してみたらどうかな。美醜の判断を観ている人に委ねてしまうの。私がみんなになってあげるってことかな」
「うわ。俗物が入り込むんだね。なんて意地の悪いやり方なんだろう。純粋なんて穢れを配置したら沸騰した怒りで境界線を設定出来なくなるよ」
「面白い。よもや正常性そのものを瓦解させて狂気であることも普遍性の重要な要因であると伝えるわけか。それなら色彩はそれほどいじる必要がなくなるな」
例えば、いまこの部室に突然ガラスが割れたように外部が侵入して演劇的な空間そのものを破壊してしまう方法があるのだとすれば、ぼくたちの予測した通り微かに空間に振動を与えて床下に眠っていた根源を刺激することも可能かもしれない。
「パンドラの筐を何もかも元通りにすることが出来たら救われるのに、という願いは非俗とは言えないってことか。けどさ、半身不随じゃ快楽だって半減するって意味に聞こえるよ」
『神座琴子』が攻撃的な言葉を投げ掛ける。
覚醒しなければいけないのがどちらなのか分からなくなってくる。
「だって私はさっきから存在をアピールしているんだよ。伝わってないことがもう狂気を排除してるみたいだよ」
『藤葉子』は紫色のワンピースなんて着ている意味がないのかと憤っている。
色を変えても結果は同じで、ではパターンを変更することが正解に繋がるのかどうかもわからない。
もやもやしてうやむやした着想が行き場を失くして空を飛び回って窓ガラスから侵入してこようとする。
「それじゃあテロリズムを許容するようなものじゃないか。大義ある無差別虐殺なんていう言語の限界が成立する可能性を君たちは挑発し続けている」
「ファシストが独りよがりであれば自制心を剥奪された象徴程度にしか認識されないでござるよ。小生にはエーテル回路そのものは内包されていないでござる」
不可思議なものと無意味なものを見比べて価値基準の更新を一過性の病原体と捉えてしまうか生来的に埋め込まれている真理であると捉えるかでぼくは少しだけ自分の考えに揺れ動いてしまう。
起源について考える。
何処から産まれ出できたのかを問い直して当然の結論へ回帰していけるけれどいくら見定めるべき事象が実態を喪いそうであることに酔い痴れて傷口 から泣き声と喘ぎ声が同時に聞こえてくることに興奮していることに気付き破裂しそうな膀胱と精巣の中に夢が入り込んでいたらどうしようかと論理のあやふやな思想をどうにかして映像詩の中へと還元する。
「光の巨人って覚えてますか。迷惑でしかない破壊神の癖に大衆に救いを与えているって口実だけを振り撒くんですよ。だから子供の時、怖くてTVが見られなかったんです」
『盾横継』は頭の中にアーカイブされたRGBによる無数のパターンから大人になってしまうきっかけになった言い訳を吐き出して作業自体の面倒臭さをぼくに伝えてくるけれど、『塚元敬』先輩が一喝して大抵の問題を解決できる優秀なソフトウェアの使用を促している。
「マリアンヌ隊員は途中でいなくなってしまうんだよね。諸星隊員は孤独であることを二度に渡って自覚させられるんだ。忘れなくていいと思う」
ぼくが盾横の真後ろからモニターを覗いてコミニュケーションを取り、『塚元敬』先輩は左隣りからまるで近寄ってくる邪気を祓うようにして反感を買い刺々しい空気を作り、もし考えることを辞めたら恐怖によって統制することで強制的に盾横の役目を自覚させる。
「このあたりで一度全編を通して流してみることにしよう。漂着した場所が無人島でないことを祈ることしか出来ないけれど」
グランドピアノの前に金髪のショートカットで修道服をきた女性が口から血を垂らし椅子に座らされている。
陽が落ちたばかりの真っ暗なリビングルームにはパジャマを着た白髪の老婆がロッキングチェアに座って眠りこけている。
鋸と錐を持って十字架のチョーカーを首から掛けた白い大きなワイシャツを着た男が下半身は何も身につけず裸足のまま修道服を着た女性に近づいて既に顔が青白く変色している彼女の頭頂部から中心に沿って後頭部まで錐で頭蓋骨を貫通するまで穴を開け、点と点をつなげるようにして鋸を入れると頭部から脳髄が剥き出しになるように二つに割ると、血液が吹き出して男のワイシャツを真っ赤に汚す。
出来る限り壊さないように真っ二つに切開した頭蓋骨から丁寧にまだ柔らかく硬直する前の剥き出しになった脳味噌を取り出して修道服を着た女性から取り外すとグランドピアノの屋根の上に置かれた真っ白な皿の上に形が崩れないようにして柔らかく新鮮な脳髄を置く。
白いワイシャツも彼の両手もすっかり血で染まり粘性のある赤い液体で汚れた身体で修道服を着た女性を共有するようにして、鍵盤蓋の上に置かれた裁縫用の銀色の鋏で僅かに見えている白い足首まで伸びる修道服の裾から切り込みを入れて、そのまま太腿に冷たい刃先が触れるのを感じ取りながら下腹部まで右手の親指と中指を上下に動かしながら黒と白の神に仕える為の儀礼的な衣装を切り裂いていく。
霊性が失われた白い肌が露出し彼女の身に付けていた下着が露わになっていくことに十字架のチョーカーを身につけた男は陶酔感を覚えながら首元まで一気に鋏でリネンの布地を切り裂くと、そのままとても乱暴に左手で修道服を破ってしまうと、シスターを下着だけの姿にして神に捧げる生贄としての身体を清める為に黒い檜で作られた木水桶に汲んである冷水を彼女の身体に叩きつけるようにして三度浴びせかける。
「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」
(ジュンペイがまた堕天しようとしている。ユメコ、こいつ見張ってないと危ないよ)
(この人はお母様の前では何一つ悪い事を出来ないの。肉欲ってサリナが教えてくれたのよ)
(用心深く用意周到であること。野生に出たら決して忘れてはいけないことだ。覚えておけ)
(すごく不潔な感じがしてしまう。なぜあなたたちはそうやってすぐ穢れたままでいることを我慢しようとするのかな)
(彼らに大声を出す必要はないですよ。あなたたちはまるで盲人者たちのテニスでもしているようじゃありませんか)
(あのね。ぼくはシンイチさんみたいに平気で嘘をつけるような性格じゃないんだ。次元の向こう側で恋人と出会うなんて作り話をまたどこかでしてくるつもりならやめてほしい)
(ケンジは両手がベットリと血で汚れたことに怒っているんだよ。血の匂いはご馳走なんだ。おそらくぼくにとってもクロウにとっても。そうだろ、兄貴)
(このまま遊んでいたらクロウが目を覚ました時に怒られるよ。順番はきちんと守り抜くんだ。オレたちは一人一人がスポットライトを欲張りすぎなんだよ)
とても難しい問題が『ガーデン』で議論されている。
誰にスポットライトが当てられるか分からないまま複雑さを巧妙にコミュニケーションによって相互性を確認しながらリビングルームで神性を獲得する為の儀式が行われている。
十字架をつけた男は鋏で白い下着を剥ぎ取ってしまうと、かつて神に仕えていた女性は乳房と隠部を露わにされる。
男もまた赤く染まったワイシャツを脱ぎ捨て下着だけの姿になる。
医療用メスをグランドピアノの鍵盤蓋の上からとると、今度は彼女の下腹部にメスを挿入してこのまま一気に首元まで切り裂いていく。
ドロドロの硬直する前の血液が一気に吹き出してワイシャツを脱ぎ捨てたばかりの身体を全身から真っ赤な血液で汚していく。
今まで隠されていた内臓が露呈される。
肋骨で覆われた臓器の下部には大腸と小腸がびっしり血液に塗れて詰め込まれている。
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう」
呟きながら、チョーカーをつけた男は小腸を女の腹私から引き摺り出していく。
六メートルほどの長さの消化器官を取り除くと両手を広げ張りつけになった神の模倣が暗闇と血液の中から現れる。
「ねぇ、しっている? 最近ね、消えちゃう人が多いんだって」
「消えちゃうって自殺とか? まぁ、年間何万人も死んじゃうでしょ。私もそのうち」
「馬鹿なこといわないでよ。そういうんじゃなくてさ、なんかね、死体も残さずぱっと」
「あら。やだ。そういうのは神隠しって言うのよ。若いって罪ね、無知なのに厚かましいわ」
「そうやって歳を取るとすぐ図々しくなる。人の愚痴ばっかり言ってるとお肌に悪いわよ」
高級マンションの一室で華やかなインテリアと主張の強い壁紙と高級化粧品の匂いのする女性三人と同性愛者と思われる男が談笑している。
手に取る食事はカロリーが控えられているけれど味に不可分はなくテーブルの上に並べられた料理をそのまま口に運んでいる。
「でも、そうね。どうせならそうやって誰にも見られずすっと消えてしまう人生もありかしらね」
「まー、女の一生なんてそのぐらいでいいかなーって思っちゃう時は確かにあるわ」
「けど、だめ! 一生懸命生きなくちゃ! 駆け抜けてこそ人生よ!」
「そうね、もしこのお腹の子が無事この世界に現れたら本当に心の底から祝福してあげたいわ」
黒髪のミディアムボブの女性は少しだけ大きくなった下腹部をさすりながら白いワインを口にしてとても優しい笑顔を浮かべている。
「ねえ、パパ! このお肉本当に美味しいね!」
とても無邪気な顔をして白い皿のミディアムレアのステーキをつけあわせの野菜になんて目もくれずフォークを突き刺し口いっぱいに頬張る子供が父親にすがりつく。
「そうだなぁ。月に一度の贅沢だ。しっかり味わうんだよ。がははは」
父親はただ真っ直ぐに前をみて子供の方なんて見向きをせず大笑いを浮かべてかちゃかちゃと音を立てて、インゲンととうもろこしを口に運ぼうとしている。
「いつも、頑張ってくれて嬉しいわ。パパのおかげね。少しも残さず食べちゃいましょうねぇ」
母親は言葉とは裏腹に笑顔などまるで浮かべず一杯五百円の赤ワインを口にしてまだほとんど赤いままの肉にちょっとだけ切り口を入れたまま放置している。
とても明るくて暗さなんて見えず朗らかで健康的な空気が国道沿いのステーキハウスの肉の焼ける音とかちゃかちゃと白い皿の上で銀食器が当たる音と入り混じっていつまでも幸せそうな雰囲気に溶け込んで濃縮された願望が充満している。
「イエスは彼らの考えを見抜いて、なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか」
(何モカモ神ノ所業ダ。ナゼ父ナル神ニ子ナド作ルノダ)
(パドゥーはさ、郷に入ったら郷に従えって諺はもう覚えた?)
(ケンジのやつが刃物の使い方が下手だから血液が無闇矢鱈に吹き出てしまうんだ。祝祭は出来るだけ賑やかに。死体の味が台無しになってしまわないようにね)
(なんでカナ。どうして女の人に乱暴するんだろ。ぼくには分からないよ)
(大人になればわかる事だ。生と死は等価値であると、昔カメラマンの友人が言っていたよ)
「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」
チョーカーをつけた男はマタイ福音書十五章十四節を読み終わると不必要なページを破り捨て空っぽになった頭蓋骨へくしゃくしゃに丸めた聖書の断片を詰め込んでいく。
かつて母性の象徴として消化器官によって守られていた子宮は役割を放棄され引き摺り出された象徴と縫い合わせられたままコートハンガーに掛けられた修道女の頭部から血液と体液を浴びせている。
十字架のペンダントヘッドにキスをして祈りを捧げると男はコートハンガーに掛けられた黒く長い髪のウィッグを頭に載せ、下着だけの裸体を覆い隠すために用意した黒いDNKYのワンピースを頭から被り身体を装飾する。
「だから私が一番だって言ったでしょう。いくら伝えてもお前は神に供物を差し出してしまう。クロウ下がりなさい。ここから先は私一人で十分よ。あなたたちが私の血となり肉となり生きながらえるの」
リエンは修道服をきた女の肋骨の隙間から見えた心臓に直接指先で触れると、唇を血で濡らして真っ赤な口紅を塗り神性を獲得する。
神の御子を殺害した罪を洗い流そうと、黒い長袖のワンピースを着たリエンは大きな窓ガラスの近くに置かれた彫塑台に置かれていた黄金のキリスト像を手に取ると、ロッキングチェアの白髪の老婆の近くに歩いて行く。
「ありがとう。クロウがようやくわかってくれたのね。そう。それはあなたのものなのよ」
ガンッ。
(これでぼくはしばらく眠っていてもいいんだね。ありがとう。リエン。君はきっと『爆発する知性』を手に入れられる)
「分かっているわ。私は『田神李淵』として生きることになるの。あなたたちも一緒に連れて行ってあげるわ」
血だらけの両手で黒い長袖のワンピースを着て赤く汚れた白く細い脚にスリッポンを履いて夜が始まりだした閑静な住宅街を『田神李淵』は歩いていく。
五十メートルほど先の二階建ての木造アパートの二階の三番目の扉の鍵を開け玄関から中に入り酷い腐敗臭の漂うダイニングキッチンを抜けて格子ガラスの引き戸を開け部屋に入ると奥のベッドには白骨化した死体が黒いシーツと黒いベッドカバーの中に横たわっている。
畳は血と汚れで腐敗してボロボロになり、押入れの戸は破れてガラクタが放り込まれたままであるのが露見しているけれど、『田神李淵』はとても嬉しそうにまるで少女みたいな笑顔を浮かべてベッドまで走っていき白骨化した死体と一緒に眠りにつこうとする。
「パパ。遅くなってごめんね。みんなが神様にお祈りなんて捧げていたからお仕置きをするのに時間がかかってしまったの。愛しているわ。今日は朝まで一緒にいられるのよ」
血と肉と腐敗した匂いでどうにもならない部屋の中で『田神李淵』はベッドの中で全裸になり朝を迎える準備をして血と骨に塗れて無数の蝿に祝福をされたまま一切の穢れの無い処女として馬小屋で眠り神の子を腹の中に宿す為にゆっくりと目を閉じる。
「ねぇ、今日でこうやってベッドの中で肌を触れ合わせるのは何回目になると思う?」
「ぼくが覚えている限りだとちょうど百六十八回目になるね。七日間を時間で換算したのと同じ数だ」
二十一歳になったばかりの芹沢美沙は誕生日を迎えたことを青いベッドシーツの中で黒い眼帯を外したまま『蒼井真司』によって祝福される。
「私の身長と全く同じなのも知っている? じゃあ私があなたに愛していると告げた回数まで折り込み済みなのかしら」
「そうだね。正確に数えるのならば、三回だけで、それは君とぼくが初めてセックスをするまでにデートを重ねた回数と一緒だ」
「よかった。あなたにも完璧では無いところがあってくれて。私はあなたに四回きちんと正直な気持ちを伝えている」
「今日がそうだとするならば、君は最初からぼくを選ぶ必要がなかったんじゃ無いのかな」
「それはどうして?」
「君の左眼がなくなったと同じように君はやはり濡れてなどいなかったからね」
「私はやはりまだ愛など知らないのかしら」
「そうだね、そんなものがあるのだとすれば」
「あなたも私も手にしたことがきっとない」
とても優しくて柔らかい笑顔を浮かべて『蒼井真司』は芹沢美沙の背中に手を回し丁寧に背骨の形をなぞりとる。
彼女はきっと何処かで大切なものを拾いに行かなければいけない。
それは暗闇で黒いボタンを拾うようなものなのだろう。
まるで正しい場所に正しい臓器を配置するようにしてバラバラになったパズルのパーツがぴったりと嵌り出していく。
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