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08.Moking Solemnity

「やはり、そうか、少しだけ低帯域におかしな波形が混ざりこんでいた。きっとそのせいであの歌が聞こえづらくなっていたんだろうな」

嫌気がさすような声で髭面の男が三十キロヘルツの周波数帯域の不具合をなじるように戒める、どうしても非常用緊急招集会議での使用には混線が生じる。

非破壊的電磁領域に移動するべきであろうか。

目の前のテーブルに置かれたグラスの水滴がぽとりと、ブルーの布地のコースターに垂れて少しだけ濡れている。

「その通りですね。迂闊でした、おそらくこの部屋に入った瞬間に作動するウィルス、もしくは電磁差動装置のようなものを仕掛けられていたと考えるべきでしょう。あまり好ましくないものたちの仕業だとすれば、ぼくのミスです。見たところ、そちらの義眼にはなにか特別な細工が仕込まれているようですね」

真四角の小さなブラックボックスをまるでルービックキューブをいじるようにして、彼は適切な周波数帯域がどこであるのかを探している。

私の義眼には、確か特殊なチューニング装置が仕込まれていて、純正律の二百二十キロヘルツに合わせると自動的に周辺の帯域に存在している不協和音を見つけだすことが出来ると彼は伝えてくれた。

その仕組みを利用して、流行病の中に混ざりこんでいる和音の生成を阻害する非構成音を特定することが出来たのだろう。

「君が彼から特別なオペを実行されていることは私たちの仲間の中では有名な話だ。それはおそらくあの結界都市にいるものにとっては喉から手が出るほど欲しいものであるにせよ、私たちもまた彼の絡繰の一部、であるのならば、歯車の動きは一分たりとも乱してはならないんだよ」

カミブクロは私に話しかけることで自分の役割をもう一度確認するようにして目の前のカクテルグラスを手に取り一口だけ口をつける。

「無駄話はこの辺にしましょうよ。とにかく私にとってはあの世界一美しい異形に取り憑かれる前に、話を進めたいんです。そうじゃないと、ベッドサイドにペティナイフを置いておく理由がまるでなくなってしまうじゃないですか。それに、まだ、お姉さんみたいに機械の身体を欲しがるって年齢でもないんで」

ユウコは飛び交う周波数に自動的に調律を合わせて思考を変転させるのを辞めて脱いでいたジャケットを着直す。

二つ隣の席でニコニコと笑うのを辞めてしまった白いワンピースの女、レンは、手に取ったアブサンのグラスを飲むのを辞めてカウンターの上に降ろし、今度は本当に機械のように無表情のまま忠告と勧告を入りまぜた話をユウコに向かって告げる。

「ねえ、ユウコ。意識的な痛みの継続による調教と反射の実験報告を急ぐ理由はわかるけれど、血液でびしょびしょになった床ではしゃいでるのはお前だろ。それは、歯車たちのせいじゃないはずなのにさ。夢から醒めるなら今のうちだって」

おそらく彼女にとって、主従関係とは、積み上げられたブロックのようなものではなく平面上に存在している光景を別の空間軸から眺めて微かにズレが生じた箇所を修正する作業のようなものなのかもしれない。本当に、まるで、整合性の取れた部品の一部であるようにして、彼女はその役割と果たすべき目的について報告をする。

「だってさ、こんなのどうにもならないただの無理ゲーでしょ。私たちなんかじゃ手に負えないようなまぎれもないただの現実?かんぜんに地獄の底まで一直線、どこまでいったって逃げることすらできない破滅系のギャルゲーですよ、こんなの誰がクリア出来るっていうんですか」

少しだけ冷静さを取り戻したセットアップスーツの女は、他のメンバーと同じように即時的に介入してきた形而上に存在している記号と配列のパラドックスに関する簡単なラブソングにしっかり調律を合わせるようにして、出来る限り大袈裟な痛みを増幅させないように、上腕二頭筋上部から電動ノコギリを入れて切り落とした左腕が一週間に渡り腐敗していく様子を眺めていた時のことを思い出しながら、彼女から離れることの出来なくなった理由を理解しようとする。

『ふと、私はまるで、人の言葉を話すことを、忘れてしまったのではないだろうと思う瞬間がある。取り除かれたのは眼球などではなく、感情によって制御される情動系の反応なのか、それとも二十三グラムの私自身のことなのだろうか』

そんな風にユウコの隣で芹沢美沙は考える。紫色のカットソーの女、シマが日常のありふれた現実をこの場所にいるメンバーの思考と織り交ぜながら話し始める。

「例えば、いつのまにか恋人の脳味噌が交換されていて、大好きだって気持ちを伝えるのを辞めてしまいたくなる気分の時には、ショートケーキとアールグレイを受け取りにお気に入りの喫茶店まで何も気にせず行ってしまいます。そうやって妥協した日常を割り切ることにも疑問を感じるのも忘れてしまって、いつのまにか彼のこともぼんやりと一つだけいれた角砂糖みたいに忘れて溶けていっちゃうんですよね」

一通り、各々がチューニングを合わせ終わったことを確認すると、ナイロンジャケットとジーンズの男、空は、バーテンダーに合図をして、ラジオの下の棚にある三十センチ四方の小さな金庫から、黒く小さなベルベットの平たい箱を五つ取り出して、封筒を六枚取り出し、ユウコ、カミブクロ、シマ、芹沢美沙、ユウコにベルベットの箱を一つ、そうして無精髭の男、オロチから順番に封筒を一つずつ手渡していく。

「少しだけ迷いましたが、まずは予め用意した幼生体をあなたたちに預けます。飼育方法は追ってご連絡しますが、それほど難しいものではありません。それと、そちらの封筒には、二億円の小切手が一枚ずつ封入されています。そちらはプロジェクトを潤滑に進展させる為ならば遠慮なくお使いください」

黒い箱は銀色の留め具が付いていて、留め具を外し、蓋を開けると、中には透明なガラスで仕切られた空間に蛾の幼生体がのそのそと出口を探して蠢いている。あなたはきっと私のことを忘れているのでしょうね、と誰かが低い声で囁いたような気がした。

「これが我々の切り札となる素体だ。今回は俺の独断で、諜報部に対する内部調査を巡る一連の行動をモニタリングすることで激痛と統制を司る部位をアップデートさせる必要があると考えている。なぜ、我々が暴力を優先させてきたのか、そして、限定的通信の最適化は暴力装置と共存し得るのか、これらの問題と向き合うことで手に入れられる情報から素体の成虫の成長を通じて再構成させることで、我々の中に眠る遺伝的欠陥を修正し、今一度、我々が死なずに済むための手段を模索することとしよう」

オロチの低音を混ぜた声が非許諾周波数解放戦線のメンバーの気を引き締めて頭の中にいびつなイメージを想起させる。

『銀髪のカメラマンと陵辱されていた時に聴こえていたピアノには、やはりほんのすこしだけ調性のとれていない音が混入していて、それはリコーダーの音だったのか彼の息遣いだったのか明らかに意識が混濁していたあの時の私には判別がつかないままで、その奇妙な違和感が未だにひっそりと左の眼孔に潜んでいる気がしている』

芹沢美沙はまるで左の眼球とコミュニケーションを取るようにして頭の中で反芻されている記憶について混線している情報を整理する。

「なんにせよ、障害や欠陥は脳が映し出すゆらぎから導き出される幻影と呼びうるのだとしたら、ぼくらが獲得するのは欠落した部品を埋めようとする装置そのものかもしれません。私にはF/1から外れていた均整の取れている作り物の義眼としてではなく、あなたの一部そのものに思えてしまうように。」

空が優しい言葉を芹沢美沙に伝えると彼女は復元されていく左眼の神経組織がうねうねとまるで生き物のように蠢いて手足となっている様子を思い浮かべる。

壊れているということに慣れきってしまうと、壊れているという事実すら捻じ曲げて私は私であることをやめようとしてしまうのだろうか。それでも、私は存在していたはずの左眼に、さようなら、と告げて握り潰した時の手のひらの感触がずっと張り付いていることにどこかで何かを諦めて生きているのかもしれない。けれど、私が築き続けている関係性を修復することで、べっとりと張り付くような違和感を少しずつ修復出来ているような気がしていて、まるでそんな思いと呼応するように、空が引き連れてきてしまった三十キロヘルツ付近に混ざりこんでいる奇妙な低帯域の波長のずれた周波数がゆっくりと消えていってしまった。この分ならば、もうこの周波数に混入している違和感は感じることすら出来なくなってしまうだろう。

「とりあえず今は午後十時四十七分ちょうどです。この時計を基準にして、時計の長針をきっかり八時間前に巻き戻します。これで、僕らの仕掛けた通りの辻褄は合うはずですよ。それと、眼帯の件について、二、三、不躾な質問があったことを謝っておきます。サメ型のリュックを背負った少女とすれ違った時の違和感はついに現実に入り込んでくるようですしね。だから、もし彼女を見かけることがあれば、黒猫は神社で夢の続きを見るつもりだと伝えておいて下さい。彼女には必ず黒猫と夜の夢が開く瞬間が必要になるはずですから」

空の腕時計、Z-33の長針と短針がきっかり八時間前に巻き戻される。

香草酒の鈍い酔いが脳味噌を麻痺していく感覚に芹沢美沙は溺れる。

飲み干してしまったペルノーがゆっくりと身体中に入り込んでいつのまにか私自身を支配しているような気分になり、ちょっとだけ怖くなって目を瞑る。暗闇がまた私の元に訪れると、しずかにゆっくりと、私の中にきっかりと八時間前の記憶が呼び戻される。彼は本当に嘘をつく必要などまるでないのだという口調ではっきりと私にこう告げる。

「つまり、私とあなたが存在している宇宙は、無数に存在していて、そのどの宇宙でも私とあなたは何かしらの繋がりを持ち、別の関係性、違う形、もしくはまったく同一の関係性をなんの問題もないまま維持している、そういった可能性の数だけ宇宙は分岐して、薄い膜のようなものとして幾重にも重ねられている、私たちはその薄い膜に付着した水滴に住まう細菌のようなものだ、これが現在、理論物理学においてさかんに研究されている多次元宇宙論の概要です。そうして、私はあなたと私が別の関係性を維持している宇宙からこの宇宙へと召還され、あなたが果たすべき役割とあなたが果たそうとしている目的を関連づけるための鍵を渡しにあなたにアポイントメントを取るために電話で話す約束をして、実際にこうやって会うことが出来ました。とても不思議な気分ですが、本当にあなたは何も変わらない人ですね」

初めて笑顔を見せたけれど、すんなりと受け入れることの出来ない高橋信一の言葉に困惑しながら、一口だけ口をつけたミルクポーションの入ったアイスコーヒーを呑み込む。テーブルの上に裏返しに置かれたスマートフォンを手に取り、時間を確認すると、14:47と硬化ガラス製の画面に表示されている。

店内入り口で突然聞こえてきた怒声を合図にするようにして、高橋信一は息急き切ったように次々に現実離れした言葉を私に伝える。

私が変わらない人?

きっといつも変わってしまうのはあなたのほうではないだろうか。

「あなたには今夜行われる"晩餐会"と呼ばれる非許諾周波数解放戦線のメンバーとの合同会議に私の代わりに出席して頂きたいのです。そのために、古い友人であるあなたの担当医師、もちろん私のいた宇宙での関係性ですが、その彼から預かってきたものがあります」

鞄の中から取り出したアルミ製の十センチメートル四方の箱を開け、丁寧に吸収材で保護された私の身体の一部である左の眼球を模した義眼とまったく同一のものを私に紹介する。

あなたはだれを見つめたまま眠ったふりをしているのですか、思い出すたびに忘れてしまいそうになってしまいそうですと眼球は答える。

「この左眼には、通常の視覚情報の代替機能とは別に、特定周波数を占有した場合に生じる和音の生成を阻害する非構成音を見つけ出す機能が備えてあります。きっと、それは、”晩餐会"に訪れた際に必ず必要になるものです。どのように扱えばよいかは、おそらくあなたが一番よく知っているでしょうから、このままの形であなたにお渡ししてもよろしいでしょうか」

軽く頷いて、私はアルミ製の箱を受け取り、蓋を開けて、衝撃吸収材に保護された私の形と寸分変わらない左の眼球を取り出す。

手触りや重さは私が今まで使っていたものと同じもののようだけれど、ジジジと微かに機械の作動音のようなものが聞こえる。

きっとこの形が予め私と出会うために用意されたもののような気がしてしまい、一瞬だけ本当の私とさようならを告げた時のことが脳裏を横切って、目眩を起こしかける。

あれ、私はあなたと本当に初めて会ったのでしたっけ?

新しい左眼を箱の上に戻し、銀色のアルミ製の箱の蓋を閉める。いつ、どうやって、あなたと出会ったのか、もう私は思い出すことが出来そうにないけれど、またこうしてあなたと出会えたことが本当に嬉しいんです。

私はあなたのことをちゃんと愛していたと今ならそう思うことができると思います。

知らない左眼はそうやって私に囁く。

私のモノではない左の眼球が私の左眼と目を合わせたままジジジと機械的に明滅する言葉を話す。

「よかった。私からあなたに渡せる最初で最後のプレゼントになりそうですね。こんな言い方はおかしいかもしれないですけれど、よく似合っていますよ、私はもう帰らなければいけないですから」

ほとんど口をつけていないアイスコーヒーを高橋信一はすっと今まで呑むのを忘れていた分だけ呑むと、被験者番号0054斎藤誠に関する書類を私に手渡し、入り口のほうの店員に会計を済ませてくれるようにと、声をかけて私に別れの挨拶を告げる。

「いずれにしろ、私が援助した組織みなあなたの目的を全面的に支援するつもりでいます。たとえ、それがあなたにとってあまり好ましくない結果を招こうとも、あなたの役割を果たすことを諦めてしまったとしても。歯車の動きは一分足りとも乱すことは許されていないのですと私のいた宇宙であなたはよくそうやって私に話してくれました」

左眼の奥の方でジジジと何かの作動する音が聞こえる。

私の左斜め後ろに座っている女性の二人組が下品な笑い声をあげて、何かが壊れかけていることを見つけようとしている。

カフェの店員が伝票を持ってやってきて、高橋信一に手渡し、彼は千円札二枚を渡して、私に店を出ようと合図を送る。

一緒にいた時間はとても短くて、ミルクポーションの入ったアイスコーヒーはまだ半分も口につけていない、彼のことも私のこともきっとグラスの中に残されたままのような気がするけれど、十五時を既に過ぎているのだと私は言い聞かせて彼のいた宇宙で私は彼とどんな関係性を築いていたのだろうとゆっくり席を立ち上がる。

高橋信一は店の入り口付近で店員から釣り銭を受けとり、少しだけ私の方を振り返ると、そのまま店を出て行こうとするので、私はその後を追い、一緒に店を出ようとする。カウンターには女が泣きつくようにして、先ほど怒声をあげていた男と、何か親密そうな話をしている。

アルミ製のドアを開けた高橋信一の後ろに続いて、私もそのまま店を出る。店を出たところで高橋信一は私の方を振り返り、最後の挨拶をしようとする。

「そういえば、私は私がいた宇宙であなたとは恋人同士だったことがあるんです。今はもう色々と理由があり、会うことすら出来ないですけれど。だから、今日は、こんな言い方はやはり少しおかしいかもしれませんけれど、また会えて本当に嬉しかったです。いずれまた、どこかの宇宙で会えることを期待しています」

そうやって、いつも難しい言葉を話すのはあなたの役目ですねと左眼から声がして、私は高橋信一の後ろ姿にお別れを告げる。

紺色のスーツの右肩に小さな埃がついていて、私はその誇りを払って決して後ろを振り返ってはいけないよと自分に言い聞かせながら、まず私は家に帰る必要がある。

そのためにはおそらく父親に会わなければいけないだろう。

名前も顔も違う彼の所業を私は許した訳ではないけれど、それでも今はDNAの塩基配列によって親子であると定義されるあの人の力を借りてサメ型のリュックの少女と出会わなければいけない、難しい言葉でいうと、それはきっと、神は死んだ、というべきなのだろうか。

彼女の顔を忘れてしまう前に、中野通り沿いを走るタクシーに乗って、行き先を告げる。

「渋谷方面に向かってください。」

タクシー運転手はわかりましたと軽く頷いてメーターを切り、車を発進させる。

"一度目の射精をいつものようにして、汚らしい陰部を曝け出してだらしがない体型を私の目の前に見せつけているまるでゴミみたいな人間の局部を握り締めながら、私は今日でこんな世界から消えてなくなって本当の意味で自由になるんだ、そのための準備はもうしてきた、もう二度とこんな脳味噌の腐りきった連中と関わりあいになり、すがって頼ってしがみついて生きる必要なんてないの、私は私自身を辞めることのないまま元の普通の女の子に戻るんだと何度も朝から出勤する前に頭の中で妄想していた言葉をまるで目の前に誰もいないみたいに独り言として呟いて、腐敗臭を漂わせる物体に吐き捨てるように投げかける。

「あのね、あなたたちみたいな生き物がこの世界に存在していたら、世界はそれだけ早く腐って壊れて捻れて崩れて消えていってしまうじゃないですか。だから、あたしは少しでも世界が平和になりますようになんていう願いを込めてあなたたちの溜まりに溜まった膿を絞り出して世界の片隅から抹消してあげるんですよ、こんなに嬉しくて楽しくてやり甲斐のある仕事なんてほかにはないって思いません?だから、私はこの仕事に誇りを持って生きているし、悪意を産む機械なんて役割を放棄して生きてやろうって思うんです。世界は歯車だらけ、そんな世界はなにもかも壊してどうにもならない状態まで戻してやればいいのですよね、だからね、お客様、私はあなたのことが本当に心の底から大嫌いです、毎度ありがとうございます」

左奥の部屋でまた暴力的に女の顔を殴る鈍い音がして、女が軽くうめき声をあげているのが聞こえる。助けてとも助かったとも聞こえるそのいつもの戯言にうんざりするような溜息を漏らすと同時にカウンター下にこっそりしまいこんでいる拳銃を手に取り、思わず二番目の部屋で毎度のことの茶番劇を繰り広げているクソどもを撃ち殺してやりそうになるが、そんな気持ちをぐっと堪えて新規の客がカウンター前に立ったことに対して、俺はいつものように機械的な笑顔を浮かべて今日出勤している女どもの写真を並べて最高の一日を提供する為の準備を整える。左奥の二番目の部屋ではいつもそうやって殴られる為の準備をした何処にも逃げることのできない女を力で捩じ伏せることでその日最高の射精を迎える男の日常演劇が月に一回、決まった流れで繰り返される。俺はそういう人間のどうにもならない毎日を決まりきった動作で決まりきった口調で送り届けることに何よりも喜びを感じているし、こうして俺の役目を果たすことこそ俺の存在理由だとはっきりと認識しているんだ。たとえ、どんな歯車にだって自分自身の役割を放棄する為に必要な儀式は存在しているんだよ"

どう書き換えたところで、おそらく大多数の人間が放棄してしまうような三文小説を読んでいる逆立った髪の毛とくたくたの白衣の老人は、その本をぱたんと閉じ読むのを辞めてしまうと、それと同時に虹彩認証によって解錠された入口の扉がゆっくりと開く。

「私にとって開発を推し進めることはお前を殺すことに等しいのだ、だから何度その扉を開けたところで答えは変わらん。新しい世界はやつらのために準備している、お前はその礎になる為に産まれてこの世界にやってきたんだ、例えどの宇宙にたどり着いたとしても、お前はサメに食われて脳味噌を失う羽目になるだけじゃ」

無数のモニターにたくさんのグラフやパラメーターが映し出されたコントロールルームの中央の操作パネルに寄りかかっている老人は、扉を開けて立ち尽くしている紺色のスーツを着た眼鏡の男にそうやって屈辱の言葉を投げかける。

「もし、自分の模造品を作る行為を親と呼ぶのであれば、私はあなたの子供ではないし、当然のように私はあなたの所有物ではないんです。きっと塩基配列によって定義された情報のどこかに異質なプリブノーボックスが混ざっていることを見つけることが出来るはずなんです。もう既にそのようなことはご理解頂けたと思っていたのですが、あなたはやはり二枚刃の役割を誤解していらっしゃる」

白衣を着た老人のそばにおかっぱ頭で青いワンピースをきた肌の病的に白い女の子がとても冷たい無表情を崩さないまま立っている。

彼女の目はなにも映さずに、ただ諜報室本部に来客した高橋信一をじっと見つめている。

「どちらにせよ、こちら側の情報量は既に限界に達しようとしている。だれか退場者が出ない限り官吏室は機能を停止したままシステムを発動させることはないだろう。だからといって、お前がその役目を担う、そんな自己犠牲を果たしてもあの子は喜ばんぞ」

高橋信一はゆっくりと執務室直属諜報部本部、通称"TV SF"コントロールルームへと足を進める。

解錠された扉がゆっくりと閉まり広さ20㎡ほどで壁一面のモニターや電子機材に囲まれた空間のコントロールルームの奥の複雑な操作パネルの近くには白衣の老人、TV SF総帥、東條英機、ブルーワンピースの少女"中山未稀あのひと"、そして、入口付近には、高橋信一が立っている。

何かの数値やパラメータが絶えずモニター上で動いていて、ありとあらゆる情報と数字がこの場所に集められて解析されている。

「私はただ、私の役割を務めるだけに過ぎません。私のいる宇宙において、偶然にもあの子と私は同じ関係性ですが、それでもやはり私があの子にしてあげられることは、新しい父性を与えることだけだと思いますから。それは私自身が消失してしまうとしても同じことです。」

"中山未稀あのひと"は父性という言葉に少しだけ反応して、その動きとシンクロするようにして、部屋中にモニターの数値やグラフが高速で動き出している。

東條英機はとても興味深そうに意味深な笑顔を浮かべて、高橋信一の方に向き直り、あご髭を右手でさすっている。

「確かにその通りじゃ。"名前"が違うにも関わらず、お前が私の息子であり続けている理由を解析してきた甲斐があった。対称性を維持することのない宇宙から来たお前であっても、アレはお前を父親と認識しておったからな。"お前"は、一体何度私たちの宇宙に干渉してきたんじゃ。なぜこの宇宙にばかり、答えを見つけにこようとするのじゃ」

“中山未稀あのひと"が、ほんの少しだけ笑顔を浮かべると、激しく動いていた数値が落ち着きを取り戻し始めて、高橋信一は鞄の中から、誰かからどこかで受け取った不思議な形の鍵を取り出して、部屋の奥へと進んでいき、"中山未稀あのひと"にその銀色の鍵を手渡す。

彼女は、操作パネルの右脇にある認証式のパネルに手をかざすと、中央から機械がせり上がって、そこに鍵穴の空いたパネルが登場する。

彼女は、そこに高橋信一から手渡された鍵を挿入すると、コントロールルームにあるモニターと電子機器の動きが停止する。

東條英機は彼らの行いに何も口を挟まずただ歯車の動きが一分の乱れもなく動く様子を観察している。

もう一体何度この光景を見たことだろう。

「こうすれば、私はあなたの制御している周波数へ侵入し、サメ型のリュックの少女と、出会えるはずです。私にとって、この宇宙から飛び出すことは容易ではないけれど、彼女の力を、借りることでいつまでも踊り続けることはなくなるのではないでしょうか。それはあなたが選んだ改造医療実験体がいつも失敗を続けていることと同じ意味であるはずです」

サーバーダウンしたコントロールルームの様子をまるで当然の帰結のように、東條英機は中山未稀あのひとの細く白い腕を手に取り、あたりに漂い出した異質な空気を一つ一つ丁寧に拾い集める。

君の裏側には、きっとべっとりと無意味な感覚が張り付いていて、戦場から帰ってきたばかりの頃のお前が私のことを探し回っているんだろう。

「私は何一つ汚れることのないまま、ここにいるんです。その意味はもうきっとお分りでしょう」

永遠という言葉に取り憑かれたまま記号と配列によって制御されたコントロールルームで東條英機は立ち尽くす。

あなたが選んだ結末に果たして私は必要だったのか、今も分からないままなのです、機械と身体がそんな風に高橋信一に話しかけてきて、サメ型のリュックの少女がどこにいるのか彼に伝えてくれる。

高橋信一は中山未稀あのひとの額に軽くキスをすると、ゆっくりと身体の向きを変えて、コントロールルームから出て行こうとする。

「またそうやって、この部屋から飛び出してサメに頭を喰われて逃げ出すというわけじゃ。だとしたら、結局のところ、私は永遠に取り憑かれたままここで世界を映しつづけることにしよう。それが私とこの子に託された役割なのだと、歯車たちがそう話している。機械どもの言葉など私は知りたくもないはずなのにじゃ」

一瞬だけ立ち止まり、高橋信一は東條英機の言葉に、何か反応しようとするけれど、もしここで後ろを振り返ってしまえば、また鍵を無くしてしまいそうな気がして、決して後ろを振り返ってはいけないよと紺色のスーツの右肩に付いていた誰の目にも止まることのない埃を振り払って前に進む。

コントロールルームの機械仕掛けの扉は、高橋信一が近付くと、呆れるほど簡単に彼の力で開けることが出来て、ゆっくりと外の世界へ出ていくことが出来た。

彼はもう、この部屋には戻ることはないだろうし、記号と配列のパラドックスはとうとう解かれることのないまま"中山未稀あのひと"にとても短いラブソングを届けることになるのかもしれない。

部屋の中には、白衣の老人と青いワンピースの少女が2人きりで、血の通わない機械たちは黙り込んだまま次に訪れる余剰次元の使者を出迎える準備をしている。

「私はずっとここでお待ちしています。あなたはきっとすぐに私のことなど忘れてしまうでしょうけれど」

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