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七星亜衣はひどく驚いている。

目の前に立っているシンガーは確実に人ではない姿をしている。けれど、多くの人間が高木悠花というシンガーの本当の姿を見ることが出来ない上に、自分だけしか見つけることが出来ないと考えていたヘルツホルムの住人が彼女の周りにも存在している。けれど、明らかに七星亜衣の傍にずっと居続けてきた温和で優しい連中とは雰囲気が違う。”ポロロッカ“が話していた通り、まるで人の肉でも食ってしまいそうな目つきと表情をしている。だから、高木悠花という新人ミュージシャンの姿をすごく久しぶりに見た時に七星亜衣は何か自分が大きな間違いを犯してしまったのかもしれないと素直にそう思ってしまった。振り返ったとしても戻らない過去があるのは知っているけれど、それでももしかしたら彼女はもう一度時を超えなければいけないのかもしれないとそんなことを考えている。高木悠花はただ不気味に傍による人間を切り離してしまうように笑っている。だから七星亜衣という一個の人格ではなく、ポプリというシンガーソングライターとしての人格はテレビ曲の舞台裏で偶然に鉢合わせになった奇妙な特異点とでも言うべき現象を見にまとった人の皮を被った異物に対して警戒心を抱いて、彼女の世界に引きずり込まれてしまわないようにしっかりと現実を見据えるようにして目を凝らす。高木悠花は笑顔を振り撒いているものの右頬に傷のようなものが存在している。うっかりいつもの癖でなんとなくどこにでもいる同業者たちにそうするようにしてポプリが握手を求めると、高木悠花は手を返すよりも早く右頬の傷口を開いてすぐ5センチほど隣にあった口元とは違う唇を二つに裂いて白い歯を剥き出しにして嫌味なぐらいに笑いながらお前には見えているのだなという類の意味に受け取れる明らかにポプリが普段使用しているのではない言語を発音してポプリの鼓膜に直接響く突き刺すような周波数でコミュニケーションをとってくる。高木悠花の先制攻撃とも取れる直接的な交渉にほんの一瞬だけ怯んだポプリの右手を素早く高木悠花が掴み返して敵対的友好関係などというまるで社会的には必然であるかのような対話を提供してくると、ひんやりと人間とは思えないほどに冷え切った体温で高木悠花はポプリとしっかりと握手をして右頬に浮かべたもう一つの口で笑い、左眼の下に発生した猫の眼のような瞳で睨みつけ、右の眼からは血の涙を悲しみではなく嘲笑の証として垂れ流し、高木悠花はポプリを食い殺そうとする意志を表明する。しかし、ポプリが、七星亜衣が目の前で起きている奇妙な怪異がおよそ一般的な人間社会や関係性には表向きには存在するはずのないとされている悪夢の続きのようなものであったからではなく、それが七星亜衣という人間がポプリという人格を作る前から知っているありきたりの幸せに満ちた懐かしさのようなものを纏っているためにひどくショックを受けている。それはまるで彼女のよく知っている過去に繋がりのあった人物の持っていた爆発的感情を凝縮した魂と呼ぶべき不可視のエネルギーを高木悠花が他の誰かからごっそりと吸い取って体内に取り込んでしまった挙句にこの場所に悠々自適な顔で立っているかのような印象を与えてくる。そうやってポプリと高木悠花は本番前のテレビの舞台裏でたくさんのスタッフが行き交う中で運命的に再会する。きっとポプリにとっては肯定的な感情のようなものはどこにも見つけることの出来ない、出来ることならば避けて通りたいと考えるほど異質な出会いであるけれど、まるで過去と現在と未来が同時に存在する事のできる連続した時空連続体の隙間に出来た落とし穴のようなものに遭遇する断続した空間の断裂そのものだと七星亜衣は捉えている。有り体にいいなおすのであれば、恋のような幻惑的なエネルギーに満ちたものに等しいと七星亜衣は思っている。嬉しくはないのか、私はまた会えてとても嬉しいよと高木悠花は音声的発話言語とは違う手段で意志疎通をポプリに求めてきて、距離を縮めようとしてくる。ポプリは少しだけそんな高木悠花、いや、古い友人である歌戀信之助がかつて持っていた彼自身の強烈な気力を感じ取って、七星亜衣はうっかり右足を引いて意識を乗っ取られてしまわないよう身体に芯を残しながらもほんの少しだけのけぞるようにして高木悠花と距離を取り、まるで七星亜衣と高木悠花の狭間にある黒い洞穴に呑み込まれてしまうことを逃れようと、高木悠花と同じ手法で音声的発話言語とは違う方式を用いることで、先ほど交わした握手を通じて他者に対して二人の関係性を好意的なものへと変換されてしまう事態から一線を画するように高木悠花と存在を自分の中に刻み込む。そのことが当然の帰結であるかのように高木悠花は人間的ではない体温の手を七星亜衣から離して、彼女はとても可愛らしい新人ミュージシャンらしい然とした笑顔で挨拶をしてきて

周りにいるポプリはもちろん高木悠花とも当然ながら明らかに毛色の違うはずのテレビスタッフやプロデューサーたちから、彼らが二人が頻繁に交換しあっている違和感に気づかないように出来るだけ配慮しながら、高木悠花自身がまとっている不自然さを覆い隠すようにして、おそらくポプリと高木悠花の二人だけしか感じることの出来ないわだかまりを打ち消そうとする。すると、高木悠花の背後につきまとっている真っ黒な身体のポプリの影のような気配が変容し始めて、七星亜衣が”ポロロッカ”と呼ぶもののとよく似た生き物が浮かび上がってきて姿を見せてケラケラと甲高く嫌味な笑い声を響かせながら手に持った刺又と黒い悪魔のような羽根で”リネン”という悪魔の存在がポプリにしか見えていないであろうと言う事実を高木悠花の耳元でこっそりと囁いている。確かにそれは歌戀信之助が持っていた覇気や奇跡のようなものを具現化できる力と似たような冷たくけれど雄々しい雰囲気によく似たものであるけれど、高木悠花という存在を通してそれは酷く歪なものへと変化してしまっている。きっとそれは”ポロロッカ”が忠告していた血の匂いが好きなヘルツホルムの住人たちの一種だろうとポプリは目の前で起きているまるでお伽話のような現象をせいいっぱいの想像力を働かせて結論づけて、当然のことながら七星亜衣は彼女自身が普段従えている妖精たちが現実の少しだけずれた外縁部で生きる実在性を帯びた生き物であると言うことを逆説的に保障することになってしまう。高木悠花の右耳の穴から軟体性の身体を有した緑色の生き物が頭を出して表情を作りポプリに挨拶をする。おそらくポプリ以外からは高木悠花は突如現れた期待の若手としてオーラを振りまくような怪しい光を放ち続けるシンガーとして捉えられているのだろう、自己紹介をポプリにしてくる高木悠花の右の手には右頬から移動してきたような笑顔を浮かべるもう一つの口が気色の悪い言葉を並べて現実的な世界から剥離した高木悠花のペルソナをポプリに見せつけてくる。二人はそれ以上同じ場所に止まって必要以上に友好的な関係性を周りのテレビスタッフや他の出演者たちに伝えて誤解を振りまいてしまわないに留意して距離をとり、高木悠花は普段ポプリの傍にいる”ツーカー“や”ピーカーブー“や”グリセリン”とは違った種族のけれどとてもよく似た小さな来訪者とともに本番舞台の方へと消えていく。

「あれね。私の全盛期の時にもいたのよ。すぐ消えてしまうのだけどとても強烈。だから私もよく覚えてる。人の死にすごく近い歌ね。ウニカちゃんによく似てるわ」

ポプリと同じ歌番組であるパワステに出演する予定の彼女より十年先輩の大御所シンガーが後ろから肩に触れて耳元で体験談を伝えてくる。Snowは既にデビュー二十周年を超えてもなお業界での立ち位置を盤石にしているシンガーの一人ではあるけれど、ポプリには親近感のようなものを感じるのかこうやって歌番組やフェスのような場所で出会うたびに親切にSnowが経験してみてきた世界とポプリがこれから見るであろう世界を重ね合わせるようにして話しかけてくる。彼女たちの住んでいる場所がまるでずっと昔から執拗に繰り返される歌姫たちの世界であるということをもしかしたらSnowはポプリと共有したいのかもしれない。けれど、そこにほんの僅かばかりの妥協とは違う類の定形化した連続性に対する諦めを感じとってしまったポプリはいつものようにちょっとだけSnowから距離を取って当然ではあるけれど、摩擦のない適切な関係性を築こうとする。もしかしたら、そのことで少しだけ吐こうとする嘘を高木悠花が従えていた黒い悪魔は予言的に見透かして近づいてきたのかもしれない。ちょっとだけ未来を覗かれた気分になってポプリはせっかく本番に向けてつくりあげてきた集中力が乱された気分になるけれど、二ヶ月ぶりに出演するこの場所がポプリにとって必要な緊張感を与えてくる伏魔殿であることを思い出して彼女はステージ裏でテレビスタッフと打ち合わせをしていたバンドメンバーの元へと駆け寄っていく。なんだか彼女の杞憂なんて簡単に打ち消してしまうほどメンバーたちの準備は万端で呑気にもしかしたらちょっとだけ出来たツアー中の休暇程度にパワステ出演を捉えそうになっていた彼女の気持ちを簡単に引き締め直してくれる。けれど、高木悠花と出会った瞬間に感じ取った予感通りに、しっかりとポプリの頭の中の考えにはそして彼女が彼女自身だと最も自信を持って言うことのできる喉のあたりには奇妙な違和感が存在している。声が出せないということはない。しっかりとバンドメンバーには受け答えも十分に出来るし必要な情報を与え合うことが出来る。けれど、ポプリは、七星亜衣はそれが彼女の意志によるものなのか分からなくなってしまう。決定的にどこかで何か自分が自分ではなくなる瞬間を選んでしまったような気がしている。記憶が再生されて思い出によって自分を形作ろうとする作業がある起点を境にして中断されているような気がしてしまう。それは随分前にも彼女は経験をしている。17歳になってそれほど時間が経っていないある日、彼女は今日とまったく同じような体験をして、自我を消失してしまいそうになり、そうして彼女は時を超えてしまった。正確には、彼女がまだ産まれてもいない時代へと彼女は時間軸を逆行することで、過去と呼ばれ記録としてのみ存在している時空へとワープすることで彼女は現在より前の時間で起きた出来事を体験し、実際にまだ彼女という存在が現れる前の世界に干渉することに成功した。そうして、現在へと透明な壁をすり抜けるようにして戻ってきた彼女はヘルツホルムの住人たちと出会うことになった。彼らと初めて出会った時に、なぜ今まで見ることが出来なかったはずなのに突然彼女の前に姿をあらわすようになったのかを尋ねると、ぼくたちはいつもお前たちと生活や暮らしを共にしているけれど、姿や声を感じることが出来ないのはちょうどお前たちの言葉でいえば、裏返しになった世界でぼくたちは生きているからだと説明した。逆さまになった世界を想像したけれど、そうではないと”ポロロッカ”は説明をする。それはきっといつか君が知ることになる世界かもしれない。けれど、必要かどうかは自分自身で判断して決めればいい。もし逆さまの世界が存在している意味を君がどこかで知ることが出来るようになったのならば、自然と君は選び取るはずだ。そこでぼくたちの言っていた意味も理解するだろう。君はぼくたちの住んでいる世界がきっと必要だったんだと自分自身を例え痛めつけることになったとしても知ることになるだろうと銀色の身体の妖精は彼女の頭を撫でながらそう説明してくれた。もう一度喉の様子を確認する。声が出て鼓膜にもちゃんと届いていて何を言葉にしたのか意味も理解出来ている。けれど、ポプリは見えない違和感の正体を知りたいと強く願っている。だからまた過去に行かなければいけないと彼女は曖昧な答えを頭の中で思い浮かべる。あの時は、彼女は偶然、彼女が生きていた時代からちょうど五十年前の世界へとタイムドライブして文字通り時空を飛び越えてしまった。今はその方法をはっきりと彼女は知ることが出来ない。ただ、彼女は必ず過去へと飛び越える手段が必ず目の前に現れるはずだということを知っている。少しだけ目眩がする。高木悠花というシンガーが残していった悪い空気、すくなくともポプリにとってはそう思えるだけの空間に瘴気とでもいえそうな雰囲気が漂っていてそれを思い切り吸ってしまったせいで、彼女はクラリと酸素が足りなくなってしまったように足元がおぼつかなくなる。本番が近い。彼女は15000人の前ではないけれど、それでも確かに大勢の前で、いや、人数の問題ではないのかもしれない。彼女は歌を歌わなければいけない。しっかりしようと意識を取り戻そうとする。誰かが助けてくれることはきっとないだろう。彼女は彼女自身がそうであるという事実を伝えるためにアコースティックギターを彼女の歌を伝える道具として選び取っている。サングラスをかけた大御所タレントがステージ裏に入ってきて空気ががらりと変わってしまう。高木悠花の匂いは消えてしまったのかそれともなりを潜めてしまったのか分からないけれど、とにかく今のところは彼女の傍からは消えてしまっている。また時を越えよう。今度はもっとずっと近い場所へとても早く誰よりも早く飛び越えてしまおう。その手駒がもう彼女の手の中に揃い始めてきていることを彼女は強く実感している。ポプリはその答えを誰にも頼らず手に入れようとしている。リニアレールはもうすぐ傍まで近づいてきている。

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