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14. PV = nRT

悲鳴と絶叫が舞台上で乱舞して照明が不確かさを演出するようにして明滅している。

血の流れた死体から生気が感じられないことを『円夜凪』が蒼褪めながら抱き抱えている。

上手から『成瀬光流』が走り寄ってきて、真剣な形相で観客席に向かって叫び始める。

【ファーディナンド】(みなさん落ち着いてください! 私たちはお客様に最高純度の時間と空間を最後まで提供するつもりでいます。その場から離れずこの場から恐怖と不安が除去されるのをお待ちください!)

【ミランダ】(とにかく今はすぐに彼の死体を適切に処理しなければいけません。わかりますね、セレンティーヌ様。まずは落ち着いて。ファーディナンドがお部屋まで案内させて頂きます)

『円夜凪』の冷静な対応とは裏腹に泣き叫びながらうずくまってしまう旬倫と目の前に突然発生した血と肉の狂宴に一言も発することが出来ないまま呆然と立ち尽くす東條カヲルと転がった頭部の傍まで近づいてじっと見つめている東條渚を『成瀬光流』が一人ずつ優しく包容するように上手へと案内しようとする。

【ファーディナンド】(そうです。お客様。決して何があってもザ・ホテルでは必ずお客様を日常の外側へと連れ出すつもりでいます。さぁ、立ち上がって。いいですか? ここであったことはこれから起こり得る呪術の幕開けに過ぎません。気を付けて。悪魔がやってくるはずです)

騒ぎを聞きつけた道化師の姿をした『藍川夢』と巨軀に真新しい鮮やかな水色のドレスを纏った『美鈴霊子』が下手から慌てふためく様子もなく舞台中央の『尾道仁太』の首なし死体に向かって近づいてくる。

【トリンキュロー】(なんてことですか。大切なディナーショーの前にお客様の一人が死んでしまうなんて。それにこの人は毎年楽しみに見にきてくれている常連のゴンザーロ様。奥様だって疲れ切った顔をしてらっしゃる)

目元に星のタトゥーが入った『藍川夢』が焦る様子も見せずに少し戯けて見せながらロビー中央に近づいて泣いてうずくまっている旬倫を元気付けようとする。

まるで予定調和の一部に組み込まれてしまったように後から背中の曲がった『源総持』が下手から入場すると彼は一言も発することもないまま頭部を拾い上げて、『藍川夢』と二人で『尾道仁太』の死体を上手へと引き上げようとする。

死体の両手を掴み引き摺り歩く『藍川夢』が床に広がった血液で滑って転びそうになっているけれど、『尾道仁太』の頭部を胸元に抱えた『源総持』は彼女を一切手伝おうとすらせず、身体から切り離された頭の切断面から零れ落ちる血液で衣装が汚れるのも気にせずに舞台装置の一部と成り果てた『尾道仁太』を大切そうに上手へと連れ去っていく。

【キャリバン】(これでわかったろ。お前たちには私の歌が必要なんだ。さぁ、子供達。母を敬って大切にしてあげな。お部屋までファーディナンドが案内しなくてもお前たちが連れて行ってやれるだろう。ディナーショーまで時間がない)

【エイドリアン】(わかっているよ。パパは隣の部屋で眠っているだけって考えればいいんだろ。お前たちはすぐ子供を馬鹿にするんだ)

【フランシスコ】(お兄ちゃん。戦うよりも今はママを癒してあげる方が大切だよ。もしかしたら扉の向こうからパパが帰ってきてくれることだってあるかもしれないだろ)

何かに気づいたように『旬倫』が下唇に人差し指を当てて自分が今やるべき役割のようなものを思い出して立ち上がる。

『成瀬光流』は彼女に問題がないことを確認した後に『間黒男』に対してポケットに入っていた銀の匙を投げつける。

ロビーカウンターの中から事態を見守っていた『間黒男』が舞台装置に仕掛けられた恒常性を維持する機能が破壊されてしまったことを理解して夢と現実が接続される必要性があることを『円夜凪』に向かって合図する。

【プロスペロー】(いけませんね。ホテルの顔たるあなたに曇りが見えている。今はすぐにでもこの場を夢と奇跡に押し戻さなければいけない。暗闇が襲いかかってくるのを承知でザ・ホテルのフロントに立っているのでしょう)

口惜しそうに唇を噛みしめながら『円夜凪』は立ち上がり、観客席に向かって走って行き、舞台一番手前で右足を大きく踏み込んで床を鳴らしてどこかに潜んでいるはずの悪意に向かって宣告する。

【ミランダ】(今、夢の扉は開かれた。私と同じ形をしたお前が黒く塗り潰された自我を押し殺して機会を窺っているのを知っている。私は決して奪われたりしない。真の希望はすでに私と一つになりたがっていると思うが良い)

『円夜凪』は再び舞台に背を向けて『成瀬光流』とともに下手へと消えていく。

切り落とされた右腕を追い求めて新しく付け替えるような外科手術が劇場内でリアルタイムに行われていく。

演劇として実行されている同期した時間にズレを感じさせない光が明滅する照明に変わって不安と恐怖を煽るのを辞めていく。

信じることの出来る希望だけが残り、『美鈴霊子』が両手を拡げて深く大きな声で歌を歌い始める。


蜜蜂が蜜を吸ってるところで蜜を吸い、

黄花九輪桜の鐘形の鼻に寝て、

梟が鳴く時までそこに寝る。

蝙蝠の背中に乗って飛んで行く。

夏の後を追って陽気に、楽しく。

陽気に、楽しく今こそ暮らそう。

木の枝に下がる花の木陰で。


【キャリバン】(そうだ。今日この時この場所に集まった人々の全てが私の歌を聞きにやってきている。何があっても辞めるわけにはいかない。血と肉がテーブルの上に並べられるのはいつもと変わらない。お前たちはそれを食べにやってきているのだろう)

【プロスペロー】(これで準備は整ったはずです。キャリバンよ、古き魔女の血で穢した想いを思い知るが良い。シクラコスは必ずお前の皮を剥ぎにやってくるぞ)

『間黒男』と『美鈴霊子』だけが残った舞台から光が奪われて照明によって微かに保たれていた狂気との境界線が曖昧になっていきながら暗闇に覆われる。

ぐるりと反転した舞台の上手から『加戸詩由子』がみすぼらしい洋服から仕立て上げたようなドレスをまとって堂々とした足取りで入場してくる。

【エアリアル】(私の思いはやがて成就される。すでに生贄は捧げられた。後は決して逃れることの出来ない運命を受け入れて世界の全てを燃やし尽くしてしまうだけ。支配人はきっとそれを望んでいるに違いない)

暗転した舞台に三十四ルクス程度の光が戻ってくると、ホテルの一室のような光景の中央のテーブルを挟んで『星川荘子』と『悠美里』の二人が向かい合って座っている。

彼女たちの背後には血に塗れた両腕が植木鉢に突き刺さって置かれ、様々な形をした柱時計がチクタクと同一のリズムで時を刻んでいる。

永遠を約束した恋人同士みたいな二人が毛皮とスーツの上着を脱いで時間と同期した言葉を交換し合って愛について複雑な問題を語ろうとしている。

【アントニオーニ】(君には苦労をかけて済まない。普段眩い光の中で過ごしているのにも関わらず、ぼくに付き合ってこんな暗がりで耐え忍んでいる。だけど、今日だけは特別だ。最上階ならば、きっと誰の邪魔も入ることはない)

【アロンゾー】(私が気にしているのはそんなことじゃないわ。もし少しでもあなたが私のことに疑念を持っているのならば、きっと世界の半分を手渡さなければいけなくなる。私にはそれが我慢ならない)

【アントニオーニ】(仕方がないとぼくが弱音を零してしまえば、きっとまた血が流れて誰かが犠牲になるに違いないと迷うことが間違っているのかな)

【アロンゾー】(違う。あなたはそれを望んでいるのにも関わらず喜びに溢れて生きることをはしたないと考えているんだ。偽善でも悪意であってもあなたは自分で選択した行為にしか溺れたりしないはずだ)

【アントニオーニ】(だから誰かの毛皮を剥いで生きてさえいれば、君は笑顔を保てるってことかい。悲しみや憤りにだって高純度の価値は存在している。まるでそれは刺青のようにぼくの心に刻まれていくんだ)

【アロンゾー】(忘れてしまうような過去ならばもはやこだわる必要なんてないのかもしれないね。私はあなたの病を喰らい尽くすまであなたから離れることは考える必要はきっとないのね。とても悲しいことだけれど)

トントンと扉を叩く音がして、下手から背中の曲がった男が配膳テーブルを持って入ってくる。

『源総持』の配膳服は頭部を抱えて消えた時と同じように血で汚れたままだけれど、それは清潔さを維持するためにというよりも清浄性を保つためだけに保持されているようで、彼の役割を汚すものではないようだ。

【ステファノ】(食事の時間までこちらを楽しんでいただければとご用意させていただきました。時を刻む振り子が煩くて仕方ないでしょう。静止した闇の中へと舞い戻って隔絶してしまえるのであればあなたがた二人は燃え尽きることのない炎を享受出来るのではないでしょうか)

『源総持』は持ってきた配膳テーブルの上に置かれた銀の盆の蓋をとり、皿の上に乗っていた取り除かれたばかりの心臓を『星川荘子』と『悠美里』に提供する。

まだ血液でたっぷりと濡れていてまるで渇くことを知らない循環機関の源に欲情した『悠美里』は右手で『尾道仁太』の心臓を鷲掴みにすると、迷わず口元に運んでかじりつき、内部に溜まった血液が吹き出して自分の体を赤く染めてしまうことも気にせず、口に含んだ肉片をペっと『星川荘子』の顔面に向かって吐き捨てる。

【アントニオーニ】(ぼくたちが本当に必要だったものを探し当てることが出来たのが誰だったのかを君は知っているという顔をしている。この皿の上に置かれていた循環機関を月の住民への捧げ物に変えてしまうつもりだろう)

【アロンゾー】(私の選んできた道が間違いだったとでも言いたいの? 暴力も快楽も世界から除去されたとしても私とあなたはきっと残っている。それだけで十分だって何度言えば伝わるのかしら)

【アントニオーニ】(必要なものを捨ててまで果てようとは思わないさ。けれど、刹那を奪い取るものがいるのだとしたらぼくは剣を持とう。きっとぼくに出来ることはそれぐらいの話さ)

【アロンゾー】(わかってくれるのならいいの。それを永遠と呼んでしまう私のことを許してくれるだけで十分だと思っているから。忘れることだけが幸福を呼び寄せるとは限らないでしょう)

『悠美里』はテーブルの上に心臓を置いてほんの十分ほど前まで生きていた『尾道仁太』の身体の一部を二人で共有しようとする。

決して変えられないものに抗うようにして動いていた柱時計の振り子が一斉に力を失って徐々に運動を停止しようとする。

止まった時の中で動いて愛を囁き合っているのは『星川荘子』と『悠美里』の二人だけになり、いつの間にかせむし男の配膳人は姿を消している。

【アントニオーニ】(時間通りにぼくたちはディナーショーに向かう必要がある。まるであらかじめ決められた恋人同士みたいにただ手を繋いで下の階まで降りていく。いや、君の場合には新しい世界への扉をくぐるといった方がいいのかもしれない)

【アロンゾー】(やっぱりあなたは忘れてしまっているのね。ちゃんと私は昨日の夜に伝えたはずよ。いつもと変わらないことを同じように繰り返すだけなの。特別なことなんて何一つないのよ)

【アントニオーニ】(特別なことを失おうなんてまだ君は思っている。君が当たり前のことを大切にしようと思うのと同じぐらいぼくは目の前に感じているものの全てを特別だと思っている。誰にも明け渡す気はないんだ)

【アロンゾー】(歯車の動きに一分の乱れもない世界なんて誰かの見ている夢の中にしかないって思っていたわ。いいのね、これで。私が思っていた通りの人なのね、あなたは)

テーブルの上にはコーヒーカップが二つ置かれている。

そのどちらも同じ大きさで区別する必要はないけれど、アロンゾーは少しだけ躊躇いがちに琥珀色の液体に口をつけてゴクリと身体の中に取り入れる。

ストライプのパンツをペイズリー柄のサスペンダーで止めワイシャツ姿の『星川荘子』は席から立ち上がって、『悠美里』に背を向ける。

スピーカーから心臓の音が聞こえ出して振り子時計の代わりに時を刻む。

照明がゆっくりと落とされて暗転すると、舞台は再び反転して、先ほどとはうってかわってごく普通のホテルの一室の光景が観客たちの視線に入り込んでくる。

【セレンティーヌ】(もう大丈夫よ。ママも少しだけ落ち着いてきたわ。初めから分かりきっていたことなの。ザ・ホテルに来たのだから何があってもママたちは狼狽えてはいけないわ。あなたたち二人なら分かっていることね)

旬倫の膝に寄りかかっているのは東條渚と東條カヲルで彼女は怯えて行き場所を見失おうとしている二人の子供をあやしてあげながら何も問題はないんですよと嘘をつく。

子供たち二人は大人の他愛のない嘘を見破って涙を流してしまいそうになるけれど、きっとここで悲しい表情を見せてしまったら母親を傷つけてしまうだろうと考えて無理矢理に笑顔を作り二人揃って膝の上から顔を見上げて優しく覗き込む。

【エイドリアン】(分かっているよ、ママ。ぼくたちはまだ何も知らない子供なんだ。この先に起きることは何もかもパパとママたちがなぞってきた道の途中の些細な思い出の欠片に過ぎないってことぐらい。けれど)

【フランシスコ】(そう。これから先にパパはいない。どこかで殺されそうになっていた猫の代わりにパパは自分の身を捧げたんでしょ。ぼくたちがもしかしたら猫を殺してしまうからパパはそれを嫌がったんだ)

『旬倫』はとてもわざとらしく大袈裟に涙なんて流す必要がないのに、声をあげて泣き喚く。

舞台上で行われているのが演劇という装置なのかそれとも日常という機能なのか誰も判別出来ないまま嵐に飲まれるザ・ホテルの光景に違和感が付け加えられていく。

コンコンとドアを叩く音がして『成瀬光流』が下手から入場してくる。

【ファーディナンド】(ゴンザーロ様のご遺体は支配人の言いつけを守り、内密にさせて頂きました。不自然なことかもしれませんが、せめてお客様に今宵のディナーショーを予定通りにつつがなくご招待するには致し方のない処置だとご理解ください。私たちは定刻通りに与えられた役目を実行するのです。セレンティーヌ様の指輪をこちらへ渡して頂いても構いませんか?)

『旬倫』は涙で赤く腫れた表情を観客たちに見せると、三秒間ほど迷った後に左手の薬指にはめられた銀色の指輪を取り外して『成瀬光流』に手渡す。

笑顔と確信めいた表情で指輪を『旬倫』から受け取った『成瀬光流』は観客席の方を振り向いて銀色の指輪を大きく投げて契約が破棄されたのだという事実を舞台の上に発動させる。

【セレンティーヌ】(とても簡単なことを教えてください。ゴンザーロは誰に殺されたのですか。あの人がもう二度と戻ってこないのだとしても私にはそれを知る義務があるはずなのです。銀色の誓いにかけて私はゴンザーロの死の正体をこの手に掴み取りたいのです)

【ファーディナンド】(これは形式化されて定型化された魔術が犯されたのだという明らかな挑戦状です。答えはいずれ私たちの元にやってくる。それを私たちは心の底から思い知っているはずなのです)

【エイドリアン】(ふーん。じゃあ、パパはなんの罪もないはずなのに君たちの我侭でこのホテルから退場させられたってことかな。なぜ当たり前のことが繰り返されなかったのか身に覚えはあるんでしょう)

【フランシスコ】(パズルのピースはそんな風に当て嵌めることは出来ない。それぞれ違う形をしているけれど、必ず自分の持ち場にしっかりと収まって一つの絵を完成させるはずだからね。君たちは結界に異物を持ち込んだじゃないかな)

【ファーディナンド】(支配人とミランダ様が作り上げたタイムテーブルに間違いなどありません。けれど、たった一つ。思い当たる節があるのだとすればディナーショーで出されるべき食事が置き換えられているのかもしれないということだけです)

【セレンティーヌ】(では皿の上に盛られるべきディナーをすり替えた人間がいるということですね。ゴンザーロはその為に殺されたと)

『旬倫』に寄りかかっていた東條カヲルが立ち上がり、観客席に向かってはっきりとした口調で自分の身体に刻まれた刺青を吐き出すようにして大きな声で話し始める。

【エイドリアン】(つまりこの中のどこかにパパを殺した犯人が隠れている。いつの間にか素知らぬ顔をして暗闇に紛れて決して見つからないはずだとタカを括っている。ママはその為に大切なものを失ってしまったと)

【フランシスコ】(だとしたらぼく達二人がパパの仇を取ってやる。ぼくたちの全てを嘲笑いながらのうのうと息を吸って血と肉の匂いを感じ取っている。お兄ちゃん。グリモワールが必要になるね)

東條渚がカヲルの後ろから駆け寄ってきて肩を叩いて左手にした腕時計で時間を確認させる。

東條カヲルは『旬倫』の背中のベッドの上に置かれていた書物を持ち出すと、ページを開いてまた舞台の先頭まで歩いていくと、指笛を吹いて天井に止まっていた梟を呼び出してくる。

【エイドリアン】(革命を望んだものがいるのだとしたらこの本に書かれた六万五千五百三十七通りの魔術を使って暴き出すこととしよう。予定調和は今解消された。ぼくの有能な相棒がこの事件を解決に導いてくれるはずだ)

機械仕掛けの梟が東條カヲルの右肩に止まって大きな声でトゥウィ(ト)ウーと鳴いて、夜が近づいてきたことを知らせる。

【フランシスコ】(そう、犯人はお前だ!)

東條渚は観客席に向かって右手をかざして指を差すと、舞台から照明がゆっくりと立ち消えていってエレベーターの起動音のようなものがスピーカーから鳴らされると、暗闇の中に東條渚と東條カヲルだけが残される。

再び照明が手前からあげられると、渚とカヲルは手にしたグリモワールを手に持って舞台中央へ向かい、彼らの動きに合わせてゆっくりと照明があげられていきセットとして用意されたバーカウンターを舞台右袖に見つけてその場で立ち尽くすと、カヲルは右手に持ったグリモワールを拡げる。

【カヲル】(さぁ、渚。まずはこの六十五階で必要になるのは、おそらく魔術番号千五百三十七番『一振りの刃と病を加速するだけに必要な黒い悪夢』になるはずだ。けれど、やはり何かがおかしい。どこかで装置が反転しているんだ。だからぼくらは上階にある大人の場所へ迷い込んでいる)

【渚】(わかっているよ、お兄ちゃん。ならば、ぼくの知識を使って『メテオラ』を実行することにしよう。千五百三十七番を改変して、『無限の包丁と病を加速するだけに必要な白い夢』を生成する。手伝ってくれるのはおそらくあの二人だよ)

渚が指差したカウンター席には黒いミニスカートを履いた『円夜凪』が空になったカクテルグラスを揺らしていて、彼女の傍に舞台下手から少しだけ早足で歩いてくるのは黒いジャケットとブルージーンズという高級ホテルのラウンジバーには似つかわしくないカジュアルな格好をした『手塚崇人』が入ってきて、カウンターの向こう側には真っ黒なシャツを着てシェーカーを振っているけれど、照明の加減で下半分しか顔の見えない男が立っている。

【アランドイル】(遅れて済まない。けれど、時計の針が歪み始めて真っ直ぐここに辿り着くことが出来なかったんだ。君に合わせて、見えないものを見つけようとした罰なのかな)

【ミランダ】(あなたはいつもそうやってまず最初に言い訳をする。だから今日はあなたに合わせて、先に用件を済ませるとするわ。次の予算審議案で再軍備に関する議題が提出されるのはまず確実ね)

【アランドイル】(君の仕事は伝わった。けれど、今日はそういうことを話に来たんじゃない。大切なものが目の前から失われてしまった穴埋めをぼくらはしていく必要があるんだ)

【ミランダ】(ねえ、それは私へ女に戻れと言っているようなものよ。いくらなんでも配置した時間がバラバラに組み合わされてしまうなんて聞いたことがないわ)

【アランドイル】(ところがそれぐらい事態は深刻だと言って構わない。何しろ、大切な右腕が切り落とされたんだ。もしこのまま誰が殺したのか見つけ出すことが出来なければぼくらは下手をすると永遠の中に閉じ込められてしまうかもしれないんだ)

【ミランダ】(あなたがそんなに真剣になることがあるなんて思っても見なかったわ。私がどんなにあなたのために世界を手に入れたとしても知らん振りをしているだけだと思っていたから)

【アランドイル】(相変わらず容赦がないね。とにかくグラスが空っぽのままだ。ぼくはマティーニを。君は?)

【ミランダ】(私も同じもので構わない。身体を失うのかもしれないと思って扉を開けた。それなら私はあなたに全てをあげる必要があるに決まっているわ)

顔のないバーテンダーが二人の話とシンクロするように目の前にカクテルグラスを二つ置いて、シェイカーからゆっくりとコアントローで白く濁った液体を注ぎ込み、カクテルピンにグリーンオリーブを突き刺して提供する。

その様子を見ていた東條渚とカヲルは無事に儀式が進行されていることを確認して、舞台左袖に用意されたDJブースを指差して色彩豊かな照明によってダンスフロアを構築する。

【ゲストA】(もし私の心の鍵を開けてくれる人がいるのなら、私はこのまま光に貫かれて死んでしまってもいいのかもしれない)

【ゲストB】(その通りね。今まで見たことも聞いたこともないダンスミュージックが私たちの耳と心を刺激する。そのまま快楽の渦に堕ちていくことだけが私たちの望みだもの)

【ゲストA】(ほら、もう夢野夢幻が新しいレコードを回し始めてくれるわ。私たちを音の洪水で呑み込んで隠された暗号を見つけてくれるのも後少しよ)

【ゲストB】(いっそのこと色彩豊かなレーザービームがこの街をディスコに変えてくれるんじゃないかしわ)

DJブースに立った夢野夢幻がターンテーブルにレコードを乗せて──※7Stina Nordenstam=Get On With Your Life──を回し始めると、スピーカーからざらざらとしたノイズが流れ始めて、舞台上の名もなき女性二人が踊り始める。

中央には大きな鏡があり、舞台中央で観客に背を向ける格好で東條渚とカヲルの姿を映し出している。

【カヲル】(さぁ、術式に必要なだけの触媒は揃ったはずだ。後は、詠唱を実行し、六十五階を正しい場所に戻すとしよう。ぼく達に必要なのは勇気だけさ)

【渚】(わかったよ、お兄ちゃん。ぼくにナイフを。反転して歪んでしまったぼくを射抜いてみせる。この場所に必要なのはいつもと同じ歌だけなんだ)

カヲルの手元にはいつの間にか一振りのナイフが握られていて、彼はそのまま渚にナイフを手渡すると、彼はそのままの位置でナイフを大鏡の自分が写った場所目掛けて放り投げる。

硬い金属が鏡面と激突すると、鏡に映っていた二人の小学生ぐらいの男の子がひび割れて破壊されてしまう。

舞台に灯っていた光が失われて、曲の再生が三次四十二分後に終了して暗闇に舞台が包まれる。

レコードのこすり合わせられるスクラッチノイズがスピーカから発せられると、高速回転と逆回転が交互に実行されるリズムに合わせて三原色のレーザービームが天井から降り注いでフラッシュライトに光と闇が交互に舞台上を照らし出す。

高濃度に圧縮された光は加工されることのないまま踊っている女性二人の身体を射抜いて高熱で皮膚を溶かしていくけれど、もし少しでも踊りを辞めようとした瞬間が彼女達に訪れようとすれば、身体を無理矢理呼び起こすようにして赤と青と黄色のレーザービームが彼女達を踊らせ続けてしまう。

DJのターンテーブリズムに合わせて光が雨のように振り続けていく様子をバーカウンターに座っていた『円夜凪』と手塚崇人は椅子を回転させて眺めているけれど、舞台装置に必要のないものが混ざり始めていることに気付いて、二人は席から立ち上がりお互いに抱き締め合いながら口づけをかわす。

ダンスフロアで運動法則を維持出来ないほどに身体を焼き尽くされた女性二人の倒れる音がすると、再び舞台が暗闇に包まれてしまい、声だけで繋がりあった二人が粉末状にまで砕かれてしまった出会いを音声信号によって拡散する。

【アランドイル】(今日はたっぷり時間をとってある。多分君も帰る必要はないはずだ。ルームキーは手に入れることが出来たし、再会を祝すとしよう)

【ミランダ】(あなたはいつも本当に強引で手加減が分からなくていつの間にか知らないうちに私を巻き込んでいる。そうやって手に入れた思いのままの世界で踊り続けるものがいなくなるまではきっと私はあなたのものでいられるはずなの。それだけを覚えておいてくれたらそれで私は変わる必要なんてどこにもないってさっきのキスでよくわかったわ)

スクラッチノイズが四十五回転のレコード音に戻されていくと、スピーカーからエレベーターの起動音が流れ始めて、沈黙だけが支配する世界へとザ・ホテルの六十五階は最下層まで降りていく。

受付ロビーにいたはずの『間黒男』の声が警告を鳴らして、東條渚とカヲルの追手を振り払おうとする。

【プロスペロー】(儀式は全てつつがなく進行している。さぁ、キャリバンよ。生贄どもを食らい、魔女シクラコスをこの世界に復活させよ。左眼のない女の呪いがザ・ホテルを覆い尽くしてしまうに違いない!)

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