わからないこと ~感覚~

日頃 当たり前であると思っていても実はよくわかつていないこははたくさんあります。

私には2人の息子がいますが、そういうことに気がつくことが、子供にとっても、あるいは大人にとっても 実は大変 重要なことではないかと思っています。

子供がそのようなことに興味を持ってくれば 、
それを種として様々なことへの気づきや興味が生じるかもしれませんし、それは探究心の原動力ともなるのではと思います。あるいは、将来 そのようなことを解明してくれる人が出てくるかもしれません。

大人にとっても、もしかしたら 一生 わからないことのまま終わってしまうのかもしれませんが、この世界や自分自身を生み出した自然の深遠さに気がつくことは、その人それぞれの形で、何らかの糧になるのではと思います。

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人の感覚とは 不思議なものである。

私たちが赤色と思って見ているものは、本当は赤色というイメージをまとったものではない。

私たちが赤いりんごを見た時にその赤というイメージは 脳内において生成されたものである。

リンゴそれ自身が最初から直接的に持っているものではない。

人間の目の細胞には、光の波長に合わせて 赤緑青の光に反応する細胞がある。また光の明るさに対して反応する細胞もある。

これらの細胞から、化学的あるいは電子的なパルスとして、情報が出力される。

これらの情報が脳内で組み合わされて、最終的に赤色というイメージを感じることができる。

あるいは、赤色に反応する細胞からの信号の情報と、他の信号とのバランスにより、微妙に違った赤色が表現される。

これは例えば、コンピューターのディスプレイに入力される信号は単なる電気的な信号で最初から赤や青などの色がついているわけではないが、LED が発光することにより綺麗な画像がディスプレイに表示されるのに似ている。

私たちの頭の中には コンピューターのディスプレイに相当するようなものが組み込まれているのだ。

このような信号の組み合わせから イメージが生み出される仕組みというのは全く不思議である。

耳から聞こえる音やご飯を食べた時の味わいも同じである。

耳にはカタツムリの形をした器官があり、外部から伝わった音がその中の毛を揺らして、音の周波数の分布を信号として伝える。

その周波数の分布によって外から聞こえる音の高さや音色がいわゆる「音」という感覚を生み出す。

同じように、舌には甘み、旨み、酸味、苦味、そして塩味を感じる細胞があって、そこからの信号の組み合わせにより「味」という感覚が生み出される。

アイスクリームを食べた時の、甘みと少し塩味が感じられる感覚は、その食物が持っている成分から、自分の体が生み出したものなのだ。

体の感覚、例えば 指をすり合わせた時に感じる感覚も同じである。指先からの信号が脳に伝わり、最終的に指先という場所に指が存在し、指が動いていること、あるいは自分が指を動かしていること、指の形状、皮膚の状態など、その微妙な感覚がわかる。

このような感覚もいわゆる 「脳内ディスプレイ」によって生成されたものである。

このように人間の感覚というのは全くもって不思議なものであるが、 一つの共通点がある。それはそのものの持っている特性をうまく表現しているということだ。

感覚器はその感覚器に特有の情報をシグナル として脳にもたらすのであるが、そのシグナルを感覚に変換する方法が見事である。

視覚であっても、聴覚であっても、脳内においては 同様に神経を伝わるシグナルであるにもかかわらず、全く違う種類の感覚に変換される。

例えば 視覚は、シグナルの生成元の場所や色がわかるように変換される。さらに、それらは、いくつかの物体に゙区分して認識され、一定の形を持つものとして表現される。

一方、音は耳が2つあることにより おおよそどちらの方向から来ているかという程度はわかるが視覚ほどに正確にその場所を知ることはできない。

これはそもそも、もととなるシグナルの特性や、感覚器からもたらされる情報の精度に由来するが、そのそれぞれの情報の精度や特性にフィットした、全く異なる感覚が生成されるということは、驚くべきことであると思う。

私はテニスをたまにするが、ラケットを使って
ボールを運ぶ 感覚も脳が生成しているものである。

ボールがガットに当たった時 そのボールの勢いや回転の具合などがわかるし、また自分がそのボールをうまくコントロールできているのかどうか という感じも、ある程度経験を積むと分かってくる。

脳は、ラケットのような元々人間の体にない道具を使う時の感覚も、様々な体の感覚を組み合わせて生成することができる。

そういう意味で、感覚というものは経験を通じてある程度後天的に鍛えていくことができるものでもある。

このように脳が生成する感覚というものは、表現の形式の豊かであり、また、後天的に獲得しうるものでもある。

脳の大きさは約1.2 L 程度であるといわれている。したがって その処理能力にも限界がある。

そのため、脳に入力される様々な情報や脳内において処理される様々な情報を、その特徴をとらえて圧縮して表現し処理する能力が生まれたのではないか。

生きていく上で 意味ある形で、物体を一つのまとまりのある特性を持ったものとして捉え そしてそれを脳内ディスプレイに表示するということが生存していく上で大変有利に作用したのだと思う。

私は、自己が存在するというイメージも、脳内ディスプレイに表示されたイメージであるのではないかと思う。

最初に、周りの環境に応じて自律的に動く自己というものが存在することにより、脳内ディスプレイに、そのような特性に応じた自己というイメージが表示されるようになったのではないだろうか。

もしかしたら、自己という感覚は、赤ちゃんが成長する過程で脳内ディスプレイの仕組みを通じて生成されてくるものなのかもしれない。

ただ、その脳内ディスプレイの仕組みは全くもってわからない。自己がそもそも脳内ディスプレイに表示される存在であるということが、もしかしたらそれに関係しているのかもしれない。

ただ、もしわかるのであれば、純粋な 知的な興味という点からは、将来 解明してもらいたいものだとも思う。

ただ、倫理的な側面を考えると、複雑な側面を孕んでいるとも思う。

今日、Chat GPT-4o のデモを ニュースで見た。それは、音声や画像などの様々な入力を用いて、質問に対して、まるで人間のような返事をしていた。

GPT-4oには、脳内ディスプレイは搭載されていないと思うが、将来その仕組みが解明され、その機能が搭載された AI が出て来る可能性もあると思う。

あるいは 脳内ディスプレイという機能 そのものが、ある種の機械学習のプロセスの結果、自然発生的に生じるものである可能性もある。

そのような場合、自分という存在を感知する AI も生じてくる可能性もあると思う。

そのような AI が生じてくるようになった場合、人間と AI の関係性について、深い議論やコンセンサスが必要になると思う。

いままで全く考えてもみなかったような課題が存在する可能性もある。

一見すると ありえないような話に聞こえるかもしれないが、すでにそのような準備が必要な世界が来ているのかもしれない。































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