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それは差別なのか、それとも区別なのか

差別と区別。

その違いは差があることで分けること、境目があることで分けることの違い。

同じ土俵にのっている状態で、差がある状態として認識することが差別。

区別はそもそも特徴が異なる状態であること。

差別に対しては、批判の対象になったり、そこに上下関係が生まれたりする。

一方区別については、あくまでも違いを認識することのみ。

2つのことばの間にあるもの、そしてその言葉がさすものは全く違う。

それにもかかわらず、この2つが混同されてて適用される場面が多いように感じる。

その結果、本来ならば区別として捉える方が良いものが、差別として捉えられていたりすることがある。

その結果として、起きる必要性のないもめごとや争いごとが多く発生している。




例えば男女の違いというものは、差別なのか区別なのか。

力という軸で見たら、確かに差別といえるかもしれない。

平均寿命という観点で見ても、時には差別と言えるかもしれない。

しかしながら、そもそも特徴として全く異なるものが多いことから、本来ならば区別と見たほうが良いような場面も多い気がする。

好みや考え方の違い、思考回路の特徴含めて、それを差と呼ぶというよりもべつのものとして区別として扱うほうが良い気がする。

比べるべき内容というよりも、それは区別として扱う事によって、それぞれがお互いに尊重される。

それでこそ、争いや諍いというものが少なくなるのではないのだろうか。




江戸時代の士農工商についてはどうなのか。

差別という文脈で扱われることもあるが、実際は区別として機能し役割分担を明確にしたものに過ぎないという話もある。

そうすることによって、多くの人が自分の役割を認識してしっかりとお互いに支え合うという解釈でいるならば、江戸時代はそこまでひどい社会ではないに違いない。

むしろ現代よりも進んでいることも多くあるに違いない。

なにせ、200年以上平和が保たれたということそのものが、とても価値のある事であるのだから。




肌の色によって差別が発生してきた時代。

それによって多くの人が悲しむことや苦しむことが発生していたのは、差によって利益を得る人がいたから。

他人より優れていたいと感じる人が多かったから。

しかし、実際のところは肌の色それそれは区別に過ぎないと解釈することが出来る。

実際のところはただ色が違うだけで、人間であることには変わりない。

区別に過ぎないものが差別という文脈に変わることによって、ややこしくなっていることが多い気がする。




男女・身分・肌の色、それぞれは確かに違うことはあるかもしれない。

そもそもどちらが優れている、劣っているはない。

というのも軸とするもの次第で、すべてが逆転することも十分あるから。

そしてそこに生じる違いというもの、それを差別として捉えるか、区別として捉えるか。

そして、差や違いがあったとしても、お互いに助け合ったり尊重し合ったりする関係でいられるかどうか。

無駄に争いを増やすような差別という文脈ではなく、あくまでも区別として捉える文脈がもっと当たり前になって行くことがあればなと感じる。




ありがとうございました。

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