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哲学書を読んで、恋人と別れた。

物心がついた頃から、理屈っぽい人間だった。

何か問題が生じたら、その問題に対処するための理論を、いつも求めた。

就職について考えるとき、普通の大学生は先輩やOBに意見を求めるらしいが、僕はその発想がさっぱり理解できない。

OBはいつも、場当たり的な「こうすれば就活がうまくいくよ」等のアドバイスしかくれない。「そもそも仕事とは何か」というような大きな命題に対する体系立った理論を、彼らは持っていない。

こんな人に相談しても何の意味もない。僕が聞きたいのは場当たり的な攻略法ではなく、揺らがない真理なのだ。

だから大学生の僕は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だの、「資本論」だのと言った、「仕事とは何か」の答えに近そうなものを付け焼き刃で勉強した。そんなことばかりやってるせいで、就職しそこなってネット芸人になってしまった

それでも、後悔していない。理屈っぽい人間なので、理屈を求めて生きていく。今までも、これからも。


「結婚」という人生のステップ

僕は怠惰なのかもしれない。表向きは精力的に動き回ったりものを考えたりしているけれど、人生の大きなステップに対する理屈の探求は、いつも〆切ギリギリだ。

大学1年生の頃は労働とは全く関係のない本をいつも読んでいて、卒業が近くなってから慌てて資本論を付け焼き刃で勉強した(そのせいで、ほとんど身についていない)。

その習慣はずっと一緒だった。大学生の就活に限らず、人生の諸問題をいつもギリギリまで棚上げしてきた。

今回は、それが「結婚」であっただけだ。


一年半ほど交際した恋人は、ここ数ヶ月で本格的に「結婚をしたい」と言うようになった。

最初の内こそ僕は「恋人同士の睦言」という文脈にしたがって、それなりに前向きな答えをしていた。きっといつか、なんて。今までの人生で僕は、女性に対して、こんな睦言の対応ばかりやって生きてきた。

だけど、どうやら今回、彼女は真剣にその要望を口にしているようだった。僕はいい加減な睦言の世界を離れて、誠実に向き合わなければならない、と思った。


結婚とは何なのだろう。人を愛するとは何なのだろう。今までの人生でも漠然と考えて、漠然とした答えしか持っていなかった問いが、リアルな重みを伴って僕の前に降ってきた。

暫定的にでもいいから、答えを出さねばならない。今持っている漠然とした答えではなく、現時点でそれなりに納得の行く答えを、理論立てて構築したい。

だから、僕はやはり本を読んだ。エーリッヒ・フロム「愛するということ」を読むことにした。

エーリッヒ・フロムは、教科書にも載っている20世紀を代表する思想家の一人だ。1956年に書かれた本書は、60年以上経った今も読み継がれる名著らしい。

本書の原題は「The Art of Loving」すなわち「愛の技術」である。翻訳者がタイトルのニュアンスを変えた理由はよく分かる。「愛の技術」だと、恋愛のノウハウ本っぽくなってしまうので、それを嫌ったのだろう。

そう。本書は恋愛のノウハウ本ではない。むしろ、非ノウハウ本と言ってもいい。いかにも理屈っぽい本である(そして、僕はそういうのが好きだ)。


あいみょんキラーとしてのエーリッヒ・フロム

この本の主題は、「愛することの困難さ」である。「愛されることの困難さ」ではない。

著者の大まかな主張はこうだ。「愛とは、技術である。愛とは自ら進んで身につけるべき能動的な態度であり、受動的なものではない。世間の人は勘違いしている。”愛すべき対象に出会えるか”など、些細な問題にすぎない。あなたが愛することができれば、そこに愛はあるのだ」

この本、サスガに何十年も読み継がれているだけあって、主張がバチバチにセンセーショナルで面白い。愛は技術によって生まれる能動的なものだという主張は、「愛する相手など誰でもいい」という主張である。本人が愛の技術を身に着けていれば、そこに愛は作り出せる、ということになる。

更に言うと、”愛されるかどうか”さえもどうでもいいと著者は主張する。「あなたが愛されないのは、愛することができていないからだ」とも。すごい。ちょっと強引なところも多いが、非常にパワフルな論を展開していて面白い。


あいみょんの曲「夢追いベンガル」の中に

セックスばっかのお前らなんかより 愛情求め生きてきてんのに
ああ、今日も愛されない

という歌詞があるが、これをエーリッヒ・フロムが聞いたら「お前が愛されないのは愛することができていないからだ。愛されないことを嘆く前に、愛の技術を磨きなさい」とボロクソに言うだろう。すごい。この理論一つであいみょんの他の曲も全滅してしまう。エーリッヒ・フロム、60年も前にあいみょんの全てを論破している。稀代のあいみょんキラーだ。


論点は、たった一つ

稀代のあいみょんキラーことエーリッヒ・フロムの主張は、非常に力強く興味深いものだ。

「愛とは能動的なものであり、意志によって制御できる。外部環境は問題ではない」という本の主題については大いに説得力があり、賛同できる。(ただし、細かい部分についてはかなり強引で同意しかねる部分も多い。「同性愛者は生涯本当の愛に出会うことはない」みたいなめちゃくちゃ怒られそうなことも書いてあって、時代を感じるなぁと思ったりもした)


「愛は能動的なものだ」というエーリッヒ・フロムの主張を取り入れるならば、僕はどうしたらいいのだろうか。

ある意味、これは分かりやすい希望の教えである。

なぜなら、対象は誰でもいいのだから、そのまま彼女と結婚してもいいのだ。何も難しいことはない。僕は愛するということをただ決意し、愛する態度を成熟させていけばいい。


誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である
エーリッヒ・フロム.『愛するということ』新訳版 (Kindle の位置No.923-924). 紀伊國屋書店


結局、問題はただ「僕が決意するかどうか」だけなのだ。それ以外のことは全く関係ない。

結婚や子育てにはこのくらいの金がかかるという金勘定とか、いつ結婚してライフステージを進めたいかという人生設計とか、どんな家庭を持ってどんな家族生活を送りたいかとか、結婚に関して元々僕の頭に浮かんでいた諸問題は全て些事にすぎない。フロムに言わせれば、大切なのはただ「愛するという決意」であり、それさえあれば人は幸せになれる、という。

切れ味鋭い名著は、ここがたまらない。100個の要素が組み合わせられた複雑で難解な問題に対して、「実は99個の要素は関係ない。大切なのは1個だけだ」とズバッと切り捨てる気持ちよさがある。名著の主張は常に単純だ。


そういうワケで、この本を読んで、僕の頭はずいぶんと整理された。金勘定もキャリア設計も理想の家族像も、何一つ考える必要はない。「決意するかどうか」というただ一点に絞られる。


仮に、政略結婚だったなら

著者は、愛についての誤解、すなわち「愛とは能力でなく対象によって生まれるものだ」という誤解がどこから生まれたのかについて、こう考察している。

・昔は、愛は自発的な体験ではなかった。結婚は常に双方の家によって取り決められ、結婚した後ではじめて愛が生まれるのだと考えられていた
・しかし、ここ数世代で、ロマンティック・ラブという概念が西洋社会に広く浸透した。「自由な愛」が広まったことによって、誰もが「良い対象(恋人)」を求めるようになった。

これは大いにうなずける話だ。

牧歌的な現代人の感覚は「結婚相手が勝手に決められるなんてとんでもない!」だろうが、「愛するとは能動的な行為だ」という前提に立てば、全くおかしくない。それどころか、選択肢をなくすのは理にかなっているとさえ言える。


心理学者のバリー・シュワルツは、選択肢が多すぎると人は不幸になると指摘している。1747名を対象にした彼の調査によれば、日常における選択肢が多い人ほど過去の自分の選択を後悔しており、抑うつ傾向にあったそうだ。

選択したものを楽しんでいる最中も、「これは完璧な選択だったのだろうか。もっと良い選択ができたのではないか」と考えてしまい、満足度が下がるらしい。確かに、僕の生活を振り返ってもそういうことは往々にしてある。ラーメン屋に入ろうかカレー屋に入ろうか悩んだ挙げ句、ラーメンのことを考えながらカレーを食べた経験もある。

現代の離婚率の高さも、ここに端を発しているのではないだろうか。「自分のパートナーとして、もっと良い人がいたはずなのに」と考えてしまうから、満足度が下がる。エーリッヒ・フロム流に言うなら、愛するという決意が揺らぐ


僕は、「仮に自分が彼女と、政略結婚をさせられるとしたらどうか」と考えてみた。僕はどこかの戦国武将の息子で、同じくどこかの戦国武将の娘と結婚せねばならないとしたら。それが彼女だったとしたら。

この思考実験の結論は、「全く問題ない」だった。きっと彼女を愛し、幸せに一生を送っていけるだろう。

「決意する」ことの力は強い。この点においてフロムは本当に正しい。愛において対象は重要ではなく、決意することだけが重要だ。


対象は重要ではないけれど、重要なのだ

フロムは、「対象は重要ではない」ということを繰り返し言っていた。それは多分正しいのだけれど、半分しか正しくない

「必ず、今から誰かと結婚生活をするぞ」という前提の下でなら、対象は重要ではない。親が決めた結婚相手にせよ、自分で身つけた手近な相手と結婚するにせよ、愛するという決意をしさえすればいいということになる。


だけど、僕は結婚を義務付けられていない。一生独身でいて、「愛する決意」も持つことなく、身軽に幸せに人生を終えることもできる。(フロムは、「愛することが唯一幸福に至る道だ」とも言っているが、僕はそれには同意できない)

だから、逆説的だが、対象は重要なのだ

僕は彼女を見て、「この人を愛する決意をしよう。結婚して幸せな家庭を築こう」とは思えなかった。それよりも、身軽な生活の方が好ましいのではないかと思った。

「決意をする」という決意が、僕にはできなかった。


そう、結論はこうだ。愛するということは決意の問題であり、対象は重要ではない。ここまではフロムが正しい。だけど、現代社会において、「愛する決意をしよう」と思わせるのは、対象の力だ。

戦国時代のような「結婚しなければいけない」がある場合は、あとは「決意をするだけだ」ということになる。別に戦国時代に限らない。現代社会において「結婚しなければいけない。とにかく結婚したい」と必死で思っている人(「親に孫の顔を見せなければ」などの理解に苦しむ人生観を持つ人が無限に見受けられる)も同様で、相手は誰でもいいから決意をしろ、ということになる。

僕はそうではなかった。家庭を持ち子を育むことは、「やってみたい」ことではあるが、「やらなければならない」ことではない。やらずに生涯が終わっても構わないし、10年後でも構わない。

そんな何の外圧もない僕が「結婚しよう。愛する決意をしよう」と思うためには、「決意をしたい」と思わせてくれる対象が必要だった。


これは、僕の未熟さなのだろう

この結論をエーリッヒ・フロムにぶつけたなら、彼は「お前は結局、自分が他者を愛せないのを対象のせいにしている。受動的な態度のアホが!」と怒られるだろう。あいみょんに続くフロムの犠牲者は僕だ

きっとそのとおりで、僕は未熟な人間なのだ。前述の通り、フロムは「人間が唯一、真に得られる幸福は愛である」と主張しているが、これには同意できない。それは未熟な人間の態度だとフロムは言う。


ところで、フロムは「創作活動」についても言及している。創作活動で、人はそれなりに幸福を感じられる、と。その部分を引用しよう。

どんなタイプの創造的活動においても、働く者とその対象は一体となり、人間は創造の過程で世界と一体化する。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』新訳版(Kindleの位置No.299-300).紀伊國屋書店.Kindle版.

ここだけだと意味が分かりにくいので続きを補足すると、「そして、世界と一体化すると一体感を得られ、幸福になる」ということである。

もっと分かりやすくまとめるなら、「創作活動によって人は孤独を癒やされ、幸福になる」という主張だ。

確かにそうだ。僕はこの有料マガジンを含め、何かを作ることでいつも幸福を得ている。「文章を書くな。企画を作るな」と言われたら、退屈になるし孤独を感じて、不幸になるだろう。

じゃあ僕は「創作によって癒やされているからOK」なのかというとそんなことはなく、フロムは「これは人間どうしの一体感ではない」から、イマイチだよと言っている。

生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。(中略)完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある
エーリッヒ・フロム『愛するということ』新訳版(Kindleの位置No.306-307).紀伊國屋書店.Kindle版.

生産活動ではなく、答えは愛だ!という主張。

このフロムの主張は、今のところ賛同できない。「いや、あの、フロム先生、僕は今特に孤独じゃないし幸せなんですが……」としか言えない。

それはフロムに言わせると未熟な人の態度だそうだ。そうなのかもしれない。数年後、もう少し僕が人間的に成熟したら、フロムの主張も理解できるようになるのかもしれない。(このマガジンを書いている限り人間的に成熟しなさそうという疑念は一旦置いておこう)


愛なき時代に生まれたわけじゃない

先日、ずいぶん久しぶりに会った彼女に、この結論を伝えた。まさか別れ話でエーリッヒ・フロムがどうのこうのと講釈を垂れるワケにはいかないので、「ごめん。君と結婚する未来は見えない」と、普通すぎる言葉を伝えた。どんなに古典を勉強しても、僕らが語れるのは普段着の言葉だけだ。

話の帰結は自然と、「もう終わりにしよう。ごめん」になった。彼女は思いのほか落ち着いていて、静かに「分かった」と言った。目はいつもより潤んでいた気がしたけど、声はいつもどおりだった。

別れ話はあまりにあっさり終わった。混み始める前の中央線に乗って、イヤホンで音楽を聞きながら帰る。選曲はいつものストリーミングサービスに任せた。

斉藤和義の『やさしくなりたい』が流れた。

愛なき時代に生まれたわけじゃない
強くなりたい やさしくなりたい

エーリッヒ・フロムは、資本主義の時代の中では、本当の愛を生むのは極めて難しいと指摘している。そこでは全てのものが市場原理で取引されるため、夫婦の関係さえも「この関係によって利益が得られるように」という利己主義的なパートナーシップしか築けない、と。

フロムは、まさに現代は「愛なき時代」だと指摘しているのだ。


電車の窓から、流れていくネオンを見る。彼女に申し訳なかったな、と思った。僕は強くもやさしくもなかった。男女の睦言という文脈に甘えて曖昧な返事をして、彼女の質問を何度もやり過ごしてしまった。

もう、そんな恋はやめよう、と思った。

次があるとするなら、愛するという決意ができる相手に対してか、あるいは、僕のマインドが成熟して「愛こそが人間の幸福だ。結婚をしよう」になってからだろう。それが誠実だし、愛なき時代を加速させないための正しい行動なのだと思う。


強くなりたい。やさしくなりたい。


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