「能」を見に行ったら既得権益だらけのワンダーランドだった。
先日、「能」を生まれてはじめて見に行った。
能、あなたは見たことがあるだろうか?「なんか分かんねえけど日本の伝統芸能だよな。あとなんか面を被る」ぐらいの認識の人が多いのではなかろうか。見に行くまでは僕もそうだった。
で、見に行った後の最大の感想は「既得権益だ」だったので、そのことを皆様にお伝えしたい。
ねえ、秒速5ミリなんだって
能の最大の特徴は、その「遅さ」にある。
動きがとにかく遅い。パート初日ババアのレジ打ちより遅い。いなかジジイが田んぼに運転していく軽トラより遅い。遅くてビックリしっぱなしの3時間だった。
特に圧巻だったのは、「演者が退場していくところ」である。舞台の真ん中から端まで退場していくのに、4分くらいかかった。
移動速度、秒速5ミリメートルくらいだと思う。見ていてもほとんど変化が分からないレベルだ。
「ねえ、秒速5ミリなんだって」
「えっ、なに?」
「能の演者が退場するスピード。秒速5ミリメートル」
とかそういう会話が行われるレベルだ。
何なら、始まる前に「演者が舞台から完全に退場するまで、お立ちにならないようにお願いします」ってアナウンスされてたからね。やってる側も分かってるんだよね、いくらなんでもこれ遅いなって。皆帰っちゃうよなって。
だって、映画のエンドロールでも帰るヤツいっぱいいるもんね。でもね、能を見た後だから言える。エンドロールなんて楽しむ要素いっぱいあるよ。キャストを見て「この人出てたっけ?」って考えたり、メイクアーティストの人数を見て「すごいメイクに力入れた映画なんだなあ」って考えたり、流れてる音楽に耳を傾けたりできる。もちろん、エンドロールが流れていく速度は秒速5ミリメートルじゃない。
それに比べて、能の退場時はヤバい。まず完全に無音。退場する演者も秒速5ミリメートルでしか移動しないから、何も楽しむものがない。せめて退場する人が途中で面白いポーズとかになったらいいんだけど、能でおなじみのあのポーズを一切崩さないで移動するから、完全に無の時間。
(画像引用元:https://art-fuji.info/event/3221.html )
前述の通り、やってる側も分かってる。「あ、これ見てる人退屈だな。席を立っちゃうな」って。それなのに一切改善されない。すごい。顧客のニーズを満たそうとかそういう気持ちは全くない。
まるで、嫌な感じの市役所職員みたいだ。普通の企業ならクビになりそうな接客をしてるのに、公務員だからクビにならない。
あ、そうか、とここで気づく。これは既得権益なのだ。「伝統芸能」として成立した能。”なんかすごそう”で皆が見に来る能。”織田信長の時代から変わっていない”ことがウリになる能。
そこに市場原理は働いていない。普通エンターテイメントというものは市場原理によって進化を求められるものだが、もはや既得権益になってしまった「能」は黙っていても客が来る。つまり進化しなくていいのだ。
既得権益化の仕組み「幽玄」
能、考えてみると自身を”既得権益化”する仕組みがたくさんある。
例えば、「幽玄」という言葉もそうだ。
能の良さはしばしば「幽玄」という言葉で表される。幽玄の意味を調べてみよう。
物事の趣きが奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。
趣きが深く、高尚で優美なこと。また、そのさま。
気品があり、優雅なこと。また、そのさま。
上品でやさしいこと。そのさま。
中古の「もののあはれ」を受け継ぐ、中世の文学・芸能の美的理念の一。言葉に表れない、深くほのかな余情の美。
(引用元:Wikipedia「幽玄」)
多い。
まあとにかく、「趣がある」的な内容であれば何にでも使えるくらい、広範な意味を指す言葉らしい。
一般的には「優雅で趣がある」くらいの意味がメインのようだ。
能を完成させた世阿弥は、その著書『花鏡』の中で、
「ことさら当芸において、幽玄の風体第一とせり。」
(能では、幽玄の姿であることが、第一に大事なことである。)
と述べたそうだ。(参考:http://www.the-noh.com/jp/zeami/brand.html )
そんな歴史的背景があり、能の良さはしばしば「幽玄」という言葉とセットで語られる。
しかし、僕は思う。それズルくない?
「これは幽玄だから」ってそれ何でもありじゃん。幽玄、よく分かんないからこっちは納得するしかないじゃん。
そんな魔法の言葉ズルくない?皆、一生懸命「このカフェは内装がキレイで落ち着く」とか「この映画は主役の演技がいい」とか具体的な良さで戦ってるのに、「能は幽玄」で済ませるのズルくない??
そんなんOKなら皆やり始めるぞ。「このカフェは幽玄」って言い始めるぞ。食べログのレビューに書くぞ。「このカフェは幽玄。星5つです」って書くぞ。映画評論家も「この映画は幽玄」って言い出すぞ。この世界が何の情報量もない幽玄ディストピアになってしまう。
しかし、「いや、幽玄はズルいですよ」と言える空気ではない。なぜなら一度権威付けが終わっているので、「幽玄が分からないヤツ=バカ」という認識をされてしまうからだ。「織田信長も愛した幽玄」とか言われると、分かんない方が悪いという空気になってしまう。
こうなると、「幽玄」という言葉は既得権益を強化する一方である。「幽玄って実はズルいよね。能もちゃんと具体的な良さで勝負すべきだよね」と疑義を投げかけると、「あいつは幽玄が分からないバカだ」思われてしまう。
この姿はまさに、族議員と業界団体の癒着にメスを入れようとすると政治家が干される構図と同じだ。既得権益に逆らうものは排除されるし、幽玄を疑うものはバカ扱いされる。
よくできた仕組みである。ぜひマスコミに叩いて欲しい。ゼネコンと政治家の癒着はしょっちゅうマスメディアを賑わせているが、能と幽玄の癒着は一度も問題になったことがないのではないか。新聞社の皆さん、特ダネですよ。ぜひ明日の一面は「能と幽玄の黒い密会。検察は起訴の構え」とかにしてください。
オジサンとオジサンの声を聞き分ける地獄
伝統芸能にはありがちなことだが、能は男しか出ない。
あと、若手の能楽師というのはほとんどいないらしく、僕が見に行った公演にはオジサンしか出てこなかった。
ここも既得権益を感じる。オジサンといえば既得権益、既得権益といえばオジサン。世の中の既得権益はほとんどオジサンによって独占されているものだ。
まあそうは言っても、オジサンであることに意味があるならまだいい。「これはオジサンじゃないとできないよね〜」みたいな技術があるなら納得できるのだ。
しかし、実際はオジサンじゃなくて女性を出した方がいいよなぁという強い気持ちが発生した。
僕が見た公演のメインは「藤戸」という演目だった。
あらすじをざっくり言うとこんな感じ。
とある武将が、戦争の途中で出会った若者に貴重な情報を聞いた。
武将はその情報をありがたく思ったが、漏洩を防ぐために若者を殺してしまった。
その情報のお陰もあり、戦争は無事に終わったが、殺された若者の母親は失意に沈んでいた。
母親は武将に謁見し、「我が子を返せ!」と半狂乱になり転げ回る…
主な登場人物は、武将(オジサン)と母親(女性)なワケだが、前述の通り能にはオジサンしか出ない。つまり、武将(オジサン)と母親(オジサン)になってしまう。
しかも、女性役だからといって特に声色を変えたりしない、武将もオジサンも同じように、能特有のビブラートがかかった高音のオジサンボイスで喋る。
オジサンとオジサンが、オジサンの声とオジサンの声でやり取りするのだ。純度100%のオジサンワンダーランド。
更に、演劇なんかと違って、能は喋っている人が身振り手振りをつけたりしない。口元の動きも遠くて見えないから、どっちが喋っているか分からない。
客は、よく似た2つのビブラート高音オジサンボイスを聞き分ける作業を強いられる。女性が出てくれたらこんな作業しなくて済むのに……。
「声を聞き分けなくても、セリフの内容を聞けば分かるんじゃないの?」と思ったあなたは甘い。喋ってる内容も古語なので半分くらいしか分からないのだ。「ナントカを殺し奉れば、そのナントカをナントカ候〜!」みたいなセリフを文脈から解読したいので、どっちのセリフかは聞き分けたい。
もはやこれは、推理ゲームである。不確定な「右のオジサンが喋ってるぽいな…?」という状況と「”私は悔しい”的なこと言ってるっぽいな?」というセリフ解読によって、「つまり今は母親が武将に詰め寄っているシーンかな?」と、事前に知っているシナリオに結びつける推理ゲームだ。
総合的な判断の中に、「どのオジサンが喋っているか」という要素があり、どのオジサンが喋っているかは確定しない。喋っているオジサンは確率的に推定されるだけ。シュレディンガーのオジサンともいうべき状況である。
……そろそろ自分でも何を言っているか分からなくなってきたので、次に行こう。
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