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クレーマー老婆が演じたDragon Night。あるいは、カルボナーラはペペロンチーノと同じか?

「カルボナーラはないのって聞いたら、ないって言ったじゃない」

「カルボナーラとペペロンチーノは全然違うものですけど……」

「でも私は、こういうのが食べたかったのよ」


僕のメニューを指差しながら店員にクレームをつける老婆。平和なランチタイムは一瞬で地獄に変わった。唐辛子がさっきよりも遥かに辛く感じた。


昼下がりの商店街、平和なスペインバル

ランチで新しい飲食店を開拓するのが好きだ。

ちょっと高そうなお店や、常連が幅を利かせていそうなお店でも、ランチなら気楽に入れる。なんとなくお店の様子を偵察するのは昼に限る。

特に、天気が良い日に、商店街をあてどなく歩くのがいい。

家から徒歩10分のところに、割と大きな商店街がある。チェーン店も個人店もたくさんある、少しレトロな商店街だ。

晴れた日は散歩を兼ねてここを歩く。家に近い側から開拓していくから、初見の店はもう商店街の奥にしかない。


……と思ったけれど、今日は偶然、路地裏の店を見つけた。こんな細い道に店があったんだな。雰囲気の良いスペインバル。店は10名ほどでいっぱいになりそうなサイズ。ちょっと冒険したいランチで入るのにピッタリだ。

重いガラス戸を押して入ると、愛想の良い男性が「こちらへどうぞ」と促してくれる。若い。22か23ぐらいじゃないだろうか。キッチンには30代の男性がいる。キッチンにいる方が店長だろうな、と思った。

メニューを見る。パエリアが一番のウリのようだったが、「本日のパスタ」が目を引いた。「牡蠣とトマトのペペロンチーノ」だ。パスタは日替わりで1品しか置いてないらしい。なぜか分からないけれど、1品しかないメニューは美味しそうに見える。このパスタはずいぶん魅力的だった。牡蠣は僕の好物でもあるし。

接客担当の若い方に「本日のパスタをお願いします」と伝えると、満面の笑みでオーダーを通してくれた。良い店に入ったなぁ、と思った。

清潔なグラスに入った水と、清潔なテーブルクロス。次いで、パスタに付いているサラダがまず運ばれてきた。かかっているドレッシングはやたら美味くて複雑な味がした。なんという名称なのか分からないドレッシングだ、と思った。


パスタが運ばれてきた。オリーブオイルと牡蠣の香りが鼻を突く。プチトマトはクタクタになるまで炒められて、表面にシワが寄っていた。牡蠣は熱が入り、身が締まっている。

たっぷりのオイルを麺に絡ませながら口に運ぶと、脳髄が直接刺激されるような快感があった。オイリーな食べ物は、幸福の暴力だ。

「美味しいものは脂肪と糖でできている」なんてキャッチコピーがあったな、と思い出す。ホモ・サピエンスは生命維持のためにエネルギー効率が良い食物を求めるように進化したはずだから、たしかにこのキャッチコピーは的を射ているのだろう。食物繊維でできた食べ物は美味くない。


そんな理屈っぽいことを考えながら、パスタを胃の腑に落としていく。その頃から、僕の斜め前方のテーブルにいた70歳前後と思しき女性ふたりのおしゃべりが不穏な空気を帯びてきた。

「アレってさぁ……」

「私言ったのにねぇ……」

あまり聞き取れないが、なんとなくこちらを見ている気がする。恐ろしい気持ちになった。僕の所作がよっぽど下品なのかとか、僕の服装がよっぽど場違いなのかとか、そういう不安が首をもたげる。

しかし、結果から言うとこれは単なる杞憂だった。彼女らが見ていたのは僕ではなく、僕が食べているパスタであった。

このご婦人たちはとっくに料理を食べ終わっていて、おしゃべりに興じていたらしい。テーブルの上の鉄鍋から察するに、パエリアを食べたのだろう。

そのうちのひとりが、「ちょっとごめんなさい」と、若い店員を呼んだ。

店員は相変わらず軽やかな足取りで、笑顔で「はい」と彼女らのテーブルに向かう。


「あのね、すっごく美味しかった。だから満足してる。でもね、ホントはもっと食べたいものがあったの」

「はい」

「私聞いたわよね。あなたに、カルボナーラみたいなの作れない?って」

「ええ、まあ」

「で、あなた何て言ったか憶えてる?」

カルボナーラはちょっと作れないですね、って答えました」

「でしょう? でもね、私はああいうの(僕のパスタを指差す)が食べたかったの」

「あー、ペペロンチーノですね」

「ああいうのが作れるなら、それを教えてほしかったわ」

「いや、でもペペロンチーノとカルボナーラは全然違うので……」

「うん、分かるけどね、私はああいうのが食べたかったの」


老齢の女性と若い男性は、僕の方をチラチラ見ながら口論(?)を始めた。

普段なら、他人と他人がケンカしているところで、「なんか揉めてるなぁ」と他人事で済む。でも、今回はあまりそんな感じがしない。なぜなら僕の食べているパスタが口論を引き起こしているからだ。明らかに僕は関係ないにも関わらず、「私はアレが食べたかった」と彼女が言うたびに、みんなの視線が僕に注がれる。楽しかったはずのランチは、落ち着かない衆人環視の食事に変わった。

それにしても、この老齢の女性、何を言ってるのかさっぱり分からない。「カルボナーラを出せと言ったらお前は無理といった。しかしペペロンチーノは作れるじゃないか。ペペロンチーノを提案するべきだった」という謎のクレームである。

よく分からないのは、この店のメニューには「牡蠣とトマトのペペロンチーノ」と明記されていることだ。明記されているんだから提案しなくてもいいような気がするのだが、老齢の女性は「お前がペペロンチーノを提案しなかったのはお前の落ち度だ」と怒っている。


「彼女は何に怒っているのだろう」と、若き店員は頭を抱えていた。彼は、この厄介なクレーマーに対処しなければならない。そして、僕も頭を抱えていた僕は、この厄介なクレーマーを横目にパスタを食べ切らなければならない。「アレを私に食わせるべきだった!」とキレる人を横目に食事を終えるのには相当の精神力が必要とされる。

もはや食事を楽しむ時間ではなく、単にノルマとして腹に入れる時間になってしまった。淡々とフォークを口に運びながら、彼女と店員のやり取りを聞き続けた。


「それなのに、あなたはそれを教えてくれないから、私は諦めたのよ。教えてくれてもよかったじゃない」

「カルボナーラみたいなものは作れなかったので……」

「うん。そうだけどね、でもアレは作れるんでしょ。だったら教えてほしかったのよ」


老齢の女性は、意味不明の主張を繰り返している。

乗りかかった船というか、話を聞き始めてしまったからには、僕は謎を解きたくなる性分である。いったいなぜ彼女は怒っているのか? 

美味しいランチが邪魔されてしまった悲しみは、いつしかこの老婆への興味に変わっていた。謎を解きたい、と強く思った。

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