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軍にも大学にも入らなかったインディアンは、どうすればいいのか-ポジ自責とネガ自責の話。

「ウィンド・リバー」という映画を見た。Amazonプライムで無料。

(本記事内の画像は全てこの映画中から引用)


ワイオミング州にある、アメリカ先住民の居留地「ウィンド・リバー」で実際に起こった事件を元に制作された映画である。

キャッチコピーは「なぜ、この土地では少女ばかりが殺されるのか」。

僕はこの説明を読んで「はいはい社会派のヤツね」と思いながら見始めた。なんとなくこういう「実話×社会問題」系の映画は「はいはい社会派のヤツね」と斜に構えて見てしまうの、僕の悪癖かもしれない。

でも実際、3回に1回くらいは「説教臭くて面白くないな」ってなるので、この悪癖は自分を守るための盾でもあるのかもしれない。善と悪は表裏一体である。


で、今回も「はいはい社会派のヤツね」で見始めたのだが、これが大当たりだった。全然説教臭くない。面白い。いい映画だったな~という喜びとともにエンドロールを眺めることになった。

扱ってるテーマこそ重いものの、展開はスムーズだし銃撃戦は迫力あるし、サスペンスとしても楽しめるエンタメ性。


登場人物も超カッコいい。

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ジェレミー・レナー演じる主人公がめっちゃ良いのよ。ハードボイルド

アメリカ先住民の居留地に住んでて、かつて自分の娘も殺されている。そして今回、親友の娘も殺された

そんなとんでもない不幸凝縮パパなのに、一切怒ったり泣いたりしない。常に淡々としている。淡々と銃をぶっ放す。カッコいい。


舞台がアメリカ西部の先住民居留地ってこともあって、明らかに西部劇を意識した作り。現代アメリカの映画なのに、伝統的な西部劇風のハードボイルドが見られる。この辺、監督のセンスが光ってる。

映像もカッコいいし、ハードボイルドな会話も情感たっぷりで、すごくいい。


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「お前はこれからどうする気だ?」という(娘を殺された)親友からの問いかけに対する回答がこれ。

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俺はハンターだ。分かるだろ」だって。いいねぇ~。ベタな西部劇。ベタなハードボイルド。たまらない。


で、まあそんなハードボイルド感だったり監督の素晴らしい映像感覚だったりが素晴らしくてとても良い映画なんだけど、中でもグッと来たのがこのシーン。

先住民の街に生まれた者の鬱屈がたっぷり詰まっている素晴らしいシーンだ。

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インディアンの街に生まれ、ロクな楽しみや生きがいを見つけられないままに大人になり、将来への希望もなく、自然に”ならず者”になった男。警察に捕まった彼の独白。

この街のせいだ。何もかも奪ってく

彼の人生を象徴するようなこの一言に対し、主人公はこう返答する。


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抜け出したければチャンスはあったのに、軍や大学じゃなくこの生き方を選んだ。お前の選択だ


ぐうの音も出ない正論である。かわいそう。「それ言ったら終わりですやん」みたいな顔してる。ママに怒られてるときののび太と同じ角度でうつむいてる。


…と、まあね、クセでつい茶化しちゃったけど、このシーンもすごく切実で良いシーンなのよ。

主人公もただ正論をぶつける人じゃないからね。自分もこの街に住み、この街で娘を失い、行き場のない悲しみを抱えながら暮らしているから。

先住民居留地の生活の厳しさ、希望の見えなさ、鬱屈した感情が、この夜のシーンにギュッと詰まっている。


すごく良いシーンだったので、映画を全部見終わった後、もう一回再生しながら、色々考えた。

先住民居留地に住む彼(以下、サム)は、結局どうすればよかったのか。確かに彼は「抜け出したければチャンスはあった」のかもしれないけど、それで「お前の選択だ」って言われちゃうのはあまりにも酷なんじゃないか。

かつて大学や軍を選ばなかった彼は、もう人生を選び直すチャンスはないのだろうか。


「自責」と「他責」という二元論

ビジネスパーソンが好んで使う表現に、こういうものがある。

他責思考のヤツは成長しない。自責思考を持て

ビジネス書で腐るほど語られる内容だ。誰かのせいにしても何も好転しない。問題の原因を自分だと考えろ、みたいな話。

僕は概ねこれに同意している。他者はコントロール不可能だが、自分はコントロール可能だ。他者をどうにかしようとしても無意味だ。問題があるなら、自分でなにかを変えるしかない。


で、今回のサムの発想は、まさに他責思考であった。「この街は何もかも奪ってく」と、自分がならずものになったことを街のせいにしている。

そこを主人公は「お前の選択だ」と、自責思考の刃で一刀両断する。

だからある意味、これは痛快なシーンでもある。自責思考を信奉している僕は「そうだそうだ!」と囃し立てたくなる痛快さがある。


ところが、この映画はできがいいゆえに、「他責思考の愚鈍が自責思考の刃に真っ二つにされた、ああよかった」で終わらせることはできない。

映画の中で、美しくも厳しい雪山の生活を上手に見せていて、見る者は先住民居留地で生活することの厳しさをひしひしと感じている。

だからこそ、この中で生活していて道を踏み外したサムを「お前の選択だ」で切り捨ててしまうのはあまりにもかわいそうだと思うことになる(少なくとも僕はそう思った)。

かといって、「かわいそうだからサムはずっと他責思考でいい」とも思わない。自分がダメなのをずっと街のせいにして、ならず者でいられても困る


じゃあ何が問題なのかと考えてみると、「他責」or「自責」という牧歌的な二元論が間違っているのではないか、という結論にたどり着いた。


自責にも二種類ある

自責思考にも実は二種類あって、ポジティブな自責とネガティブな自責がある。ちょっと長いのでポジ自責とネガ自責と呼ぶことにしよう。

ポジ自責は、未来志向。「問題の原因は自分にある」と受け止めた上で、「ではどうするか?」を考える。

ネガ自責は、過去志向。「問題の原因は自分にある」と受け止めて、「だから俺が悪いんだ…仕方のないことだ…」と絶望する。


例として、誰かがオフィスで転んで、あなたのスーツにコーヒーをこぼしちゃったとする。それぞれの考え方はこうだ。


ポジ自責:「あいつが転んじゃったのは、デスクの脇につまづくような荷物を置いていたからだ。今後は荷物を置かないようにしよう」
ネガ自責:「デスクの脇に荷物を置いていた僕が悪い……。あいつを責めないようにしよう……。僕が悪いんだから……」


ネガ自責は、本人の精神状態がひたすら悲惨になるばかりである。これはよくない。これならまだ「あのポンコツ、またこぼしやがって!!」と怒ってる他責思考の方がよほど健全だ。問題解決を前提としていないネガ自責は地獄の精神状態を招く


注意したいのは、ビジネス書で褒め称えられる「自責思考」は、(特に明記されない内に)ポジ自責のことを指していることだ。ポジ自責は素晴らしいものだが、ネガ自責は最悪だ。この区別ができてない人が、他者にネガ自責を押し付けると、とんでもないことになる。その人の精神状態は崩壊してしまうかもしれない。


サムがかわいそうなのは、ネガ自責を押し付けられているから

話を映画に戻そう。ならず者のサムがかわいそうなのは、主人公によってネガ自責を押し付けられているからだ。

「軍や大学じゃなくこの生き方を選んだ。お前の選択だ」と言われてしまったらもうどうしようもない。過去の選択を誤った自分を責めるしかないという絶望的な状況である。


映画としては、ハードボイルド世界で生きる男の厳しい一言なのでこれで良いのだけど、現実世界における上司の一言だと考えるとこれはあまりにも手厳しいのではないか。

よい上司であるためには、主人公はサムにネガ自責を押し付けてはいけない。「この街のせいだ」と他責思考になっているサムが、ポジ自責に切り替わるような言葉をかけてあげたい。

だから、「軍に入ろう。今ならまだ間に合う」とか「スキルを身に着けてこんな職に就こうぜ」とか言ってあげられるといいよね、と思う。


「お前の選択だ」と言う厳しいセリフは、ハードボイルド映画の中ならカッコいいのだけれど、実社会の中であまりやるべきではない。

あなたの会社の社訓に「ハードボイルドであれ」がない限り、「お前の選択だ」とは言わない方がいいだろう。


ネガ自責の押し付けは、「自己責任論」を産む

貧困問題における「自己責任論」が問題になって久しい。「あなたが貧しいのはあなたの努力不足のせいなのだから、貧しさを受け入れなさい」という発想。

この自己責任論も大筋で同じ問題だろう。「貧しいのがイヤだ!」という人に対して「お前の努力不足だから諦めろ」で切り捨てるのはネガ自責の押し付けである。

「貧しいのがイヤだ!」に対しては「ではこのような方針で頑張るのはいかがでしょう?」といつでも提示できるのが健全な社会だろう。提示されている上でなお貧困であり続けるなら、それは今度こそ「お前の選択だ」と言えそうだ。


起業家の家入一真さんが以前、「自己責任論は突き詰めていくと絶望しか生まれない」という意味のことを言っていた。彼はまさに「ではこのような方針で頑張るのはいかがでしょう?」という選択肢を用意するために、様々な事業を起こしている。

彼の起業は、サムに「お前の選択だ」と突きつけないための起業なのだ。


「怒りが込み上げて世界が敵に見える」

サムと主人公の会話シーンは、こう締めくくられる。

サム「怒りが込み上げて世界が敵に見える。この感情が分かるか」
主人公「分かる。でも俺は感情の方と戦う。世界には勝てない」

ネガ自責を色々なところで押し付けられてきた結果、サムは「世界が敵に見える」ようになってしまった。ネガ自責に押しつぶされてしまっていた。

実際、彼にとっての世界は「敵」だったのだろう。右からも左からも、ネガ自責を押し付けられる世界。


前述の通り、この世界は間違っているのだけれど、それでもあえてこの世界の中で生きていかないならどうすればいいか。それが主人公のセリフに現れている。

きっと、彼は無理やりにでもネガ自責を振り払い、ポジ自責を持つしかなかったのだ。残酷な世界を変えることはできない。次々に押し付けられるネガ自責を振り払い、「今からでもできることは何か?」と考えるしかない。

我々がネガ自責を押し付けられた時にすべき対応も同じだ。それを自らの内部でポジ自責に変換するしかない。世界には勝てないのだから、自分の感情と戦うしかない。


「ウィンド・リバー」、いい映画でした

以上、映画の本筋と全然関係ないのだけれど、映画体験から漠然と考えたことを書いた。

「いい映画」というのは、しばしば「脱線するための材料」になる。一つ一つのセリフやシーンが印象に残るから、そこから派生させて様々なことを考えることができる。

「脱線するための材料」は、文章を書くときに大いに役に立つ。文筆家として、これから映画を愛するものでありたい。そんなことを考えた映画体験だった。良い映画だったので皆さんもぜひどうぞ。


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今日の雑文はそんな感じです。いつもnoteでは悪口ばかり言ってるから新鮮だった。これからもたまにこういう雑文を書いていこう。ギャップ萌えを狙って。

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