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我々疑似サイコパスは、架空の物語を守りながら拡張していく。

前回の内容はこちら。


結城さん

ヘッダー画像は昨日の僕の「ホントのこと言うの禁止誕生日会」からです。誕生日プレゼントに「骨粗鬆症のイエティの脊椎」という狂気のプレゼントを持ってきた男がおり、とても面白かったです。


さて、「悲しめよ要求」についての議論、大いに面白い考察をありがとうございました。

以下、結城さんの主張を簡潔にまとめてみました。


・「悲しそうにせよ要求」の本質は、「悲しめよ」である

・人は、「医者」などの役割に対して各自の理想像を持っている

・「医者」の理想像は「患者の死を悲しむ」人である。

・理想像から外れた振る舞いをされると、「価値観の共有」に疑義が生じる

・人が関係を築くためには「価値観の共有」が必須なので、理想像から外れた人間への反発が生じる


なるほど非常にスマートな理論だと思います。僕が踏み込めていない領域でした。

”悲しそうにせよ要求”は「なぜ」生まれるのかという視点はありませんでした。僕は「必要かどうか」とか「正義かどうか」とかそっちばかり考えてましたけど、改めて考えると結城さんの視点は非常に参考になります。


「価値観の共有」の話を書かれた時、恐らく結城さんの頭にも「サピエンス全史」があったのではないかと思います。あの本の主題は「人類が反映できたのは、架空の物語を信じることができたからだ(貨幣も宗教も国家もすべて実態のない架空の存在だ)」というものでした。

ここでいう架空の物語がまさに結城さんの指摘する「価値観の共有」であり「理想像」であるように思います。

一応、サピエンス全史の著者によるTEDのプレゼンを貼っておきます。

※今回のこの書簡を書くにあたって上記のプレゼンを見直しましたが、実に素晴らしいプレゼンですね。何回見てもいい。こういうプレゼンをしたいものです。


確かに、理想像を守るため、ひいては架空の物語を守るために「悲しそうにせよ要求」が生まれるのだと考えていくと、すごくすっきりします。

人類にとって、架空の物語の崩壊は大いに回避すべきところです。なぜなら、人間社会は架空の物語によって支えられているからです。

したがって、架空の物語の崩壊を招く可能性のある言説や行動は、全て排斥される方向に行く、すなわち、患者の死を悲しまない医者は排斥される、という感じですね。


疑似サイコパスの今後の行動について

さて、今回の結城さんの考察を受けて新しい視点を獲得したので、もう少し踏み込んで「今後の行動」について考えることができそうです。

ちなみに、前回の書簡で僕があげた対処法は以下の2つでした。

①メタ的必要性に合わせて最低限の対応をする(悲しそうにする)
②「悲しそうにせよ要求」は得しないからやめようぜと声を上げていく。メタ的合理性を減らしていく


今回の論に移る前に、1つ確認です。

僕は一応、感情があります。悲しいことがあったら悲しいです。が、それを強くアピールする必要性を感じないし、次の対処のためにはアピールすることは有害ですらあるので、アピール(およびその元凶となる悲しみ)を殺しがちです。

だからある意味で「悲しめよ要求」は見当違いな要求ではあります。要求されるまでもなく悲しみは感じているからです。

アピールを殺してすぐに次の対処に映るから、周りから見ると「悲しみがなさそう」に見えるよ、という存在なワケです。これを便宜上”疑似サイコパス”と名付けます。

結城さんは、前回の書簡で①の対策は本質的ではない(民衆は悲しみを表明せよと要求しているわけではなく悲しめと要求している)という主張をされていますが、僕はそうは思いません。

僕は疑似サイコパスであり、悲しみは”ある”からです。悲しみはあるのだけれど、それを表に出さないだけです。

悲しみが”あるかないか”という二択と、悲しみを”表に出すか出さないか”という二択が、独立に存在しているだけです。

だから、①の対応をすることは大いなる解決であるように思います。(ムダだからあんまりしたくないけど)


さて、今回の内容を加えた検討に移ります。

今回の議論から得られた知見を反映させても、取る対応は概ね前回の①②と同じであるように思います。

ただ、①に対する意識が変わってきますね。「架空の物語を崩壊させないため」という目的が明確に頭に置かれていると、①をやることも「まあ仕方ないか…」という気持ちになります。

”価値観を共有している”という架空の物語を崩壊させないために我々がやっている行動は無数にあります。”愛想笑い”もそうですし、”挨拶”もそうです。

今後も僕は、架空の物語を崩壊させない程度には①をちょこちょこやりつつ、②をやっていく、というスタンスかなと思います。

狂人として振り切るか、仮面をかぶるかという二択を結城さんは挙げてらっしゃいましたが、そこはもっとグラデーションで解決できるのでは、という気がしました。

①と②を両立することは、別に矛盾しません。先述の通り、疑似サイコパスが①をやることは、「悲しんでないけど悲しんでいるフリをする」ではなく、「出していなかった悲しみをあえて表明する」であり、②をやることは「でも悲しみをあえて表明するのって非合理だからやらなくてもいいよね」と表現することであるからです。


今回の用語を使うなら、

①…架空の物語を守るための施策(私とあなたは価値観を共有しているという表明)

②…架空の物語を拡張するための施策(この部分に関しては表明しなくても、価値観を共有しているのは理解してくれという要請)

という感じになりそうです。


……以上、だいぶ議論が複雑化してきており、二日酔いの頭を急に動かしたのでちょっとフラフラします。笑


ちなみに、前回の結城さんの書簡の最後にあった「私や堀元くんも、(中略)、自然に泣けるところで無理して泣いてないのかもしれません」という部分も非常に興味深いのですが、これを取り上げ始めると

・自然に湧き上がってくる感情を抑えることは悪か?

・合理的な目的遂行のためであればどうか?

といった新しい命題が湧き出してきてとっても大変になりそうなので、一旦やめておきます。今回の議論を受けて結城さんの方で掘りたくなったら掘りはじめてください。笑


2018年5月1日 堀元

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