ショーペンハウアーがあのインフルエンサーを殴るnote
「死は全く怖くない。一番恐れるのは、この怒りがやがて風化してしまわないかということだ」
(画像引用元:HUNTER×HUNTER 1巻)
一族同胞を皆殺しにされたクラピカさえも「怒りがやがて風化してしま」うことを恐れている。人間の感情は時間とともに薄れていくものだ。
怒りもそうだし、インフルエンサーに対する「こいつ嫌い」という感情もそうだ。
そういうワケで、僕は嫌いなインフルエンサーも半年くらい経つと大抵どうでもよくなってしまう。一族同胞を皆殺しにされるどころか何の危害も加えられてない人をそんなに強く嫌い続けることはできない。人を嫌うのにもパワーが必要なのだ。
だけど、半年じゃとても忘れられないほど嫌いなインフルエンサーが今までに一人だけいた。3年くらいず~~っと嫌いで、「ネットにいる嫌いな人」という話題になる度に、僕は真っ先に「こいつ!!」と名前を挙げていた。僕とインターネットについて喋ったことがある人は、例外なく彼の悪口を聞いているだろう。そのくらい嫌いだった。
具体的には、2016年7月くらい~2019年10月くらいまで、ものすごく嫌いだった。その時期にはいつも彼の悪口を言っていた。
ところが、さすがに3年以上も嫌い続けていると息切れするというか、最近は悪口を言わなくなってきた。その主な原因は、1年以上前に彼のTwitterをミュートしたことだろう。見なくなって長い時間が経っているから、さすがに嫌いという気持ちが薄れてきた。
ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』には、国民が全員一斉に国家の敵を憎む「二分間憎悪」という時間が出てくる。毎日2分間、憎い敵の映像を大きく映し出し、国民全員でそれを見る。毎日欠かさず敵を憎むことで、国民は憎悪を忘れずにいられるのだ。
言い換えれば、憎悪にはメンテナンスが必要なのである。油を差さないと機械が錆びていくように、敵を見なければ憎しみは薄れていってしまう。独裁者ビッグ・ブラザーはそこをよく理解しているから、二分間憎悪を国民の義務にしている。
さて、幸い僕はビッグ・ブラザーによって行動を規定されておらず、嫌いなインフルエンサーを毎日2分見る必要がない。したがって、憎しみは薄れる一方だ。このままだと、彼を嫌っていたことさえ忘れてしまうかもしれない。
だけど、このまま、忘れてしまっていいのだろうか。
何かが消えゆく時、人は「完全に消えてしまう前に、何かを残さなければならない」と考えるものだ。
ダニエル・キイスの小説『アルジャーノンに花束を』の中で、卓越した知性を残りわずか数週間で失うことを知った主人公チャーリィは「知性が消える前に、研究成果をまとめあげなければ」と必死になった。
夜も昼もない。一生を要する研究を数週間に凝縮しなければならない。
ダニエルキイス.『アルジャーノンに花束を』〔新版〕(Kindleの位置No.3758).
僕も今、これに近い気持ちだ。あれだけ大きかった嫌悪が完全に消える前に、何らかの形で成果を残しておかなければならない。
僕が彼を大嫌いだった事実を、この世界に刻みつけなければならない。
そんなワケの分からない使命感が、ここ数ヶ月ずっと頭に引っかかっていた。もう枯れかかった「大嫌い」をなんとか再燃させて、悪口を書かねばならない。あんなに嫌いな人に出会う夏は二度とないだろうから。逆TSUNAMI。逆サザン。
しかし、枯れかかった情熱を再燃させるのは難しいものだ。「書かねばならぬ」と何度も思いながら、きっかけを見つけられないでいた。
そんな折、とある哲学者の古典エッセイを読んだ。
ショーペンハウアーの『読書について』である。この本、『読書について』という人畜無害そうなタイトルの割に、悪口ばっかり書いてある。
「今出ている本の9割はゴミ」「読者は大体バカ」「ヘーゲルはクソ」みたいな主張が次々に出てくるのだ。
例として、「今出ている本の9割はゴミ」のところを引用しよう。
書く力も資格もない者が書いた冗文や、からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作は、書籍全体の九割にのぼる。
ショーペンハウアー.『読書について』(光文社古典新訳文庫)(Kindleの位置No.423-424).光文社.Kindle版.
すごい語彙だ。「からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作」という表現、いつ思いついたんだろう。どんなにつまらない本を読んでもこんな悪口を思いつく気がしない。
すごく素敵な表現だと思うので、皆さんもぜひ今度使ってみて欲しい。
「この本どうだった?」
「うーん、からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作だね」
あと、なんなら本じゃなくても使える。飲食店とかでもいい。
「このラーメン屋どうだった?」
「うーん、からっぽ胃袋を満たそうと、からっぽ店主がひねり出した駄作だね」
「からっぽ○○を満たそうと、からっぽ□□がひねり出した駄作」というフォーマットを使うことによって、圧倒的な力強さで圧倒的に低い評価を表現できるので、すごくいいと思う。
……話が逸れてしまった。本題に戻ろう。
やっと、書くことができる
この『読書について』を読み終えたとき、僕は「やっと、彼についての文章を書くことができる」と思った。彼とはもちろん、大嫌いだったインフルエンサーである。
『読書について』は170年前に書かれた本である。インターネットどころか電話さえも発明されていない時代だ。だが、そんな時代にあって既に、インフルエンサーである彼のことをズバズバと批判しているのだ。
ああ、そうか。僕はこの本に出会うのを待っていたんだ、と思った。
見つけられなかったきっかけを、ついに見つけた気がした。僕はショーペンハウアーの言葉を引用しまくりながら、彼をバカにすればいいのだ。
嫌いな気持ちが薄れてしまった僕の言葉をムリに使う必要はない。ショーペンハウアーの言葉を使えばいい。このnoteは、ショーペンハウアーが彼を殴るnoteである。
そのアイディアを得たとき、数ヶ月くすぶっていた僕の思いは、一気に爆発した。くすぶっていた数ヶ月はムダではなかったのだろう。
つまり思索は人間のようなものだ。いつでも好きなときに呼びにやれるわけではなく、あちらが来てくれるのをじっと待たねばならない。
ショーペンハウアー『読書について』(光文社古典新訳文庫)(Kindleの位置No.119-120).光文社.Kindle版.
ショーペンハウアーもそう言っている。数ヶ月の時を経て、このアイディアがまさに「来てくれ」たと思う。
ということで、ここからは実名を出してそのインフルエンサーを殴っていこうと思う。ショーペンハウアーの言葉を使って。
以下有料となるが、気になる方はぜひ買って欲しい。単品購入(300円)もできるが、定期購読(500円/月)がオススメだ。いつ入ってもその月書かれた記事は全部読めるよ。3月は5本更新されるので、だいぶお得だと思う。
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