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「努力は才能」という怪しい俗説。あるいは欺瞞と努力と無能の関係。

生きている間に、何度も何度も、己の無能さを叩きつけられてきた。

一番大きかったのは、起業の失敗である。世界初の月額会員制村作りサービスなる謎の業態で起業し、1年で破綻した

あの1年間は何もかもが失敗だらけで、「おや、どうやら僕は無能らしいな」と気づいた。


その自覚は大いなる痛みを伴うものだったけれど、この上なく有意義なものでもあった。僕は己の無能を自覚することで、ずっと良い人生をデザインできるようになった。


何よりもまず、努力の量が増えた。「自分は有能である」と驕っている人間は、努力をしない。「そのままの自分でいつか認められる」と思っているからだ。昔の僕もそうだった。言い訳ばかりして努力をサボった。

無能を自覚してからは、勉強する時間が増えたし、細かいところに手を抜かなくなった。「僕は特別な人間ではないのだから、せめて精一杯やろう」という姿勢が生まれた。

この姿勢が生まれた瞬間が、明確に僕の人生の分岐点だ。「これを頑張るのは効率が悪い」とか、「そんな些末なことにこだわっても仕方ない」とか、言わなくなった。愚直にやった。その時期を境に、僕の作るものは如実に良くなったと思う。


努力は良い。誰にでもできて、効果があって、面倒だけど幸福な営みだ。僕は努力が好きだ。


「努力できるのも才能だ」

いつの日からか、そんなフレーズをよく聞くようになった。「努力はいい」と言うと、「努力も才能のひとつですよ」と返ってくる。

彼らの主張を支える傍証(?)として、こんなWEB記事もある。

こういうのを読んで、「科学的にも証明されている!努力できるのは才能なのだ!」と大騒ぎする人がたくさんいる。

しかしまあ、こういうキャッチーな話を安易に真に受けるのは避けたい。情報ソースを当たってみると、書いてあるのは「努力を続けられる人は脳の特定の部位が活性化しやすい傾向にある」という話であり、それ以上でもそれ以下でもない。生まれつきなのかどうかは分からない。

こういう記事を見て安易に騒いでいる人を見た時は「あなたの脳はいい加減なネットの情報で活性化しやすい傾向にあるんですね」と言ってあげたいところである。


それから、この記事でも「努力遺伝子」なる言葉が使われている。記事の主題は「努力できるかどうかも遺伝子で決定している」という話だ。

ホントかよ? と思ったので、元論文を当たってみた。

The genetics of music accomplishment: evidence for gene-environment correlation and interaction

読んでみると、だいぶ印象が違った。この論文における関連主張をめちゃくちゃテキトウに要約すると、こういう話だ。


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