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非凡を求めることは平凡である

Nothing is more common than the wish to be remarkable.(シェイクスピア)

 この言葉は僕をよく混乱させる。もしもシェイクスピアが生きているならば、なんとか捕まえてみてこう尋ねたい。

「その裏はまた真なのでしょうか?」と。

 僕が自分自身の天邪鬼性に気づいたのは保育園児の頃にまで遡る。ある道を行くときに、どういうわけかみんなは左にいく、と言った。その途端に僕は、どうしても右に行ってみたくなったのだ。その時の気持ちは、そのころの僕にとって初めての経験だった。僕は、みんなが左に行ってみたいというまで右になんてちっとも行きたくはなかったのだ。みんなが「いらない」というまで、欲しくも何ともなかったものを欲してしまうのだ。

 さて、その天邪鬼性に振り回されるまま僕はすくすくと育ち、小学校高学年になって初めて自分がいかに変わり者になってしまったことか、と嘆いた。

 中学生半ばほどから、僕の「普通になりたい」というチャレンジが始まる。まるで妖怪人間ベムのようだ。「早く人間になりたい」

 そんな風に過ごした中学時代はとても苦しい時期だった。みんなと同じように計画を立てて勉強をしたし、サボるべきところでサボった。ゲームをしてみたり、アイドルのポスターを部屋に貼ってみたり。

 それでも成績はあまり上がらず、疲れも取れず、ゲームはつまらないままだった。アイドルのポスターは友達に譲ってしまった。

 そんなこんなで、僕は高校一年生くらいの頃、平凡になろうとする努力を放棄した。みんなが勉強しないようなタイミングで勉強したし、頑張るべきところでサボった。ゲームをやらなくなったし、部屋にはアボリジニーの絵を飾った。

 そんな風に過ごすと、ずいぶんと楽になった。意外と周りも、そういう僕の変なあり方をつついたりはしなくなった。そして、特に勉強に関して、僕はかなりいい成果をあげた。

[注意]ここから先は自慢話をします。そういうのが不快だという方は引き返してください。

 僕は高校二年生の頃の成績が最もいい。なぜなら、高校二年生という時期はみんなが勉強をサボる時期だからだ笑

 その時の僕はかなり忙しく過ごしていたと思う。剣道部の副部長だったし、映画部で脚本を書いていたし、校内行事のセクション長をしていたし、寮長もしていた。(もっとも、寮長の仕事なんて大してないのだが笑)小説だって書いていた。

 その頃、僕はスマホやパソコン持ち込み禁止の寮に住んでいたので(そして、寮長であるがゆえに、その規則を破れなかったので)電子辞書で小説を書いていた笑

 Brainという電子辞書のテキスト・メモという機能だ。この世界に、果たして電子辞書で書かれた小説がどれほどあるのだろうか?笑

 そんな風に隙間を縫って様々な物事を並行的に進めた結果、僕の成績は、僕の受験勉強史上もっとも良いものになった。確か、河合塾の全統記述模試だったと思うが(いや、駿台全国模試だったかもしれない。とにかく、それらのどちらかだ。)全国で七番になった。その時、国語の成績がたまたま全国で一番だったので、そのネタを利用してブログを書いている笑(そんなものが小説の出来と何の関係もないことくらい分かっているのだが笑)
 この成績は、非凡なものとして括っても、そんなにはおかしくないのではないだろうか?(^^;

 さて、自慢話はこれで必要十分だ。この話によって僕が言いたかったのは以下のようなものだ。

 『全国模試の成績』という客観的な指標があるので僕は、周囲に対して僕のあり方の正当性を主張できる。しかし、そういった指標が無かったとしたらどうだろう?

 成績を上げさせようと考える親や、先生たちは、絶対に僕のような過ごし方を勧めないだろうと思う。彼らは口を揃えて「〇〇する暇があったら、勉強しなさい」と言う。僕にはその「余計」な〇〇が多すぎる笑

 ここで僕が強調しておきたいのは以下のようなことだ。

受験勉強という単純で、狭くて、客観的な評価が容易い世界においてすら、成功に至る経路は複雑でよく分からない

 僕は高校一年生くらいから、特に変わらない過ごし方をしている。平凡を願わず、もちろん、非凡だって願わない。そもそも、平凡か非凡か、という基準は大抵の場合、意識されることがない。そんな風に過ごしている。

 そして今、僕は客観的な指標のない世界にいる。それでも僕は、僕のあり方の正当性を周囲に主張できるのか、という疑問が湧き上がってくる。


「良い結果を出すまで自身の正当性など主張しなくていいだろう」と言う人もいるだろう。その通りだけれど、僕が言いたいのは「結果の良し悪しを測る客観的指標が無い中、いかに自分のあり方の相応しさを言えばいいのだろう?」ということだ。僕は、今の僕のあり方にかなり満足している。しかし、周囲から(特に親から)お門違いの期待をされることがあって、それを否定するときに、何を根拠に否定すればいいのだろう、ということだ。やはり、主観的な幸せをよりどころにするしかないのだろうか?
 それはとりもなおさず、「分かる人には分かるし、そうでない人には説明しようがない」と言うことになる。主観的な指標に頼る、とはそういうことだからだ。

 そこで僕は冒頭の言葉に戻ることになる。この言葉は、僕から見れば、ずいぶんと意地悪な言葉のように思える。僕が知りたいことからほんの少しずれている一方で、無関係でもないからだ笑

 苦し紛れに、僕はこの主張の対偶をとってみたりする。「平凡でない、ということは非凡を求めないことなのだ」と。そうだとしたら、中学生の頃の、苦しんでいる上に大した客観的成果を出していなかった僕は「平凡でなかった」ということになるのかもしれない。

 やはり、混乱する笑

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